088:髪結の亭主
池は、男が流した涙で波紋が途切れることは無かった。
それはむかしむかしの悲しい話。
何処か知らない小さな町に、清次郎とお葉という若夫婦が住んでいた。
二人は同じ村の出身の隣同士で、小さい頃からとても仲がよかった。一
緒に遊び、一緒に育った二人は当然の如く将来を誓い合った。
二人が成長したある日、清次郎は遠い町で働くことになった。
両親が急死し、借金を抱えた清次郎は、先祖伝来の田畑を売って借金を
返した。しかし、既に土地も何も無くなった清次郎は遠くの町で働くこ
ととなったのであった。しかし、それを知ったお葉は嘆き悲しみ、清次
郎が遠くの町に旅立って数ヵ月後に家を飛び出して清次郎の後を追った。
清次郎は知人のツテで小間物屋に下働きとして勤めていた。最初は慣れ
ない環境に戸惑ったが、元々が人当たりも良く仕事も順調だった。時折、
村にいるはずのお葉のことを思い出しては、胸を痛めていた。彼の心の
中にはいつもお葉が居て、いつか彼女を迎えに行くのが清次郎の心の支
えとなっていた。
一方、お葉の方はというと、無一文で知らない町に出てきて右も左も判
らず困っていたところを通りすがりの女性に助けられた。その女性はお
菊といい、初対面のお葉の話をじっくりと聞いてくれた。
そして、お葉に自分の家に住むように勧め、その上手に職を付けた方が
いいと自分の弟子になることを勧めてくれた。お葉は、その申し出を受
けてお菊の元で髪結いの仕事につく事になった。お菊はこの町では腕の
いい髪結いとして名が知れており、あちこちで引っ張りだこになるほど
だった。お葉も時には厳しいお菊の側で必死に仕事を覚えていった。
その合間に清次郎を探すことも勿論忘れてはいなかった。行く先々で聞
いてみるものの、一行に清次郎は見つからなかった。
それなりに技術も身についてきたお葉に、忙しいお菊の代わりにある大
店の女中の髪結いを頼みたいという仕事が舞い込んだ。いつもの様に勝
手口から入り、庭先にて待つと聞き覚えのある声がした。お葉が、駆け
寄るとそれは愛しい清次郎の声だった。
こうして、二人は再び出会ったのであった。
再開を果たした二人は、当然の如く所帯を持った。
子供はまだ出来なかったが、二人はささやかながら仲むつまじく暮らし
ていた。清次郎は小間物屋の主人に認められ、少しずつだが、責任ある
仕事を任されるようになった。お葉の方も髪結いの仕事が軌道にのって
きたところであった。
二人は、その時までは本当に幸せに暮らしていた。
ある日の事だった。
仕事から家に戻ってきた清次郎が戸を開けるが、人の気配がない。いつ
もなら、もうとっくに戻っていて夕餉の支度をしてくれている筈のお葉
の姿がそこに無かった。清次郎はお葉も大変な事を知っていたので、た
まには自分が支度をしてお葉を喜ばせようと材料を買ってきて夕餉の支
度を始めた。
しかし、お葉はその晩戻ってこなかった。
いくら仕事とは言え、今までお葉が連絡もよこさず戻ってこないことな
ど無かったので、心配になりお菊のところに行くが来ていないと言う。
思い当たるところは全て回ったが、お葉の姿は何処にもなかった。体は
疲れ、足は棒のようになっていたが、お葉がいないことが不安で仕方な
かった。家に戻ってみると、戸の前には数人の与力が居た。もしや、お
葉が見つかったのではないかと、足を進める清次郎。与力たちが、清次
郎の姿を見つけると、彼の方に近付いてきた。
「お主が、清次郎か?」
「はあ、そうでございますが」
与力は清次郎の顔をじろじろと眺めると、更にこう尋ねてきた。
「お主にはお葉という女房がいるな」
「はい、確かにお葉は私の女房です。しかし、お葉は昨晩から戻ってお
りません。女房は何処に行ったのかご存知なのですか?」
そんな清次郎の様子に与力も何と言っていいか、言葉を詰まらせる。そ
うして、その与力の口から出てきたのは最も清次郎が考えたく無かった
事だった。
「今日の巳の刻ごろ、法然寺の裏の池からお葉の仏が上がった。それで
亭主のお前に確認を・・・」
それ以上は清次郎の耳に何も聞こえなくなった。奉行所でお葉の遺体を
確認した時も清次郎は心ここにあらずの状態だった。身につけたお守り
からお葉だということを確認し、それからは家のあった長屋の皆が簡素
ではあるが葬式をあげてくれた。その間も、清次郎は泣く訳でもなく、
淡々と葬儀を行っていた。普段の二人の仲むつまじさを知っていた近隣
の住民はそれを見てかえっに憐れに思った。
お葉が池に落ちたのは自殺なのか、それとも事故なのか、誰かに殺され
たのかその理由は調べても明らかにされず、結局のところは事故だとい
うことで話は終わった。清次郎はそれから、毎日法然寺の裏の池に毎日
通っては誰にも見られないようにそこで涙を流していた。
それから一年程たったある日の事であった。
いつものように仕事が終わってから清次郎は法然寺の裏の池でお葉の事
を思っていた時、ふとそこに二人の男が通りがかった。清次郎は思わず
木の陰に身を隠した。理由は判らなかったが、そうした方がいいような
気がしたからだ。
「こんなところ早く通りましょうぜ、アニキ」
「何を言っている」
「だって、ここ一年前に犯った女が身投げしたって池ですぜ」
「別に俺らが殺した訳じゃねぇ、いちいちそんな臆病風に吹かれたこと
言っているとは情けねぇ」
…その会話を清次郎はじっと聞いていた。お葉が死んでから一年、この
池で人が死んだという話は聞いたことが無かった。しかし、まだ確信は
持てなかった。男たちは犯した女のことを話にていた。
「あの女、いい身体してましたね」
「ああ、確か『お葉』とかって言ってたな」
その瞬間、清次郎の何かが弾けた。目の前にいるこの男たちが、仕事帰
りのお葉を襲い、汚し、そしてお葉はそれを苦にしてこの池に身を投げ
た。怒りを越えた何かが清次郎の体を突き動かしていた。
次に清次郎が気が付いた時、自分の手が血まみれになっていた。
そして足元には二人の男の死体が転がっていた。
清次郎は狂ったように笑い続け、そうして最後にお葉の名を優しく呼ぶ
とお葉が身を投げたその池に飛び込んだ。
その後、池から清次郎の仏は上がらなかった。
ただ、それからその池はどんな時でも波紋が途切れることがなくなった。
まるで、清次郎の涙が止まらないかのように。
この池は、いつしか『涙池』と呼ばれるようになった。
後に、旅の僧侶がこの池の側に一つの地蔵を置いた。
それからは、池の波紋が続くことは無くなった。
それは昔むかし、今では本当にあったかさえ判らない悲しい夫婦の話。
了
2003/01/08 tarasuji
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