081:ハイヒール
普段が普段だからといっていつもそうとは限らない
去年の暮れ、僕は彼女と見合いをしてそして結婚した。
今更結婚などに夢も希望も抱いていなかったし、ただ、何となく一人で居るのが寂しかった
だけで、巷に溢れるような恋人たちがいう『運命』とかというものは微塵にも感じていなか
った。でも、何となく予感はしたのだ、彼女となら何となくやっていけるのではないか、とね。
それを『運命』と呼ぶのかどうかはまた後回しにして、僕と彼女は夫婦になった。
僕は彼女に実のところ結婚する前に今の話をした。
馬鹿だと思うだろうが、僕はいいが彼女がそんな結婚を許すのだろうかはまた別な話だった
からだ。後に真実に気が付いて別れるよりはその前の方がいいだろうと考えたからだ。僕は
パンチの一発ぐらいは覚悟していた。自分自身でさえも馬鹿な話だと思っていたから。
しかし、彼女は違った。
「別にそれは構わない」
それを聞いた僕の方が今度は驚いた。
元々彼女の方も、家の方から結婚を迫られて断る気力も最早無くなってきたらしく、僕の話
を聞いたなりそれを承知したらしい。互いに互いの理由が存在してそれがたまたま一致した
のだから丁度いいということになってしまったのだ。それに彼女もどうやら僕のことを嫌い
ではないらしいと思ってしまうのは僕の自惚れかと思っているのだが。
かくして、僕と彼女は夫婦というものになった
それからというもの、生活上は同居のパートナーということで勿論家賃も折半、家事も交代
でという同居に近い状況にあるのが現状だ。だからこそ僕と彼女の間には恋愛感情は微塵に
も存在していない。男女間にある友情が特殊な方面に発展しているような気がした。
この関係をなんと言うのだろう……そう、例えるならば兄妹とでも言えばいいのだろうか。
男女間の合間にある『好き』『嫌い』という感情よりも『大切にしたい』という感情がそこ
にあった。まあ、本当はどんなに格好つけたってそこにあるのは同じ気持ちなのだろうが。
だから、当然というか僕と彼女の合間には性的欲求もなければ既成事実も何も無かった。
互いも寝室も別、ライフサイクルも別なのだからそれは当然といえば当然なのだが。そんな
僕と彼女の奇妙な同居生活はこうして続いていたのである。
僕は現在の社会の基準で見れば普通であろうの会社に務めるサラリーマンである。この就職
難の時代に職があるだけでも無難なのだろう。一方、彼女の方も仕事をしているらしいのだ
が、僕にはその職種が判らなかった。不思議なことに本人が言うには普通のOLだというこ
とらしいが、彼女は毎日会社に出勤すらしていなかった。ただ、不定期に大きなダンボール
箱が二人が住んでいるアパートに届くことがあった。それについてプレイバシーの侵害と思
いながらも聞いてみたことがあったが、『仕事の道具』というだけでそれ以上の返答は一切
戻ってこなかったのであった。彼女の詮索をするのはこれ以上無理のようだったので、僕は
それ以上何も聞かなかった。
そんな友達感覚のような、おままごとのような日常が続いたある日のこと
僕は出張で隣の県に一週間ほど出かけることを告げる。
「あ、来週出張で留守にするから」
「何処に?」
「あ、Y県のS市の“ロスティックトェルプ”って所。知ってるだろ?最近出来た新しい
テーマパークなんだけど…」
それを聞いた瞬間、彼女の顔付きが変わったように見えた。
「ロスティックトェルプ!?」
「あ、うん…やっぱり最近流行の場所なんだけどね…そんなに驚いて、どうしたの」
彼女は半分立ち上がろうとしていたが、僕に言われてゆっくりと椅子に座りなおした。少し
何かを考えている様子に、僕は最早彼女に話かけないようにした。実は以前今と同じ状態の
彼女に話しかけようとした瞬間に彼女は僕の隣から居なくなってしまったことがあった。
とても驚いたその様子に僕は彼女の邪魔をしないようにとその場を立ち去ろうとしたその瞬
間、彼女が口を開いた。
「ごめん、驚かせちゃって…あの…」
何か言いたげな彼女は、僕の顔を一度じっくりと見直すと視線を逸らし何でもないと笑った。
何か聞こうとしたが、彼女は突然立ち上がると台所に向かう。
