089:マニキュア
赤いマニキュアは子供の頃の鮮烈な記憶
私は近所のお姉さんが大好きだった。
綺麗で、髪が長くて、細くて、すらっとしていて、子供だった私から見てもお姉さんは憧れの的だった。
私はよくお姉さんの家に遊びにいった。
不思議に、お姉さんは私とよく遊んでくれた。勿論、遊ぶといってもお人形さんごっこなどお姉さんが
する訳ではない。私がお姉さんの家にいって何をしているのかというと、本を読んでいるのであった。
お姉さんの家、いや部屋はまるで本屋さんのようにいろんな本があった。
それなのに、綺麗にいつも本が並べられて、床から天井まで何処を見ても本・本・本という有様だった。
私が遊びに行くとお姉さんはいつもお菓子を用意してくれていた。
お姉さんは私が読みたい本をとって渡すと、私は本を読む。お姉さんはというと、机の上にある箱に向かい
時々「畜生!」とか「あ〜〜駄目」とか叫んで機嫌が悪かったりしたと思うと「あー、あたしって天才?」
とか言いながらニヤけて居る時もあった。
お姉さんは外にいるときの参観日のお母さんのような格好とは違って、殆ど体操のときの服とか、お父さん
のようにシャツと半ズボンのような男の子みたいな格好をして鉢巻を巻いていたりと色々な格好をしていた。
それでも、不思議にお姉さんの爪はいつも真っ赤に塗られていた。
機嫌が悪い時は少し怖かったけど、私はそんなお姉さんも大好きだった
お姉さんの本棚には色々な本があった。
絵本・動物の本・植物の本・お菓子の本に車の本。中には字ばっかりで全然読めない本も沢山あった。
それでも、子供心にここは自分にとっての天国だと思った。
大好きな絵本と、お菓子とお姉さんがいるのだから、ずっとずっとここに居たいと思ってしまった。
お母さんは本ばっかり読んで全然遊ばないって、何かお父さんに言っていたみたいだけど、私はそんな
の気にしなかった。だって、本当に天国みたいな場所を見つけてしまったのだから、一緒に遊ぶ友達な
んていらないから。
今日も毎日のようにお姉さんの家に遊びに行った。
今日もいつもと変わらないお姉さんがそこにいた。私はいつものように読む本を決めると、本を見ながら
何気なくお姉さんの方を見た。
お姉さんの指が透明だった
お姉さんの家から戻ろうとするとき、お姉さんがふいに私に聞いた。
「ねえ、……ちゃんは何の本が一番好き?」
私は持っていた本をお姉さんに差し出す。それは一冊の絵本だった。
その中に出てくる生き物が、何だかお姉さんにそっくりでだから私はその絵本が大好きだった、
お姉さんが驚いたようにその本を見て、それから少し微笑む。
私は嬉しくなってはしゃいだ。
お姉さんはその本をもう一度見て、それから
「またね」
と私を見送ってくれた。
私はその時何も感じず、また明日お姉さんに会えるのを楽しみにしていた。
その翌日、遠い親戚がなくなったとかで私は母に連れられて行った。
お姉さんに会えなかったのが悔しかったが、親戚で美味しい物を沢山ご馳走してもらい、それは美味しかった。
その次の日
私はいつも通りお姉さんの部屋に向かった。
しかし、そこで見たのは……
何にもなくなったお姉さんの部屋だった
あの壁を、天井を、床を埋め尽くす程の本棚と本に埋もれた書斎がお姉さんごとすっかり消えてしまった。
私は何度も確認したがお姉さんはいなかった。私が泣いているとお姉さんの部屋にいつもくるおばさんが
側にいた。
「あの子は、昨日引っ越したんだよ」
それは私にも他の人にも言わないでほしい、と言っていたとお姉さんのおばさんが少し寂しげいに呟いた。
おばさんは何かを思い出したかのように、一旦何処かにいってからまた戻ってきた。
「あの子が、貴方が来たらこれを渡してほしいって」
そういって渡されたのはあの日私が一番好きだといった絵本だった。
私は、そのあとどうやったかなんて判らないけどとにかく家には戻ったらしい。それから覚えているのは、
お姉さんといたあの天国のような空間にはもう二度と居られないことだけだった。
私は泣いて泣いて泣いて泣いて……そして本の最後に挟まれたお姉さんの手紙を見つけた。
私はまだ難しいことは分からなかったので、母に声にして読んでもらった。
……ちゃんへ
突然いなくなってごめんね
私は今日、田舎の両親の元に戻ります。
実は私のお父さんが病気で倒れました。田舎から飛び出して、好きに生きていたけど私はやっぱりあの
田舎と父のことがとても大事なことに気が付きました。だからこれ以上それを失わないためにも、私は
一度田舎に戻ってじっくり考えてみたいと思います。
突然のことだったので、ちゃんとさよならが言えなかったね。
私は貴方がこの町での一番の友達でした。今まで本当にありがとう。
貴方も体を大事にして、自分の大事なものを守れるようになってください。
追伸:この手紙を読んでいるということは本を預かったのだと思います。
貴方が一番好きだといってくれたこの本をプレゼントします。大事にしてくれると嬉しいです。
手紙を母に読んでもらって、私は涙が零れた
私は本が好きだったんじゃない、お姉さんが本当に好きだったのだと気付くのが本当に遅かった。
私は、落ち着くまでずっと母の前で泣きじゃくっていた。
それでも赤いマニキュアの鮮烈な記憶は、いつまでも私の中に残り続けていた。
後から聞いた話だが、私が貰った絵本の作者はお姉さんだった。
お姉さんは自費出版で本を数点出しており、結構その世界では名が通った人でもあったのだ。
私はそれから何度も何度も本の背表紙が擦り切れるぐらいにその本を読んでいた。
それから数年後、私もすっかり『青年』と呼ばれる人間の仲間入りを果たしていた。
それでも、時折赤いマニキュアの女性を見るとお姉さんのことを思い出して胸の奥がチクンと刺される。
「ただいまー」
「お帰り」
テーブルの上に乗っていた私宛の手紙を見つけ、私は自室に戻って急いで、丁寧に手紙の封を開けた。
見慣れた文字がそこに綴られていた。私は一度手紙を読み終えると同封されていた写真をじっくりと見る。
そこには、少し年を取ったけどあの当時の面影を残した『お姉さん』とお姉さんの家族が居た。
私はその後、貰った絵本からお姉さんの居場所を探し、手紙を送ったのだ。それ以来お姉さんとは時々手紙
のやりとりをしていたのだ。
私…いやもう私という言い方は可笑しいかな。私…もとい、僕はもう一度手紙を読み返し、写真を見る。日
に焼けて黒くなったお姉さんの手にはもうあの『赤いマニキュア』は塗られてなかったし、あの長かった髪
もばっさり切られていた。それでも写真の中の彼女の表情は幸せそうで、それが僕を少し安堵させた。
今思えば、あれは僕の初恋だったのかもしれない。
お姉さん手紙ではまた暇をみては物語を書いているのだという事だった。
僕は本棚の片隅からあの『絵本』を取り出して側に置いてから返事を書き始めた。
拝啓、お元気ですか?僕も元気にやっています……
2003/02/22 tarasuji
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