083:雨垂れ
それはいつだって突然に
気紛れかとも思える突然の雨に、速水は軒先の下に走りこんだ。
ふう、と一息ついてから、ポケットからハンカチを取り出して濡れた制服についた雫をふき取る。
じゃんけんで買い出しに負けたその帰りのことだった。
急いで帰らなければならないけれど、濡れてしまっては折角頼まれたのに申し訳ない。それだったら
少しだけ雨宿りをしてから戻ろうと考え、軒下で雨が収まるのをじっと待つ。
直ぐに戻るつもりで制服のままで出かけたのだが、雨が収まる様子は一向になく。
退屈凌ぎに、明日の授業や、これからの戦闘のことなど色々思いつくことを考えていた。
この、5121小隊に入ってからの記憶、出会った人々、出会った出来事。
その全てが楽しいものではなかったが、こうして思い出す時にはそれもまたいい出来事だったと思え
る。それはもう既に過去の出来事となったことなのだろうか。栗色の髪の少女がよく言う言い回しを
思い出して、速水は口元を綻ばせた。
ふと、ある記憶が脳裏に浮かぶ。
まだ、名前がなかった頃の話。自分が実験体で未来など考えることの出来る余裕すらなかったあの時
代の話。名前と身分を奪った少年の話。ここに来る少し前の話。どれも幸せだとは呼べない記憶。
速水は頭を大きく振った。
忘れようにも忘れられない、記憶
5121小隊に入ってから数ヶ月、すっかり封じ込めることが出来たと錯覚していた記憶の端々が、
機会を得たとばかりに押し寄せてくる。それは油断している隙あろうならば速水、いや速水と名乗っ
ている存在を食い荒らそう群がる。枯れることのない悪意の数々が飲み込もうと渦になり、狂気の風
が彼を吹き飛ばそうとしている。自我という物を貪り、最後の一片まで残さないようにするその貪欲
さ。
怖い
飲み込まれることではない、貪り尽くされることでもない
そんな自分の存在を彼女が知ったならば
それでも彼女は自分を哀れみ、見てくれるのだろうか。
唾棄すべき存在として、彼女の世界、彼女の望む世界に自分を必要としなくなることが怖い。
彼女の望む自分になろうと、彼女に必要とされる自分になろうと、変わろうとしているこの今でさえ
背後にはいつも恐怖が付きまとっている。
「あ」
速水の頭に冷たいものが当たった。
少し移動していたのだろうか、軒下の雨垂れが速水の頭に当たったのであろう。速水がそれに気が付い
て後ろに下がったその瞬間。
「速水」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げる
彼女が、そこに居た。
「ま…舞?」
「ああ…なんだ。瀬戸口らがな、お前が傘を持っていないから…迎えに行けと」
「それで、迎えに来てくれたの?」
「な、何だ!そのふやけた顔は……それよりも、今私に断りなく名前で呼んだな!」
「そうだっけ」
舞の顔が朱に染まる。世間一般からはかけ離れている芝村のイメージとは全く違うその態度がどうしよ
うもなく、愛しい。
「復讐だ、私はこれからそなたを名前で呼ぶぞ。いいな…厚志」
「う、うん」
舞が持って来た傘を差し出す。
「一緒の傘じゃないの?」
「だ、駄目だ。私の心臓はそんなに丈夫ではない!」
「えー」
「駄目だったら、駄目だ。先に行くぞ」
そう言って前を歩いていく舞の後ろを速水はついて行った。
恐怖は消え去った訳では無い。けれども、彼女の後ろについていけばいつかは薄れていくのではないか
と無責任に考えている自分が何処かにいるのもまた確かで。
今、彼女が己の存在を望んでくれるからこその幸福を噛み締めながら、大事にしたいと思う。
君がこの世界に存在していることの僥倖を。