070:ベネチアングラス
道具は、使われてこそ道具
ならば、使われない道具は何と呼ばれるものなのか
『銀の乙女』
そう呼ばれ始めた頃にはもう、私はすっかり戦に馴染んでいた。
ゼクセンの騎士団長としての異例の昇進。いくら前騎士団長が亡くなり、その後継者として
私は騎士団長に任命された。
ゼクセンの為に、剣を振るい戦う
それは私が望んだことであった、その為ならばこの命すら投げ出そうと構わなかった。
−ブラス城騎士団サロン−
「お戻りになりましたか、クリス様」
議会から戻ってきたクリスは少々乱暴な動作でドアを開けると部屋のソファーに座り込んだ。
それから、声を掛けられたことに気が付き、声の方を振り向いた。
「ああ…サロメか、お前だけか?」
「はい。クリス様、お茶をお淹れしましょうか?」
「頼む」
サロメは慣れた手つきで茶を淹れる。密かに、サロメの淹れる茶は不思議とクリスの嗜好に
合っており、クリスは彼の淹れる茶を楽しみにしていた。
「評議会の方はどうでしたか?」
その話を聞いた瞬間、クリスは表情を一変させる。まるで今まで忘れていた事が一気に押し
寄せたかように空気が切り替わった。
「議員どもは、どうやら私をお飾りだと思っているようだ」
「それはどういうことで?」
サロメは茶を淹れる手順はそのままに静かにクリスの話を続けるように促す。
「私を来月主催されるデュナン共和国の建国パーティーに出席させるつもりらしい」
「それはそれは」
カップに湯が注がれる音が響く。それでも、クリスの言葉は続いた。
「別に私は出席することに意義は唱えるつもりはない。私が留守の間はお前たちに任せてお
けば大丈夫だろう」
「ええ」
「それはいいのだ…だが!」
そこでクリスはテーブルを力を込めて叩いた。テーブルに僅かだが窪みが出来た。
「だが…?」
「あいつら…私のことを飾りだと思っている!」
「クリス様…」
−ビネ・デル・ゼクセ評議会−
話は少し遡る
「ゼクセン騎士団団長、クリス・ライトフェロー只今参りました」
「クリス殿、貴殿に頼みがありましてな」
「頼みとは…」
評議員全員の視線がクリスに集まった。議長がその視線を受けて、口を開いた。
「来月、デュナン共和国が建国15周年記念式典を行うという話を聞いているな」
「はい」
「それにこのディスグラード殿が出席するのだが、クリス殿彼に付いていって貰えぬか」
ディスグラードが立ち上がってクリスに礼をする。曲者だらけの評議会議員の中でも彼は穏健派
と呼ばれる人物でクリスはそれほど苦手な部類の人物であった。まあ、だからこそ今回の出席を
押し付けられたのであろう。
「それは構いませんが…」
「騎士団の方はサロメ殿に任せておけばよいでしょう」
「はあ…」
気の無い返事だと判る人間には判るであろう。そのまま、クリスは来月デュナンに護衛という役
割を兼ねて出発することが瞬く間に決定していた。
そこまでは良かったのだ、そこまでは
ある一人の議員が口を開く。
「しかし、クリス殿も女性ゆえデュナンの荒っぽい連中にはくれぐれも気をつけなければな」
「それはどういう意味で…」
クリスが言い終わらない内にまた別の議員が言葉を紡いだ。
「そうですな、デュナンから戻ってきたら子供が出来ました…では洒落にもならん」
「ゼクセンの騎士団長がその体たらくでは我が国は笑いものですぞ」
「そうそう、ですがクリス殿。せいぜい式典の合間だけでもその無骨な鎧姿は無しですぞ」
「うぬ、わがゼクセン連邦の恥となる行為は慎んでくれるように」
クリスに向けられる侮蔑と嘲笑ともつかない言葉の渦に、クリスは顔を赤らめて、しかし一言も
言えぬまま両の拳を握りしめていた。
ようやく、会議とよべぬその議会が終了した瞬間、クリスは務めて冷静に表面上では振舞いながら
も怒りは収まらぬままであった。
