072:喫水線
私はいったい、何処に向かうのだろう
足元には、血まみれで倒れた大切な人
私を守るために、倒れた人
目の前には、大切な人を傷つけた人が、何事もなく笑っている。それは、私の方に体を
近付けると薄く笑った。
「君の重荷になっている存在は消したよ。さあ、戻ろうか『殺人兵器』さん」
そう、私は人を殺す為に生まれた。
血まみれで倒れた人は、私に『行くな』と言った。私は『人』だと言った。醜くて、愚
かな、哀れな…けれども優しくて、暖かい『人』だと。
私は『殺人兵器』
人を殺す為に、ただそれだけが私の存在意義だった。
気の遠くなる程、人を殺した。
命じられるまま、私は誰でも殺した。私は『兵器』だった、道具だった。だから何も考
える必要は無かった。快感も、後悔も、懺悔も、悦楽も何も感じる必要はなかった。
だけど、大切な人は言った。
『人は殺さなくても勝手にいつか死ぬ。だから、急いでその人間を殺す必要はない』と
言った。だから、私はもう人を殺さなくてもいいのだ。そんな後々居なくなる人間の死
期を早めるような、大切なあの人の言う『お人よし』な真似はしなくてもいいのだ、と。
「帰らない」
そう言った時の目の前の男の間抜けな表情は覚えている。
他の何も覚えてやる気は無いけれど、その表情だけは覚えてやってもいいかもしれない。
「そいつの言うとおり、『人』になった訳ですか?『殺人兵器』さん」
「ううん、ワタシは『人』にはなれない欠陥品だよ。でも『殺人兵器』としても欠陥品
になったから、もう持ち帰っても役には立たないと思うけど」
目の前の男はそうして、私の顔をジロジロと見る。嘘はついていない、私が欠陥品だと
いうことは確かだし、もうどんなにしてもどちらかになれるという保証は何処にも無い。
それよりも、問題なのは私の大切な人は、私を更に殺人兵器たらしめてしまった事を目の
前の男にいかにしてバレないようにするかと言う事である。
私の大切な人は、確かに組織から逃げ出した私を匿ってくれた。
しかし、あの人は蔵書マニアに近いものがあり私は彼の書斎から膨大な知識を得、あの人
の友人たちには各分野のスペシャリストが揃っていた。私は彼らから更に知識と技術を習
得し、組織に居たあの頃よりも更に人殺しの腕が上がってしまったからだ。だから、目の
前にいるあの男など今では簡単に殺せる。でも、それはしたくなかった。
「だったら、無理矢理でも貴方を連れて帰りますよ」
「そうね、それが一番手っ取り早い」
欠陥品だから、弱くなっていると油断したこの男の判断は既に間違いだ。目の前の相手の
強さも既に読み取れないような男に負けることは決してない。私は唇の端を誰にも見えな
いように少しだけ、吊り上げた。やはり、私は兵器なのだろう。
向かってきた相手に手加減してはいけない、私は一瞬で目の前の男を血の海に沈めると、
足元に倒れている大切な人に駆け寄った。幸いにして、先ほど施した応急処置が効いてい
るらしい。私は携帯を拾い救急車を呼ぶ。
「ゴメンね、やっぱり私『人』にはなれないみたい」
私はあの人の髪にそっと手を触れる。
やはり私は人と兵器の喫水線を越えることは出来ないらしい。
貨物を積みすぎた船のように、いつかは沈んでしまうのだろう。だけどまだ私は生きてい
る。私の寿命が何処まで持つかは判らない、けれども、その日が来るまで私はあの人の側
で、兵器のまま生きていく。いや、そうしたい。
「さて、家に戻って入院の準備しないと」
これからやるべきことは沢山ある。
私はますます兵器として以外に生きてはいけなくなるだろう。けれど、何処かで願っている。
いつか、喫水線を越えてあの人の願う『人』になりたいと。