086:肩越し
世界はそんなに優しくない
だけど、それを知っていることはそんなに不幸じゃない
「さよなら」
彼女に別れを告げられた。
何かを言おうと思ったのに、言葉が唇から零れることはなく。僕は彼女が去っていく
その後姿をただ、阿呆のように眺めていることしか出来なかった。
彼女と僕は小学校からの付き合いだった。まあ、いわゆる幼馴染という関係で僕と彼
女は珍しく婚約という関係を結ぶに至ったのである。
彼女は、いつも僕の後ろを歩いているタイプだった。それは、僕が彼女を背中で守り
彼女もそんな僕を頼ってきてくれていた。彼女は大変な怖がりで、小学校の頃などは
通学途中の犬が怖いと僕の影に隠れていた。
僕は、彼女を守って生きて生きたいと真摯にそれのみを考えていた
だから、僕は武術を学び同時に色々な知識を学んだ。
僕はずっと彼女を守っていくのだと、そう考えていたから。そして、彼女が僕の背中
にずっと居るのだとそう考えていたのだから。
そして、僕と彼女はずっとそのままだと、あの時のまま変わらずに居られると僕は考
えていたのだ。
しかし、その夢はある日突然破られる。
彼女は僕を近所の公園に呼び出した。それは日の光が心地よく、適度に風も吹いてい
たそんな春うららかな日のことだった。
そこで待っていたのは髪をうなじまで綺麗に切り揃えた一人の女性だった。女性は僕
の姿を見つけると、微笑んだ。
「その髪…」
「切ったの」
僕の知っている彼女は、腰まで届こうかという長さの綺麗な髪の女性だった。彼女は
その長い髪を好きだといって毎日手入れを欠かさなかった。僕も、その長い髪を大事
に、誇りに思っていた。しかし、その髪はもう何処にも無い。
「何で?君はその髪を大事にしてたんだろ!?」
しかし、僕が感じていた違和感は髪型だけではなかった。いつもの彼女と同じ顔なの
に、彼女から受ける雰囲気は全く彼女とは違うものであったからだ。
僕は、彼女の髪にばかり気を取られていたが、彼女はトレーナーにスニーカー、そし
て何よりも決定的なのはズボンをはいていたことだった。僕の知っている彼女はズボ
ンなどはいたことなど殆どなく、ましてスニーカーなどは論外であった。そして、そ
の言葉遣いも仕草もいつもの彼女とは全く違う物であった。
僕は彼女のかもし出す雰囲気に圧倒されながら、彼女の方に視線を向けた。彼女の方
もその視線に気がついたのか僕のほうをじっと見つめている。
「何で…そんな格好…」
「可笑しい?」
「そうだろう!君はスカートしか履かなかった。髪だって長いのが好きな筈だ!」
いつもと違う彼女の変貌に、今思えば僕はいつも以上に気分が荒立っていたのは確か
だ。周囲の目も構わずに大絶叫していた。彼女は、段々と気分が高揚してくる僕とは
対照的に、いつもの微笑みのまま僕を見ている。彼女は僕を見ると大きく深呼吸をし
た。
「そうね、確かに私は長い髪もスカートも好きよ。でもね、私はずっとこんな格好し
たかった。それがようやく適えられたの」
「え?」
「私が選んだの。今まで父や母に押し着せられた服装をしていたのは確か。でも、そ
れは自分で選択していたからそれを嫌だとは思ってはない。だけど、今私の格好も私
が選択したものなの」
そういうと、彼女は嬉しそうに今の自分を見た、少し飛び跳ねようとすらしている。
僕は彼女のイメージが少しずつ崩れて去っていくのが信じられなくて、どうしてもそ
れを繋ぎとめたかった。だけど、それは・・・
彼女がもう一度、僕の顔をじっと見る。その表情は昔から見てきた彼女と今も違いは
なく。僕はこの彼女も彼女であると認識しようとしていた。
「言いたいことがあるの、聞いてくれる?」
「何?」
「婚約、解消したい」
僕は、自分が何を聞いたか自分自身でさえ信用できなかった。彼女のその一言は僕の
全てを破壊するのには十分だった。僕は呆けたように彼女の方を見て、今のが夢であ
ったことを実感しようと言葉を紡いだ。
「今日は何月何日だっけ?」
「エイプリルフールはもうとっくに過ぎた、冗談じゃない」
「君は僕が嫌いになったのか!?」
冷静に務めようと僕の意志は粉々に砕け、言葉の端々から激昂が溢れ出していた。彼
女はそんな僕を悲しそうな瞳で見つめながら、それでも僕の顔から視線を背けようと
はしなかった。彼女はもう一度大きく息を吐いて、それから今まで聞いたことの無い
ような大声を張り上げた。
「嫌いになった訳じゃない!好き、でも・・・」
「でも!何なんだ!他に好きな男でも出来たのか!?」
彼女に聞いてはいけなかったその言葉。その言葉は最早彼女の言葉を信用していない
ことを露呈させていた。彼女はそれでも、僕から視線を背けようとしなかった。以前
の彼女なら僕から目を背け、ずっと下を向いたまま俯いていたのに。そして、僕はそ
んな彼女をとても愛しく思っていたのだから。
彼女はその瞬間黙ってしまった。その態度、以前の彼女と変わってしまったその態度
が僕は癪に障った。自分の中の嫉妬、怒り、様々な醜いと呼ばれる、だけど最も人間
的なその感情が僕を走らせていた。それでも、彼女は僕から目を逸らさなかった。
「貴方が好きよ、でも、私は貴方の肩越しにもう世界を見るのは終わりにしたい」
「どう言う事だ!?」
彼女は一端、昔のように顔を俯かせて、それからもう一度僕の顔を見た。そして、微
笑む。いつもの彼女と同じ微笑で。
「私、いつも貴方に助けられたね。初めて出会ったときから、今日の今日までずっと
私は貴方の背中に守られていた」
「これからだって、俺が守る」
彼女は首を両方に軽く振る。
「その気持ちは嬉しい、けど、私はそれじゃいけない。貴方だけを頼りにしていたら
いつか貴方が居なくなった時に、自分の足で立てなくなる」
僕は何かを言いかけたが、彼女の微笑みに押されてそれ以上言葉が紡げなかった。
「私、自分で立てるように、自分の体で世界を受け止めるようになるの」
「そんなの必要ない!」
僕は絶叫していた。そして、僕は彼女を引き寄せようと、腕をつかもうとして彼女の
方に手を差し伸べた…が、それは彼女にとって振り払われた。
「ゴメン…なさい」
彼女は泣きそうな顔をしていたが、多分僕はもっと情けない顔をしていたに違いない。
自分がどんな顔をしていたか、判りたくも無かった。
「私、貴方に待っててなんて言わない。だから…さよなら」
震えが少し交じっていた彼女の最後の声だけが、耳に残っていた。もう彼女がどんな
表情をしていたかだなんて、僕は覚えてもいなかった。
ただ、自分も彼女を守るという使命のあった世界はその日、消失したことを知った。
結局、僕も彼女も互いの肩越しの世界を見ていたのだ。
彼女は僕に守られるという世界を
僕は彼女を守るという世界を
そして、互いの肩越しという世界を失った僕らは、これから一体どんな人生を歩いて
いくのだろう。互いが互いに依存した世界を失い、一人で世界に向き合うことを選択
した彼女。
どんな形でも、その世界の中で生きていく僕らが再び出会ったときにあの選択が必要
だったことを僕らが感じられるまで、僕と彼女はそれぞれの道を歩いていく。