068:蝉の死骸
会社の健康診断で『要注意』と赤字で書かれた診断書を渡された。
それは夏の終わりの出来事だった
翌日、会社を休んで病院に向かう。上司は渋い顔をしたが、診断書を見せたら一発で納得したらしく
わざとらしく「お大事に」なんて言ってくれた。殴ってやりたい衝動に駆られたが僕はグッと堪え、
自分の中で自分を褒め称えることでこの衝動をやり過ごした。社会人は辛い、と思った瞬間だった。
診断の結果、僕は一週間の検査入院となった。
生憎、大部屋が空いておらず二人部屋になると告げられたがこれであの嫌みったらしい上司の顔を見
ないで済むと思えば大した物で、僕は医者に心の中で感謝の念を覚えずにはいられなかった。
一旦家に戻り、荷物を纏める。僕はまだ妻も子供もおらず田舎の母に告げるほど大したことでもない
のだから、僕は病院から貰ったパンフレットを片手に必要な物を鞄に詰めていった。
そして、入院の日。
僕は病棟の看護婦…今は看護師っていうんだっけ。とにかく看護師に連れられ僕の部屋となる場所に
案内された。
773号室
それが、これから始まるひと夏の思い出の舞台となる部屋。
「・・・・・・さん、こちらがお部屋となります。詳しいことは後ほどになりますので、まずはこれに着替
えて貰います」
看護師は僕に病衣を手渡すとカーテンを閉め、隣ベッドの住人に声を掛けていた。隣の人間は声から
察するに若いのだろう。とにかく一週間、一週間だけ上手くやっていければいいのだ。僕は急いで着
替えると隣の住人の顔を見た。年のころは、どうやら僕より一回りぐらい若いのだろう。多分中学生
か高校生ぐらいに見える。
「よろしくお願いします」
何が宜しくお願いしますなのかよく判らなかったが、僕の口から出てきたのはそんな当たり障りのな
い言葉だった。隣の少年はそんな僕の間抜け面を見たのか見なかったのか素っ気無く返事すると、持
っていた小説に視線を戻していた。僕は少し気の抜けた感じがしたが、何をする訳でもなく持って来
た雑誌を見て時間を潰していた。
隣の少年とは必要最低限の事以外話すこともなく、それはそれで干渉されずに済むのが幸いとでも考
えたほうがいいのだろう。僕は僕であちこちを検査され彼は彼で何処かに行っているようだったから
一週間がそうやって過ぎていくのであろう。だいたい、以前にも入院したが病院で同室だったとして
もその後に出会う確率など低く、『その場限り』で終わる関係なのだから下手に仲良くする必要など
どこにもないのだから。そう考えていた矢先だった、『彼女』と出会ったのは。
「こんにちは、おじしゃん」
突然病室に一人の少女が入ってきた。僕は雑誌を枕元に置くとその少女の側に寄った。多分小児病棟
に入院している子供が迷い込んできたのだろう。そう考えたのは彼女がピンクの熊柄のパジャマを着
ていたからだった。
「こんにちは、お部屋間違えたのかな?」
「ううん、あたらしくきたひとにね、あいさつするの。それがあたしのおしごとなの」
年の頃は6〜7歳ぐらいだろうか、幼い印象を受けた。隣の少年はこちらの方など見向きもせず、僕
は少女の相手をする羽目となった。普段の僕ならそのまま追い返していただろうが何もすることも無
く暇を持て余し始めていたため、いい暇つぶしになるだろうと思ったからだ。
「そうなのか、偉いね」
「えへへ、うれしいなあ」
少女は満面の笑みを隠すことなく僕に向けていた。僕もそれに釣られたのだろう、自然と笑顔が顔に
浮かんでいた。
それからと言うもの、少女は毎日僕の部屋に来ては毎日話をするようになった。驚いたことに僕はそ
れが嫌ではなく楽しみの一つとなっていた。更に驚いたことに、隣の少年もその話に加わるようにな
っていたのであった。隣の少年は僕をも驚かせる知識の持ち主で、僕と少女は彼の話を聞き入ってし
まうことも度々あった。それがきっかけとなり、僕は隣の少年と時々話すようになっていた。隣の少
年は高校二年生で、急性の胃潰瘍で入院したとのことであった。彼と僕は世代が違うものの博識な彼
は僕の話に合わせてくれたのか話が合わないことが少なかった。
退屈だった一週間はあっという間に過ぎていった。
僕の検査結果は大した事はなく、一時的なものだったらしい。医者からは油断しないで注意しなさい
と言われ、僕は退院することになった。
僕は少女に退院することを告げたら、少女は寂しそうに唇をギュッと閉じた。目は潤んでいた泣く事
は無かった。それがかえって僕を寂しくさせたので、僕は少女と約束をした。
「退院してもまた遊びにくるよ」
「ほんと!?やくそくだよ、ぜったいにぜーったいだからね!」
「うん」
「じゃあ、ゆびきり」
小さな、細い小指が差し出された。僕は彼女の小指に自分の小指を絡めると彼女の指の小ささが感じ
