045:年中無休
その一冊にはいろいろな人間の人生が込められていた
「おめでとう」
「ありがとう」
郊外にありふつうのファミリーレストランで、それぞれの好物を取りながら二人きりの
ささやかな祝賀会が行われた。
「長かったわね」
「でも、あっという間だった気がするよ」
僕はトンカツ定食を、彼女はカルボナーラスパゲッティをそれぞれ口に運びながら、そ
の合間に言葉を続ける。
「どのくらいかかったっけ?」
「取材に約3年、編集に1年」
「そっか」
僕はトンカツをサクサク音を立てながら、彼女はスパゲッティをすすりながら。時折、
口直しに水を含みながら会話を続ける。ゴクリ、と水を飲み込んだ。
「でも、ようやく完成したわね」
「うん…僕にとってはやっと完成したものだ」
ご飯を一口、口に入れて味噌汁で流し込む。
「そうね」
彼女は自分のバックの中から一冊の本を取り出した。
『年中無休』
そんなタイトルの一冊。この本は日本全国にある年中無休で商売をしている人間を取材
したエッセイ集である。主に、老齢の駄菓子屋から、夫婦二人で細々と商っている小料
理屋、田舎町の山奥の旅館を経営している若夫婦など、何処か情緒という言葉の似合う
情景が綴られている。これはある雑誌に毎月連載されていたのものを一冊に纏めた本で
あった。そして、何を隠すこともないこの本の作者は僕なのである。
世間的には無名の僕は、雑誌の仕事をこなしながらその日その日を食いつないでいるよ
うなものである。だが、このエッセイの連載を機会にあちこちから声を掛けられるよう
になっており、僅かながら、そう本当に僅かながら蓄えも出来たのである。今日はその
本の完成を彼女が祝ってくれるということで僕はこうして彼女と会っていた。
祝いと言っても特別なことは何も無く、それぞれが好きなものを自費で食べて話をする
程度のことであったが、僕としては誰に祝ってもらうよりも彼女に祝ってもらうのが一
番嬉しいのだから何でもいいのである。そして、僕は今日彼女に言いたいことがあった。
僕がこの連載エッセイを書くに当たって一番心の支えになってくれた彼女にどうしても
言わなければならないことがある。僕は、もう一度水を飲むと箸を置いた。
「あのさ…」
「何?」
「僕と『年中無休』の間柄になりませんか?」
「嫌」
僕の提案は呆気なく却下された。彼女は再びスパゲッティをすする。僕はこれ以上彼女
の顔を見るのが辛くなって、もう一度水を飲むと財布から自分の分のお金を取り出す。
理由など女々しいことを聞けるわけも無く、僕の男としてのちっぽけなプライドがその
場から立ち去らせようとしていた。
「帰るの?」
「ああ」
「待ちなさいよ」
僕にここに居ろというのか、彼女が一気に皿に残っていたスパゲティを平らげた。僕は
再び席に着かざるをえなかった。
「早合点しないで、私は貴方とそういう関係になるのが嫌なのではないの。ただ、私は
『年中無休』にはいられないだけよ」
「それって…」
彼女はさらにコップに残っていた水も一気に飲み干した。
「私だって休みは欲しい、疲れるときもある。だから、それでも良かったら私は貴方と
結婚したいと思う、駄目?」
思いがけない返答に僕がどれだけ狂喜したか想像つかない。僕は彼女にもう一度告げた。
「『年中無休』の間柄になれとは言いません、ですが僕と一緒になって欲しい」
「いいわよ」
僕は余りの嬉しさに彼女の分まで会計を支払ってしまっていたことに後で気が付くのであった。