095:ビートルズ −A smile of a machine doll 6−
大事なものは何処までも受け継がれる。
時を越え、形を変えようともそれに秘められた意志、想いは遥か彼方何処までも。
騒然とした街。
雑踏の中で少年が1人、ただ歩いている。
これだけ多くの人間が居ても結局少年は自分1人しか居ないような、そんな違和感を抱えながら。
歩く、歩く。
足の向くまま、ただ歩き続けた。
立ち止まる、振り返る。
誰かに呼ばれたような気がした。その振り返ったその先に見えたものは少女の微笑。
少年は数度右目を擦る。その後左目も同じように擦った。
そこには布をまとって殆ど表情の見えない人物とその隣に無表情に佇む少女の姿があった。
少年は振り返り、その少女たちの方へと足を進める。
「いらっしゃい、坊や。何をリクエストするかい?」
「リクエスト…?」
その顔の人物は少年に声を掛ける。声からして爺さんのようだが少年は意図がまだ掴めずに何も
言えず、その隣の少女の方に視線を移した。
グリーンの、まるでガラス玉のような瞳をゆっくりとこちらに向ける。肩ぐらいまで伸びた栗色
の髪が、ふわりと人の動きによって生じた微風になびく。その表情は相変わらずの無表情ののま
まだった。少年は突然顔を近づけてその少女の表情をまじまじと見る。
「じいさん…この子、『ウィル』?」
「ほう…よく分かったな」
『ウィル』とはこの世界に日常的に存在する機械人形。人間の理想を夢見た何処かの誰かが作っ
たらしい人間のために存在する道具。それは時折人間の変わりに雑誌やヴィジョンやキネマにも
現れているのだから、こんな所に居ても今更違和感など感じないが。
「ところで、リクエストって…?」
少年が先ほどのことを思い出し、尋ねた。老人らしき人物の方は、少し震える指で人形の隣の看
板を指差した。そこに少し癖のある字で大きくこう書かれていた。
貴方の聞きたい歌・歌います 一曲500リッチ
大体100リッチで菓子パン一個が買えるぐらいだと考えてもらえればいいだろう。
少年が、思わずポケットの中を両の手で探る。小銭のジャラジャラした音が微かに聞こえた。足
りるかどうか考えながらも少年はもうすっかり聞く気らしい。
「これで足りるかい?」
ポケットから取り出した小銭を数回に渡って確かめる布を被った人物。『ウィル』ならこの程度
の計算は簡単だろうに、人形は何も言わずその人物の所作をじっと黙って見ていた。
「ちょうどだな、じゃあリクエストしてくれ」
老人らしき人物が少年にそう言うと、少年は少し考えた様子を見せてこう告げた。
「では、その『ウィル』が一番得意な奴か歌いたい歌でいいよ」
少し意地悪なリクエストだったかもしれない。
人形は与えられたプログラムのまま、誰かに命じられて歌うもの。得意な歌も歌い歌も無い。少
年自身も馬鹿げたものだと考え取り消すように口を開いたその瞬間、人形が喋りだした。
「それでいいのですね」
少年はそりゃあ驚いた。あんな無茶な要求が通るなんて考えてなかったからだ、単に流しの人形
が珍しかったからからかい半分だったにすぎないのに。
人形が、前に一歩踏み出し大きく息を吸い込んだかのように錯覚した。
道行く人々が足を止め、また歩き始めている。
幅広いその音域はとても1人で歌っているとは思えない程で、変声期前の少年のソプラノから地
獄の王のような低音のテノールまでを歌いこなす。しかもそれは単にプログラムを再生し、辿っ
たというレベルのものではなく歌い手の解釈が込められているような錯覚すら覚える。
その歌は初めて聞く曲なのに、とても懐かしさが込み上げてくる。
声は風に乗り、大気に溶け、世界に溶け込んでいく
少年はそこに立ち尽くしていた。
最早思考する余地は頭の中に存在せず、ただ…ただ、その人形が歌う歌声に全感覚を委ねていた。
真っ白になった自分の中に新しい世界が構築されていく。今までの価値観や思い込み全てを無に
返し新しい価値観を移植し、構築され、そして体全体に馴染んでいく。そんな衝撃が生まれていた。
それはほんの数分の出来事。
けれど人一人に衝撃を与えるには十分な時間。
夢が、終わる。
