058:風切羽
「鳥が羽ばたく為に必要なのは何か知っているかい?」
私は彼と先生のところに向かった。
私たちは今年の春に結婚することを決めた。
しかし、それを何故この先生に報告に向かうのか、普通なら親ではないのだろうかと聞いたら言うだろう。
それには少し理由があった。
まず、私は両親も親戚もいない天涯孤独の身の上である。
・・・なんて言ってしまえば格好いいのだが、簡単に言えば私は生まれたときに捨てられたのであった。
先生はその後、私を育てて故郷とでもいうべき施設の職員だった。何時か私は先生と呼ぶようになっていた。
勿論、先生は勉強を教えるのも上手かったし、その後私にとって教師は何人も現れたが、『先生』と呼べるの
は、先生と呼びたいのは後にも先にもこの人だけだったから。
その内、私も年頃の女性に成長し、何とか高校まで卒業した後は就職することができた。
勿論、その就職も先生が親身になってくれたから出来たのだったのだが。とにかく、私は今まで育ててもらっ
た恩返しをしようと一生懸命働いた。年が若いということや、職場の人間関係もいろいろとあったが、血気盛
んに「辞める!」と泣いて、怒って騒いでいた私を先生は何度も何度も根気よく諭してくれた。
ここまでくれば、もう父親……いや、それ以上の存在に先生はなっていた。恋愛というよりはむしろ親愛という
感覚の方が近いような感じではあったが。
先生には優しい奥様が居たが、何故だか子供が居なかった。
今思えば、先生は子供が出来なかったから、その分も含めて私を始め施設の子供たちにあれ程優しかったので
あろう。でも、それは今だから考えられるが何も知らない昔は私は本当に先生が私のお父さんだったらいいの
に何度考えたかわからない。だからこそ、大好きな先生の子供になりたかった。
でも、そんな子供の憧れも年を追うごとに小さくなっていった。
成長していくうちに、私も何度か恋をした。先生には何も言わなかったが、振られたあの日も、告白されて
有頂天になっていたあの日も先生は何一つ変わらず優しかった。
それは何度目かの恋だった。
職場によく出入りしていた雑貨の業者さんが私は気になりだした。それでも、中々声も掛けられずどうしようか
迷っていた頃その人が突然声を掛けてくれた。
「今度一緒にお昼食べませんか?」
私は言葉が上手く出ずに首を思いっきり振って肯定の変わりにした。
それから、何度かご飯を一緒に食べているうちに私は段々彼の事が好きになっていった。それは彼も同じだっ
たらしく、それから一年後私は彼にプロポーズされた。
しかし、実際問題として結婚することになり私は自分の生まれが判らないことを不安に思った。
彼には立派に両親もいるのに、私みたいな素性の知れぬ人間の娘と結婚することなど反対されると思っていた。
だから、私は彼との結婚を諦めようとしていたのだ。
しかし、そんな私の考えに影響を及ぼしたのが先生であった。
「君が自分の生まれが判らないことが不安で彼を受け入れられないなら、私の養女になればいい。そうすれば、
君は『私の娘』として存在できる」
更に先生はこう続けた。
「しかし、君は彼に自分のことを話したのかい?もし、彼が君の素性を知って逃げ出すような男なら君から振っ
てやればいい」
先生はその時は自分が一発殴りに行ってやると拳を振るう真似をした。更に言葉は続く。
「それでも逃げ出さないようないい男なら、そいつを育てた両親も同じだよ。彼と何処か似ているはずさ。
多分、君を受け入れてくれる」
先生の言葉が少し、弾かれてから徐々に染みていく。
「最初は本当に勇気に要る事だ。だけど、踏み出さないと始まらないこともあるんだよ」
その先生の言葉だけを頼りに、私は今まで言い出せなかった自分の過去を彼に告げた。彼は、少し驚いて、少し
困って、そして少し微笑んだ。
「心配かけたね、でも大丈夫。父も母もそんな事気にしないから」
重荷が…音を立てて落ちていった。
その後会った彼の両親も私の事を知っても問題は無かった。それどころか私の事を気遣って式は本当に親しい
人間だけで挙げることになったのだ。そして、あっという間に月日は流れ私たちの挙式の日取りが決まった。
私たちはその招待状を届けるために先生のところに向かった。
先生と、先生の奥様は本当に嬉しそうに私たちを祝福しれくれた。
先生は、一旦自室に行くと、一つの箱を持って戻ってきた。それは何か尋ねると、先生はその箱をゆっくりと
開けて見せた。
中には一枚の鳥の羽
私と彼はそれを不思議そうに見ていた。先生は私たちの疑問など見透かしたかのように言葉を紡いだ。
「鳥が羽ばたく為に必要なのは何か知っているかい?」
私たちは首を横に振る。
「これは風切羽というんだ。鳥が空を飛べるのはこの羽根のお陰でもあるんだよ」
先生は昔から色々なことに詳しかった。だけど、まだ私たちには話の意図が掴めない。
「風切羽には初列風切羽と次列風切羽があってね、初列風切羽は、羽ばたいたときに前進する役割がある。
次列風切羽は、体を浮かせる役割」
先生が私たちをじっと見た。
「君たちはこの風切羽のようなものだ。鳥が羽ばたくには、初列風切羽と次列風切羽は欠かせないものなんだ。
例えば、彼は初列風切羽。前へ進むために君を引っ張って行ってくれる。そして君が次列風切羽。彼が進むた
めの準備…力になるんだ。そして、鳥が止まる為に必要なのは尾羽だ」
初列風切羽と次列風切羽…私と彼の関係だ。だけど、尾羽の役割って…
「尾羽はブレーキや方向転換するための機能。多分、これはこれから生まれるであろう君らの子供のことだ。
子供は君らの人生に大きな影響を与えるだろう、思いも寄らぬ道を歩むかもしれない」
……これから生まれる私たちの子供
私と彼は顔を見合わせて少し赤くなった。先生の話はまだ続く
「私と妻には子供が出来なかった。しかし、そんな時に君に出会った」
先生がいつも見せる穏やかな微笑みを私と彼に向けた。
「君はもう少しで離婚するところだった私たち夫婦にとってのまさしく『尾羽』だった。私たちの人生の方向
転換をしてくれたのだよ」
先生は彼の方を見て、真剣な表情を見せる。
「この子は娘同然に育てた子だ、だから、彼には君を幸せにして欲しい」
その言葉にいつしか涙が止まらなかった。
「俺は、彼女を一生大事にします。彼女が貴方から受けた愛情も含めて」
本当に、涙が止まらなかった。
私は先生の風切羽の話を一生忘れないだろう。
例え、この先どんな運命が訪れようとも、鳥が空を飛ぶように私たちもそんな風に自然に一緒にいられたら…
そして、いつか生まれてくるこの子にもこの話をしてあげようと決めていた。
それから春が訪れた。
本当に身近な人々に見守られ、私と彼は結婚した。
空は晴天
祝福するかのように、空には鳥が舞っていた。
2003/02/19 tarasuji
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