自宅に戻ってからようやく両の掌に爪と指のあとがくっきりと付けられ、血まで滲んでいたのに気
がついたのであった。
しかし、怒りは一向に収まらないまま執事にブラス城に戻ることを告げ、愛馬を走らせて戻ってき
たことをサロメに告げた。
「そうでしたか」
「私が女だからこんな侮辱を受けるのか!護衛に行けという方がよっぽどマシだ!!私が鎧姿だとい
けないのか!私はゼクセンの騎士団長だ…だが、あやつらには私は飾り物と同じなのだ。ゼクセンの
威光を他に知らしめるための飾り物と!私はゼクセンの人たちを守るための剣であり盾でありたいと
思っている!が、あやつらの道具ではない!!」
八つ当たりとも心の叫びとも言えないクリスの絶叫がサロメの身に突き刺さった。普段ここまで激情
を表に現すことがないクリスだけに、クリスの受けた屈辱がそうとうに大きいことを察する。
サロメがクリスの前にカップを差し出した。
「サロメ…」
クリスは自分の状態を省みて、そして大きく溜め息をつく。
「お茶が入りました」
「すまぬ…みっともないところをみせてしまったな」
サロメは首を横に振った。
「クリス様は普段から溜め込みすぎなのです、何処かでこうして吐き出さないと返ってその溜め込ん
でしまったものに押しつぶされてしまいます」
「すまない」
「謝らなくて結構です」
いついかなる時も冷静さを崩さないようにしているサロメを横目にクリスは恥ずかしくなって、茶の
カップに口を付けて視線を逸らす。
「これは…?」
熱いお茶かと思えば、予想外に喉越しの良い冷たい茶だった。すっきりとした飲み口とさっぱりした
あとに少し残る苦味、その後に甘味が口の中に広がった。
「東方より取り寄せた“ぎょくろ”という茶です。夏はこれが美味いのです」
「さっぱりするな」
クリスは初めて味わうその味と冷たさにすっかり心が落ち着いていた。ふと、その容器を見る。
「この容器もいい感じだ」
「ええ、こちらは南方諸島からくる商人から買い付けました“ベネチアングラス”というものでして
涼しそうな色合いでしたので」
青いベネチアングラスに薄緑色のぎょくろの色合いはどうかと思ったが、サロメのセンスに口を挟む
ほどクリスのセンスも良くなかったし、二人ともその方面に関しては鈍い部分がここで露呈していた。
「この色…ゼクセンの方では中々ここまでの色合いの食器は見かけないな」
「ええ」
「だが…綺麗だ。食器は単に食べる為の道具としか思っていなかったがこういう一面もあるのだな。
使うのが勿体無いぐらいだ」
クリスは茶を飲み干した後もそのグラスを眺めていた。その少し子供のような表情が隣にいるサロメ
にどのような影響を与えているかなど、当の本人には判っていないであろう。
「ですが…道具の役目は使われることにあります。道具が道具として役目を果たせない場合は道具で
はないのです。美術品と呼ばれることもあれば、ガラクタと呼ばれることもあります。道具はその目
的の為にきちんと使われることが、本来の幸せだと私は思います」
「そうか、道具は使われることが幸せか…」
その言葉にクリスの表情が少し翳る。
だとしたら、クリスもゼクセンの道具として使われることが幸せなのだろうか?
「ですが…人は道具ではありません。勿論、クリス様貴方もです。ですから、クリス様がデュナンで
の式典を立派にこなせば議員たちの評価も変わるでしょう」
「サロメ…」
サロメはいつもクリスの迷いを晴らすような言葉をかける。その存在にどれだけクリス自身が救われ
ているかクリス自身ですらも気が付いていないであろう。サロメはクリスの隣に立っていた。
「お茶のお代わりはいかがですか?」
「ああ、頂こう」
デュナン国への護衛の任務は滞りなく終了し、『銀の乙女』の評判はデュナン国でも上がっていたと
いうことで、評議会の面々も苦虫も噛み潰していたというのは後の話である。