047:ジャックナイフ
むかしむかし、この大陸にとても強い『殺し人』が居ました。
人間も、魔族も沢山倒しました。その人が通った後に生きている人間など居なかったそうです。
人々も、魔族も、その人に畏怖を込めてこう呼びました。
『ジャックナイフ』 と。
名前を呼ぶだけでも忌み嫌われたその存在。
それは、遠い昔のお話です。
「さっさと行きなさい、ここで貴方が倒れてどうするの!」
魔女に囚われた王子を救う為、姫は国内でも誰も近寄らない大迷宮へと潜り込んだ。しかし、
流石に勇気と知恵に溢れた姫といえども数々の魔物と罠に戦うには体力が足りない。もう少し
で王子の囚われた最奥までたどり着けるというのに、そこに待ち受けていたのは魔女の一番
強力な使い魔の魔族の青年だった。
既に体はボロボロ、歩くのもやっとというそれだけの体に姫の命もここまでか、と最後の覚悟
を決めたその瞬間。姫の目の前に現れたのは…
「まったく、貴方っていう娘は本当に無茶するんだから」
「え…あの、従者さん?」
口調さえ覗けば容姿端麗の青年が姫を守ろうと立ち塞がっていた。
その青年はいつも王子の側にいた従者で、王子は彼のことをとても信頼していたのだ。だが、
魔女の罠に嵌まり王子が誘拐されたそのときには動くことも出来ずにいた。
この従者は王子のことをとても大切にしているのが姫の目からもよく分かっていた。最も、用
事や何らかの理由で姫が王子を尋ねると彼はいつも王子は留守だと嘘をついていたが。
多分、たとえ姫が隣国の王女だということを知っているとはいえ、王子に近づくのが嫌だとい
う彼の嫉妬なのだろう。姫に対しては対応も冷たいし王子と居るのも我慢ならないといった風
味であった。上手いことにその嫉妬は彼の言葉遣いと物腰に綺麗にオブラートされているから
こそ誰も信じなかったのであろうから誰にも言わなかったがが王子を愛している姫だからこそ
理解できるのであろう。
彼も、王子を愛していると。
それでも、王子が本気で怒らない程度の嫌がらせしか姫にはしてこなかったし、何しろ、王子
に向ける笑顔が何よりも優しかったから。
王子が望めば従者は姫と王子を二人っきりにしてくれた。姫が王子を助けに行くと言ったその
時も従者は唯一姫に強力をしてくれたのである。
以前、姫は王子に従者の言葉遣いについて聞いたことがある。王子もその理由は知らない様子
だったが王子はその口調が従者に良く似合っていると思った。勿論、姫も同様だった。
「助けてくれてありがとう」
「別に、貴方のためって訳じゃないわ」
従者は少し諦めが交じったようなそんな声で姫を見る。
彼自身も己の感情を制御しきれていない、そんな印象を受けた。
「貴方が、ここで倒れたらあの方が悲しむから」
そう言い切った従者の顔は何処までも優しかった。姫の為ではなく、あくまでも王子の為なの
だという彼の横顔に姫は何故か安堵すら感じた。自分の恋敵であることは確かだけれども、今
だけはそれ以上の何かを感じていたのだから。
「さあ、行きなさい」
「ええ」
姫は一度、頭を深く下げて、そしてその場から走り去った。従者が心配でここに留まろうかと
考えたがそれこそ王子に対する彼の気持ちを侮辱するような気がしたからだ。
だから、振り返らなかった。
もてる力を振り絞って最奥まで駆け抜けて行った。
姫が走り去っていくのを確認して従者は目の前の敵を見た。
「あら、いい男。敵にするには勿体ないわね」
「オカマに言われたくない」
「あら、口調だけでそうだなんて判断されたくないわ」
従者の口調は変わらず、ただ、表情だけが姫に向けた物とは全く違うものであった。殺意すら
呼び寄せ、氷を思わせる。
「只者ではないな」
そう、魔物が口を出したその瞬間、魔物の肉体は鮮血を迸らせていた。無数に切り裂かれる痛
みに魔物が膝をついて倒れる。
「残念、見た目は本当に好みだったのだけれど」
血まみれのその姿にたじろぎもせず、従者は倒れた魔物の目の前に立っていた。
「こ…この…強さは……な…何者…」
「“ジャックナイフ”を知ってる?」
「ジャッ……、貴様が……!!」
「もうお喋りはお仕舞い、じゃあね」
その瞬間、魔物はその場で塵となり、四散した。従者はその様子を見ながらいつもの顔に戻っ
ていく。もう従者の頭の中には魔物のことは何処にもなかった。
「折角出番を譲ってやったのだから、ちゃんと連れて返ってきなさいよ」
先程助けた姫の顔が浮かんだ。大事な人を攫っていくのに、彼はそれでも姫のことを嫌いには
なれないのだ。姫といるときの王子の顔がとても幸せそうで、王子が幸せなら従者も幸せだか
ら。ただ、それが自分でないのがちょっと悔しいのだ。
魔物の返り血だろうか、手の甲に僅かだけ血が付いていた。
従者は己の手を見るたび、自分が血まみれで生きてきたことを少しだけ思い出すが、そんな感傷
は必要ないと血をぐいっと拭い落とした。
もう一度、姫の走っていった方向をもう一度確かめながら従者は歩き始めた。