071:誘蛾灯
ああ、身を滅ぼすと判っていても
何故貴方の側から離れられないのだろう
足元はあかいうみ
サイレンの音だけが、その静寂な世界に彩りを添えて
私はその中で微動だにせず立ち尽くす。
右手には出刃包丁が握られて、顔には飛び散った血が
キモチワルイ
私は顔を拭いたいのに、そうすることも出来ず。
腕が上がらず、目を閉じることも許されず
目の前のあかいうみに沈む、あかいおとこをじっと見つめていた
気が付いて、私は冷たい手枷をはめ、椅子に座っていた。
目の前の見知らぬ男の集団、この人たちは一体誰?
男たちは私を見ている、視線が痛い。見ないで欲しい、私は見られたくなんて無い。
私を見ていいのはあのおとこだけだ。
男たちは私に語りかけてくる。
私の知っている言葉ではない、いこくの言葉。音はするけど意味が判らない。
でも、言葉の中には私に対する嫌悪・侮蔑・蔑視…耳を塞ぎたいぐらいに伝わってくる。
それでも、私は腕を動かすことも出来ず、体もあの時から動かすこともできず。
ただ、座ってそこに居る。
あまり聞きたくなかったので、私は別のことを考える。
先程まで見ていたあかいうみに沈むあかいおとこのことを。そう、私はあのおとこを知っている。
それは、初めて出会ったあの夜。
おとこは沢山の友人に囲まれて微笑んでいた。あまりにもおとこは素敵だった。
お決まりのように、私はおとこに恋をした。
おとこには友人や恋人が沢山いた、だから私のような田舎出の堅物などに振り向くことなどなく、
身分の違いを知っている故に私はこの恋心を隠し、押さえつけていた。
おとこは余りにも魅力的で、私は嫌われるよりもおとこの良い友人であり続けようと必死に仮面を
かぶり続けた。そのかいもあって、私はおとこの良き友人となっていた。
おとこは恋多き人だった。
次々に恋人を作っては、すぐ別れ、また新しい恋人を作る。
「好きな人がいるんだ」
新しい恋人を見つけるたびに、おとこは私に相談してきた。その度に私の胸は張り裂けそうになっ
たが、私はそれでも良き友人として振舞った。今までおとこの恋人になった奴らの二の舞にはなり
たくなかったから。このままで良かったのだ、この日常がいつまでも続くと愚かなことを信じて、
私はこの位置から動こうとはしなかった。
私が、その安定した位置から動こうと決意したのはいつだったろうか。
目を閉じて、おとこのことを思い出す。・・・・・・そうだ、あれはあのときだった。
「私は結婚することなった」
何度も恋を繰り返したおとこだったが、それは家に定められた結婚をしなけらばならないあの人の
最後の抵抗だった。しかし、おとこは自分の望む恋人は得られず、結局家の為の結婚を強いられる。
あの人には、それに逆らえる理由も無かった、だから承諾したのだ。
おとこは本当は結婚などしたくなかったのは知っていた。
恋人を何人持とうと構わなかった、おとこがそれで幸せなら。だけど、今のおとこは幸せそうには
見えなくて。だから、私はおとこをあかいうみに沈めた。
おとこは、幸せそうに微笑んだ。初めて出会ったあの日のように。
おとこの幸せが、私の幸せだった。
「警部、あの男どうします」
取調室から出てきた中年の男が、もう一人の中年の男に声を掛けた。警部と呼ばれた中年の男が、
一本煙草を吸う。煙を美味そうに吐き出して、宙に漂わせた。
「どうもこうもしねぇさ。あいつが、蓼科音子(たてしなおとこ)を殺したのは自白した通りさ。
それとも、お前は推理小説よろしくあの男が無実だっていうのかい?」
「そんなことは言ってませんよ、ただあの男が自分のしたことを後悔してないって顔をしていたの
で…」
警部はもう一度、煙草を吸うと煙を吐き出した。
「後悔していまいと、してようと事実は事実さ。同情で勘違いするな、あの男は人殺しさ」
それ以上、中年の男は言葉を詰まらせた。
昨日、市内の某マンションの一室で蓼科音子が出刃包丁で刺殺されているのが発見された。
そこには被害者である蓼科音子と、加害者である男がそこにいた。男は抵抗する訳でもなく、
大人しく警察に捕まった。そして、淡々と男と蓼科音子について語ったのである。
私も、蓼科音子の写真を見た。確かに美形で恋人が何人もいそうなのも頷けると思えた。
「そうすると、あの男も不憫な奴ですね」
「ああ、確かに男同士の恋など成立することなど難しいものな。この蓼科って奴もその世界では
かなりの人物だったのだろう?」
「ええ」
そう、蓼科音子…いや本名は木村祐一(きむらゆういち)。彼女、いや彼はその世界では有名なオカマ
だった。女性としても間違いないぐらいの美貌の男は、女性以上に女性らしい男だった。男は、蓼科
の昔からの友人であったらしい。
「誘蛾灯か・・・」
ふいに、警部と呼ばれた男が呟いた。
「蓼科音子はあの男にとっては誘蛾灯のような存在だったってことだよ」
いつもは堅物で有名な警部であったが、不意のその発言に私はどう反応してよいか分からなかった。
だけど、その例えはあの男と蓼科音子のことを的確に表してるようで私は胸の何処かがむずがゆくなった。
「そう・・・ですね」
男にとって、蓼科音子は近づけは自分の身を滅ぼすことは十分に承知だった。だが、最後の最後には
自らその光に近づいていったのだろう。多分、男はそれでも後悔しなかったのだろう。
男は、自分の作り上げた夢の中でいつでも一緒なのだから。
光溢れる一室で男は微笑んでいる。
おとこの微笑みを幸せそうに眺めながら。