少年はその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
「坊や、坊や」
自分の事だと気が付くのに数度呼びかけられた。意識が、こちらの世界の感覚に馴染み始める。先
ほどまでのあの感動はどうなったのか、人々はこちらに気が付くことがなく歩き続けている。
「あ、あの…」
言葉が上手く出てこない。少年は人形に視線を移す。先ほどまでと違い、今ではまたあの無表情な
まま視線を少年に向ける。そして、不意に人形は少年を見ると微笑んだ。
人形ではない、それは人と同じ微笑に少年は戸惑った。
「新しい主を見つけたようだな」
「はい」
老人のような男と人形が交わす会話の意図がつかめなくて、先ほどから驚くことばかり連続して起
こっていることもあり少年はどう反応を返して良いか判らないままそこにいる。
「坊や、彼女はお前さんが気に入ったようだ。こいつを譲り受けて貰えないか?」
「は、はあ・・・・・・・・・・・・・えええええっ!!!!」
これ以上の驚きに比べれば以前のことが何でも無いようで少年は我に帰ると絶叫をあげた。
「この『ウィル』は欠陥品でな、ある特殊信号を持つ人間の希望でなければ歌わないのだよ。坊や、
どうやら君はその特殊信号を持つ人間らしい」
「だ、だからって…『ウィル』は結構…」
「問題ない」
ウィルはその性能故にかなりの高級品で、ピンでも一体100万リッチ(日本円換算にて100万円)、
最高級品ともなれば家一軒建つ程の値が付けられるものだ。それが突然自分に与えられるとなれば誰
だって驚きモノである。それが問題ないということで片付けられる場合など…それに『ウィル』所有
者には書類上の手続きを踏んだ純正品のみが所有を許されるのである。欠陥品だとは言え、出所の判
らない人形を引き取るとは簡単には言えなかった。しかし、目の前の人物は少年のそんな困惑も全て
見通している模様で少年の前に封筒を差し出した。
「これが正規の書類だ。メンテナンスの方はヴェント・メタタルジー屍生師の方に頼めばいいように
しておくよう連絡しておこう。そいつはこれが欠陥品だと判っても大丈夫なところだよ」
「アンタ…」
何者かと聞こうとしたが、その人物は人形の方に別れを告げていた。
「これからは彼の元で存分に歌いなさい、楽しかったよ」
「今まで、お側で歌わせてくれてありがとう」
そうしてその人物は人形は抱き合ったあと、雑踏の中に消えていってしまった。
残されたのは、少年と人形一体。
どうしようかと考えて、右手の書類を一通り眺めた。どうやら偽造では無いらしくそれを少年は封筒
にしまい直すと隣に立つ人形を眺めた。人形は、少年よりもすこし背が高かった。
「あの…ええと…」
「どうしました?」
表情は相変わらずの無表情のままだった。
「俺の名前は…ムジカ・クラシッカ。君の名前は?」
「私はリートとお呼び下さい」
「リート…君は何者なんだ」
「私は機械人形『ウィル』の欠陥品。ただ、歌を歌うために作られた人形。私の目的は歌うことだけ」
恐らく何処かの金持ちが特注で作らせた愛玩用の人形なのだろう。それが何かの理由で欠陥品となり
あの人物の手に渡り、今はこうして自分の元に居る。
少年は、どうしようか考えた。
そして決めた。
取りあえず彼女を歌わせるための場所を探そう。あの声が再び聞けるように防音の付いた部屋を探さ
なければならない、これからのことはそれから考えようと思った。
「もう一つ聞いてもいい?」
「何でしょうか」
「さっきのは何ていう歌なんだい?出来ればもう一度聞きたい」
その言葉を聴いて人形は少年の方に視線を向ける。そして先ほどの無表情さとは表情を一変させた。
それは、最初に感じたあの微笑だった。
「この曲は『THE WORD』 遠い遥か昔に世界にあった歌」
少年は地面に腰を下ろす。
そして人形の歌う遥か昔の、何処か郷愁すら感じる歌に耳も、心も任せていた。
歌う人形は、その歌を聴いてくれるたった一人のために歌い始めた。
少年は世界を1人で歩いていくことはないだろう、これからは、自分を必要とする人形とともに1人と
1体の不思議な旅が始まる。