「き、今日の晩御飯当番は私だったよね…さ、さて何にしようかな」
彼女がこのとき慌てた訳も、僕が知らないその理由が明かされるのはもう少し先のことであった。
………。
頭の中が真っ白だった。
僕は会社の仕事でここに来て、ようやく終わって、明日には自宅の布団の中でゆっくり寝て
居るはずだったのに……
なのに、どうして僕はここで強盗に監禁されているのだろう
両手は縛られているし、勿論両足も縛られて。逃げることも、恐怖のあまり声を出すことも
出来ず、トイレにだっていけないから半分ちびってしまいそうだし。
ああ、神様僕は一体これからどうなるのでしょう
多分、うっかり警察とか自衛隊とかそういう機関が間に合わなくてこのまま死んでしまうこと
になったのなら田舎の両親は悲しむだろうし、家に置いてきたサボテンのサボテンダー(仮)の
世話は一体誰が見るのだろう。おまけに先週のプラスチックゴミを出し忘れたから今週はもの
凄い量になっているはずで、それを彼女に捨てに行ってもらうのは大変だよな…とか全然関係
ないことばかり頭の中に浮かんでくる。
僕が死んだら、彼女はどう思うのだろう
本当に夫婦の愛情の欠片が存在するかどうかという関係だったけど、僕と彼女は友達として
同居関係としては上手くいっていたと思いたい。その間にあるのは恋愛感情というものでは
無かったにしろ、彼女は僕のことを少しでも気にかけていてくれたのであろうか。だとした
らちょっぴり嬉しい反面、とても申し訳ないような気がした。
やっぱり、僕は彼女のことを好きだったのだろうと思う
そんな事を考えていた僅かの瞬間に、銃口が僕の方に突きつけられた。
自分が死ぬというのに、何故か緊迫感のない自分自身に呆れつつも、僕はそこから動けなかっ
た。覚悟を決める、多分、生命保険は下りるはずなので両親と彼女にきちんと分配されること
を願った。
「目を閉じて!!」
突然、響いた大音響と同時に僕の頭の上に何かが落ちてきた。
爆音と同時に瞼を閉じても閃光が走ったことをおぼろげに感じる。悲鳴と同時に、人が倒れる
鈍い音がした。聴覚だけが生きているのか、周囲に何があったのかは判らないが、まだ自分が
生きていることだけは判った。
「もう、大丈夫」
何処かで聞いたことのあるような声だった。僕はゆっくりと声に従い瞼を開く。
目の前に居たのは……彼女だった。
「あ、あれ?」
僕が目の前の光景にどう反応を返していいのか戸惑っている合間に、彼女は僕の側に近づいて
くる。そして、右手に持っていたナイフで僕を縛っていた縄を断ち切った。よく考えると僕は
随分情けない格好で彼女の前にいたのだろうと気が付き、何だか恥ずかしくなった。
目の前の彼女はいつもの地味というか清楚な格好というか、おそらく彼女の会社の制服であろ
う白のブラウスに紺のタイトスカート、スカートと同様に紺のベストを着用していた。不思議
なことに片足だけハイヒールが脱げている。彼女は右手にナイフを、左手には銃を持っていた。
僕は彼女に見とれていた
後ろでひとくくりに纏められた髪も、眼鏡から隙間見えるその表情も、何故か僕は彼女から
視線を逸らすことは出来なかった。何処かから入ってくる風が彼女の髪を後方に流す。
「あ、あの…」
「ごめん、まだ仕事が残っているから後で話す」
彼女は腰から携帯(多分、小型レシーバーか何か)を取り出すと、こちらに来るように指示を
出した。
「これから救助隊がこちらに来るから、君はそちらの指示に従って逃げて」
「う…うん」
そういうと、後ろから来た数人、これもまた皆女性で制服姿だったが、とにかく彼女は向こ
うに駆け抜けていったのであった。
歩き出そうとしたその瞬間、何かが右足のつま先に当たった。僕はそれを見ると誰にも判ら
ぬように微笑むと、身を屈めそれを拾い上げる。
黒のハイヒール
多分、先程僕の頭に当たったのはこれなのだろう。
彼女が、一体何者なのか、仕事とは一体何なのか、そして彼女は僕になんと説明するのか……
判らないことは沢山ある。
だけど、一つだけ確信したことがあった。
あの瞬間、僕は彼女に恋をしたのだ
僕の恋が、これから僕の世界を大きく揺るがす事件になるのだと、今の僕には予想すら付かなかった。