076:影法師
きみはひかり ぼくはかげ
君が前にいてくれるからで僕はここに存在できる
「貴様は…」
「彼女をここまで傷つけた、その報いはきっちり払ってもらおう」
青年の腕には、まだ年端もいかない少女が抱かれていた。
その瞳は固く閉じられ、その腕は力なく垂れ下がり、腕に感じる重みと、温もり、呼吸の為に
微かに動く胸が彼女が生きていることを青年に感じさせる。よく見ると彼女の体には無数の傷
跡が付けられところどころから血が滲み出している。それでも彼女は苦痛に顔を歪めることも
せず、その顔はただただ悲しみに彩られ、瞳からは涙が零れ、その口から微かに漏れるのは己
が信じた者の名。
「ごめん…ごめんね……」
繰り返される謝罪と、止め処なく無意識のうちに少女の頬に流れる涙。青年は手をかざし少女
の涙を拭い取り誰にも聞かれないように小さな声で二言・三言囁いた。少女は、そのまま最後
に残っていた無意識の行動さえ止めて青年の腕の中で静かな眠りにつく。
彼女が眠りについたことを確認し、青年が彼女の胸の辺りに手をかざす。その周辺に小さな光
のようなものが集まり彼女を覆い始めたかと思った瞬間、彼女の姿はこの場所から消える。
「ば…化け物…」
青年は、その声の方に自分の体と意識を向ける。そして、目の前にいる存在を認識の範囲に入
れ始める。
目が、耳が、鼻が、肌が、声が、己自身に存在する全ての感覚が存在を認識しはじめる。青年
はもう一度だけ目を瞑り、もう一度目を開く。
「彼女の涙の代償を」
それが、最初で最後の言葉。
少女は、青年の大切な存在だった。
少女は明朗快活という言葉がそのものが具現化したような人間だった。そしてかなりのお人よ
しでもあった。一方、青年は穏やかだが、他人との関わりを拒否し一人でいることが多い人間
だった。おまけに不器用だった。少女はそんな年上の青年を自分の家来のように引きずり回し
た。自分より年下の少女に振り回されている情けない男、というのが世間という視点から見た
青年の位置であった。実際に優柔不断であり、何をやっても年下の彼女には敵わない青年。だ
けど、周囲から何と言われようと、二人の立場は変わることはなかった。
彼女はいつも口癖のように青年に言うのだ、
「私は貴方の前に立つ」
少女は青年に『しっかりしろ』とも『情けない』とも『弱い』とも、青年に対する罵詈雑言は
一言も言わなかった。ただ、自分が前にいるからと言うのだ。それは青年に対して出きる最小
で最大のことであった。ただ、彼女は彼の前に居た。
青年が浴びる非難を一手に受け、青年の手を引いた。青年の居場所を見つけようと、いつも彼
女は青年の前にいた。人生に疲れ、嫌気が差してきても顔をあげれば彼女は青年の前に居た。
そんな青年を人々はこう呼んだ、『役に立たない影法師』と。人の後ろに立つしか出来ないロ
クデナシだと。少女はそれでも青年の前に立ち続けた。
青年は、この世界で殆ど絶滅したと言われる種族の僅かな生き残りだった。
少女は、この世界で最も新しく発生した種族の希少な存在と言われていた。
同じ僅かな存在なのに、少女の種族は敬われ、青年の種族は蔑まれていた。
少女は青年の前に立ち非難を一手に引き受けることで青年を守ろうとした。少女はこの世界で
種族など関係ないと言える稀有な考えを持っていたから。少女は自身の存在全てを賭けて青年
の前にあり続けた、元より繊細な彼女にとってはそれはいかほどの苦痛を伴う行為であろうと
も、前に立ち続けることが彼女の望みだったから青年は何も言わず彼女の後ろにいることを選
択したのである。守られている苦痛を心身に刻みこむことを選択した。
ある時、青年の種族の一人が些細なことで捕まえられた。
その事件から、青年の種族は何処かに隔離されることが決められたのだ。多分、それは表向き
で実際には青年の種族を捕らえて殺すことが目的なのだろう。当然、青年も捕まえられようと
