084:鼻緒
その日はあいにくの曇り空。
壬生屋未央は、この空をもう一度だけ見上げてそして深く息を吸った
空気が重苦しいのは戦争のためだけではない、己の中にも原因があるのだと。世の戦況と個人的理由を一緒にしてしまうことにはいささか不謹慎だと思っていたが、この空は全てを移す曇り鏡のようにここにあるとでも錯覚してしまうかのように。もう一度、もう一度だけ見上げた。今にも泣き出しそうなその空に焦燥観を募らせる。傘など持って来ていなかったから早く家に戻らなければならない。そう考えて歩き出そうとした瞬間にそれは起こった。
「あ」
草履の鼻緒がぷつりと切れたのだ。未央は草履を見上げてそしてもう一度だけ溜息をついて鞄の中を捜すが変わりになるような物は見当たらない。こういうときに限ってハンカチも鞄には入っていない。かといって周辺に布地を取り扱っているような店も見当たらなかった。
少し、考えて未央は己のはかまの袖の部分を切り取ろうと考えた。もったいないが、このまま足袋で歩くよりはましだと考えたからだ。未央が決意を決めて袖に手をかけた。
「どうした?」
「瀬戸口君…?」
未央の手の動きが止まった。視線を一瞬だけ瀬戸口に向けて反射的に顔を背ける。未央は反射的に草履を背に隠そうとしていた。
「さっきからそんなところに突っ立ってどうした?」
「あ、貴方という人は先程から見ていたんですか!?ふ、不潔です!!」
未央が隠そうとしていた左手を瀬戸口は未央の一瞬の隙をついて掴む、掴みあげられた左手とその手に握られたものを見て瀬戸口は事情を察した。
「壬生屋、苦情は明日だ」
「え?」
意味も判らず恥ずかしさが勝っている未央の体に触れると、抗議する間もなく瀬戸口が未央を背におぶったのである。突然のことに言葉を失っている未央に構うことなどなく瀬戸口は未央の家の方までおぶって歩き始めた。何故か瀬戸口は未央の家の住所を知っていたが瀬戸口の情報網を知っているだけに追求はしないことにした。
最初は驚きのあまりに固まってしまった未央だったが、徐々に理性を取り戻し抗議の声を上げようとしていたが、意外にも未央を揺らさないようにそれでいて早く未央を送り届けようとしているその歩みに何もいえなかった。ただ、この胸だけでなく全身を支配しているであろう鼓動の音が彼に気つかれないかどうかということが中心となっていたのは確かである。掴まったその肩の広さとぬくもり、吐息…この瞬間だけは自分だけの彼であることを喜び、そして浅ましいと感じている自分がいることを自覚していた。
沈黙は心地よく、そして痛かった。
あっという間に自宅に辿り着くと、瀬戸口は未央を降ろしてあっという間に走り去って行った。小雨が降りかけていたが、礼を言う暇も傘を貸す間もなく彼はかけていった。どこかでそれが彼らしいと思っていたりもした。
明日は、きちんとお礼を言おう。
弁当と一緒に、彼に礼を言おう。
空は雨を連れてきていたが、雨はいつか晴れる。
だから、己の中の雲もいつか晴れるのだろう。その日は近いのかもしれない、根拠のない予感が未央の中に生まれつつあった。
2003/11/08 tarasuji
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