040:小指の爪
誰にも捕まらない
私は最期までずっと逃げ切ってみせる
「待て!」
男の叫び声が耳に入る。
逃げ場はない。後ろは海に切り立った高い崖の先端、ここから落ちれば命の保証はない。
けれど、けれどここで彼に捕まることは出来ないのだ。
私は己の左手をもう一度だけ眺め、そして微笑んだ。
その左手の小指の爪は深紅のマニキュアで彩られていた。
「私の…勝ちよ」
ゆっくりとその小指の爪を唇に当てた。
私は、誰にも捕まる訳にはいかないのだから。
俺はずっと女を追っていた。
女は自分の一族全員を殺害し、そして今の今までその証拠を誰にも掴ませることなどなくのうのうと生きてきた。女の犯罪の証明を明かすことが出来るのは俺自身のみ。
しかし、何故か女と俺は追うものと追われるものの立場があるというものの、奇妙な縁が生じていた。女を追うのは刑事としての俺自身か、それとも一人の男としての俺自身か自分自身でも区別がつかなくなりそうなことも何度かあった。それは女が自己顕示欲の為に殺害という罪に手を染めているわけではない事を知ったあの時からその葛藤はますます強くなっていった。
女は最後の一人を俺の目の前で行った。俺は刑事だった、女は犯罪者だった。だから、俺は最後の殺害を終え、目の前から逃げようとする女を追った。女の纏う覚悟に俺自身が嫌な予感を感じていたのだから。
彼女の背後から月光が逆光となって照らす。断崖絶壁に追い詰められたというのに、その微笑は最初に出会った時と同じく影のある儚さを湛えた微笑。それはちょうど月光と相乗して更に淡く微笑んでいた。その微笑の中にある意志を秘めた眼差しは変わらず俺に向けて。
「待て!」
女はゆっくりと左手の小指をゆっくりと口元に持ってくる。それが彼女の癖だということを知ったのは何度目の邂逅だったであろうか。
小指だけに塗られた深紅のマニキュアが何故か血のように見えた。それは月夜にも映えており、俺の印象にも鮮やかに残される。
「私の…勝ちよ」
その微笑みと同時に女の体は風に乗ったかのように、後ろにふらりと倒れていく。
−毒か!?−
急激に力を失い彼女は崖から落ちていった。追いかけて手を差し伸べようとするが、崖下から吹き抜ける風がそれを阻止するかのように強く吹き荒れる。俺は結局、女を捕まえることなく、女はいつも何処かへ行ってしまうのだ。
女は最後まで微笑んでいた。口の端から一筋流れた深紅の血が女の白い顔を鮮やかに彩り、俺は崖の先端からその光景を見ているしか出来なかったのであった。
女の死体はそれきり上がらなかった。
だから、俺は女が死んだなんて信じていない。あの女はいつか再び俺の目の前に現れるに違いないのだから。勝ったままで、逃げたままではいさせない。いつか捕まえるのだ、必ず。
俺の網膜に焼きついたかのように、女の小指の爪に塗られた色が離れない。月夜だというのに、何故か鮮明に見えたあの色が俺の脳裏に蘇る。
その深紅は俺を永劫に捕らえ続けるのであろう
そして女は永遠に逃げ続ける
俺の手の届かぬところまで
2003/11/04 tarasuji
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