していた。しかし、そんな時でも少女は青年の前に立ちそれを阻止しようとしていた。いくら
少女の立場が敬われていた種族の一人とはいえ、今回はそれも有効な手段ではなかった。
少女は、僅かな隙を見て青年を逃がした。
反対にそこまでしたことで少女自身も一族を追われ遥かな地に追放されることを余儀なくされ
る。それでも少女は青年を守ろうとしていたが、彼女の種族が敬われることを快く思っていな
かった他の種族の人々は彼女に対してその鬱憤を晴らそうとしたのだ。
青年が少女の行方が気になりこっそり戻ってきたがそこで見たのは、青年を助けようと己の身
が傷だらけになろうと構わずにその不当を訴え続けた姿だった。しかし、それが気に入らない
者たちは容赦のない暴力を少女に向ける。青年は思わず前に飛び出していた。
「ほう…この街に戻ってくるとはね」
青年は何も言わず黙って中心人物であろう男を見る。男は周囲を制止させ、青年に視線を向けた。
「何故、俺の種族を狙う」
男は、この世界での中心に近い人物でもあった。周囲が青年を醜いものでも見るような目で見る
中、男だけは楽しそうに笑った。
「まあ、簡単だよ。君の種族は古代の悪魔とでも呼ばれた存在の血が混じっているのは知ってい
るだろう?その悪魔の血を浴びると、その力も一緒に手に入る。私はそれが欲しくてね」
ねっとりとした、視線が青年に浴びせられる。背筋が舐められているような感覚に青年は冷感を
覚える。
「だったら、彼女を傷つけることなどないだろう」
「それとこれとは別」
既に、少女は意識を手放しそうになっているが、それでも立ち上がろうとしていた。
「この少女の種族が私の邪魔をする。追放になったとはいえその死骸でも見せれば何処かに隙が
出切るでしょ」
自分本位の言い方に青年の腹の奥がむかむかするような感覚を覚える。拳を握り、奥歯を咬み締
める。怒りが、青年の体をマグマのように駆け巡っていた。
「だったら、その血の力がどんなものかその体で試してみろ!!!!」
彼の怒りに呼応するかのように、一瞬にして周囲の存在が粒子と化していく。しかし建物や草木
はそのままに、彼女に危害を加えた人物のみが消えていくのだ。
男は、それを呆然と見ているしか出来なかった。青年は少女の体を抱き上げる。
「ごめんね…助けられなくて…」
うわごとのように繰り返し呟く声に彼女をここ以外の場所に転送した。ここが、これから消えて
なくなることを青年は確信していたからだ。
「貴様は…何なんだ!?」
「お前が欲していた力の化身、その強大すぎる力ゆえに己が力を封印しこの世界に留まってきた
存在」
「彼女という封印が解けた今、力を制御する必要はない。彼女の涙の代償を」
その言葉を告げるや否や、男はこの世界と共に粒子に変えられ四散した。断末魔すら上げる余裕
は存在しなかった。世界の粒子が四散する前に青年は自分自身を少女を送った次元に移動させた。
「良かった、無事なんだね」
「ああ」
目を覚ました少女が青年の顔を見て微笑む。青年もそれにつられて微笑んだ。
「ごめん、まだ眠い…」
「いいよ、もうちょっと寝てて」
「そう、じゃおやすみ」
少女は今自分がいるところも知らず、青年の腕の中でもう一度眠りについた。彼女が今度目覚める
時には消え去ったあの世界の記憶は消えて、別な次元での新しい世界での記憶で出会うことになっ
ている筈だ。実際、青年と少女はそうやって何度か別な次元で何度も出会いを繰り返しているのだ
から。
少女という存在がなければ、青年という存在もない。
青年という存在がなければ、少女という存在もない。
それは光がなければ出来ない影法師のような、影法師が出来ない場面では光が存在しないような、
ややこしいけど、どちらも片方だけでは存在できないのだから。
腕の中で眠る少女に一度軽くキスをして、青年も眠りについた。