られて胸が痛んだ。
「おにいちゃんもゆびきり」
少年も少女の指に自分の小指を絡めた。僕も、少年も迷いは無かった。
「ゆーびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーーます」
「「「ゆびきった!!!」」」
退院してからというもの、一週間休んだ分の仕事が溜まりに溜まっていた。嫌味な上司もそのままで
僕はあの入院した一週間が遥か昔のように感じられていた。そして、毎日残業となりあの少女との約
束も果たせぬまま記憶の端に埋もれていった。
そんなある日の帰りの電車の中だった。
「こんにちは」
声を掛けてきたのは病室で隣だったあの少年だった。少年は近隣では進学校として名高い高校の制服
を身に纏っていた。病衣の時との彼と印象が違ったので一瞬誰かと思ってしまったのだった。彼も先
週退院したばかりだといっていた。
懐かしさのあまり話が弾み、話題はあの少女のことになった。聞くところによると彼も退院して以来
彼女には会っていないという事であった。僕もようやく状況が落ち着き、明日二人で面会に行くこと
を決めた。
−翌日−
僕は会社の近くにケーキ屋で小さなショートケーキを買い、少年との約束の場所に向かった。少年は
小さな花束を持っていた。
病院に行き、少女の名を聞いて部屋の場所を聞き僕らは部屋に向かった。
ドアをノックする。「どうぞ」と声が聞こえ、僕らは少女の部屋に入った。そこで僕らが見たものは
数本の点滴のチューブが彼女の細い腕を繋いでいた姿だった。
「あの…?」
多分母親であろう女性が僕らを不思議そうに見た。それも仕方がない、少女の部屋に中年男と高校生
の見知らぬ二人連れが見舞いに現れれば僕だって不思議に思うだろう。少年がその女性に説明すると
その女性がああ、という感じになった。
「あなた方が娘が毎日話していた『おにいちゃん』と『おじちゃん』だったのね」
少女は眠っていた。女性、いや少女の母親は僕らを見るその瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。
「娘が、毎日楽しそうに話してくれたんです。お二人に毎日遊んでもらったと…」
「はあ…」
気の抜けた返事しか出来なかった。僕は今世界で一番間抜けな顔をしているに違いない。
「おじちゃん…おにいちゃん…?」
目が覚めたのであろう、少女が僕たちを呼んだ。母親が近くに寄るように勧めた。
「あそびにきてくれたんだ…よかったぁ」
「うん、遅くなってごめんね」
少女は以前よりもか細くなった声でそれでも軽く首を振った。その後には以前と変わらない笑みを見
せていた。少しだけ、僕らは少女と入院していた時のように話をして、部屋を後にした。その時だっ
た。少女の母親に呼び止められた。
「あの…失礼なお願いで申し訳ないのですが、これからもまた娘に会いに来て頂けないでしょうか?」
最近、調子が悪く時々思い出したかのように僕たちとの思い出を語る娘に、母親は顔も名前も知らな
い人間をどう探していいのかすら判らなかったらしい。母親の気持ちを汲んでやってもいいかと思い
ながら、僕はその申し出を受けた。どうやら少年も同じ気持ちだったらしい。
それから、時々僕と少年は少女に会いに行った。
そんなある日のことだった。
今日も僕は少年と共に少女に会いにいった。
しかし、いつも少女がいた部屋には別の名札が下がっていた。不思議に思い、病棟の看護師を捕まえ
て尋ねるとその少女は先日亡くなっていた。看護師が思い出したように一通の手紙を持って来た。
それはあの母親からのものだった。
中には少女の病名と、最期について。それから今までの謝辞を述べた言葉が書かれてあった。
僕らは呆然とそこから動くことが出来なかった。
もう、少女がこの世にいないことを自分の中に自覚させるまで時間が必要だったから。
僕らは、看護師に特別に住所を教えてもらい少女の家へと向かった。
遺影の写真の少女は初めて出会ったときに見せたあの笑顔のままだった。
焼香をすませ、少女の家から出て行こうとしたその瞬間だった。
玄関の先に蝉の遺骸が転がっていた。普段なら気にも留めないのに何故だか目が離せなかった。少年
も同じだったらしい。僕らには、その蝉の死骸が少女に見えて仕方がなかった。
どちらかともなく、その蝉の死骸を拾い少年の持っていたハンカチで優しく包むと僕らは病院の庭に
その蝉の死骸を埋めた。
それから僕も少年も会うことは無くなった。
夏の終わりに出会った少女は蝉のように短い一生を燃やし尽くして、そして消えた。
2003/01/29 tarasuji
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