004:マルボロ
大事なものを他人に渡すって事は、どれだけの覚悟が存在するのだろう
まして、掌中の珠とも呼べる存在であればそれは…
恋人の家を訪れた時、俺は恋人の父親から誘いをうけた。
「少し、散歩にでもいかないか?」
俺の恋人は少し不安そうな顔を見せるが、俺にはその誘いを断る理由もないしむしろ、
こうして二人っきりで話をする機会が出来たと言う事はよき悪しきはともかく俺が成し
遂げなければならないことであるのだから。
俺は恋人の父親の後を付いていく
言葉を交わすわけでもなく、ただ、何処に行くのかもわからぬままに
俺と恋人の出会いは部活での先輩後輩の間柄だった。
中学の時からの長い付き合いで、互いを意識し始めたのはそれから数年。
一言にすれば、その長い付き合いの中には当然の如くいろいろなことが存在して、よう
やく互いの思いを確かめあって。今では互いが互いに必要な存在になって、そして俺た
ちは恋人となって…
だからその恋人の両親に会うのは俺にとっては緊張もののわけであり、同時にこれから
に関わる大事なことであって…俺はどうしていいかはっきり言えば、困っていた。
俺は恋人からは饒舌だと言われることが多いが、これが自分のことになればからっきし
な訳で。けれども恋人には見せないようにしているのだから、あいつがそれを知ってい
ることはない…とは思うものの。
そんな事を考えながら恋人の父親の後ろをついていくと、ふと河原の土手に下りていく。
確かここは…しかし、俺に考えることもなくあいつの父親はどんどんと歩いていった。俺
も急いで付いていく。
それから再び歩き続け、ふとあいつの父親の足は川端で止まった。
「少し、休まないか?」
そういうと、あいつの父親はどっかりと腰を下ろす。
俺は、少しずうずうしいだろうかと思いながらもそれを表には出さずに、その隣に座った。
川のせせらぎとは程遠い、車のエンジン音やら走行音が響き渡る下でこれまた綺麗な川とは
言えない川の岸に二人で座り、特に会話のないまま時間が過ぎていく。
勿論、その間も俺の中では緊張は解けることなく、何を言われるのか待っていることしか出
来なかった。
「火、持ってるか?」
あいつの父親がポケットから煙草を取り出す。
俺はポケットからライターを取り出すと、火を付けてやる。あいつの父親は、煙草を口にく
わえるとゆっくりと吸い始める。ちなみに、銘柄は【わかば】だった。
「煙草吸ってること、知ってたんですか?」
返事の代わりに無言で返される、そうなってしまえば俺が口を挟むことが出来る筈もなく。
ただ、黙って川の流れを見ているしか出来なかった。あいつの父親は煙草を吸い終わると火
を消して持っていた携帯の灰皿にしまいこんだ。そんな何でも無い行動が恋人を思わせる。
あいつも、そういうことの出来ない生真面目な人間でそれはこの父親から来ているのだな、
と彼のルーツを思うことが出来る。
ふと、父親が口を開いた。
「あれを頼む、俺の大事な息子だ」
突然のことに俺は一瞬何が起こったのかを見失いそうになった。しかし、その意味は確かに
俺とあいつの事を全て判っている上での言葉だった。
「ええ」
きっと大事にしますとか、幸せにしますとかいう言葉を述べるのは簡単だった。けれどもそ
れは言わなかった。
「煙草、一本くれ」
どうやら先ほどので最後だったらしい。俺はポケットからマルボロを取り出すとあいつの父
親に差し出した。俺はもう一度、火を付けてやると自分も一本吸う。
互いにそれ以上何も言わなかった。
ただ、いくら大らかになったとは言え未だに社会的にタブーな関係の俺と恋人に対して、そ
の行動は許しを得たといっても過剰ではないように思えた。俺は素晴らしき恋人と、その素
晴らしき恋人の父に胸の中で最大限の感謝を何度も述べ続けていた。そしてその愛しき恋人
を何よりも大事にしたいと、更に強く願う。
父親は、煙草を吸い終わると再びあいつの自宅の方に足を向けた。
その背中に、許しと不安と、優しさの微粒子を纏わせて歩く後姿に、俺は気付かれないよう
に深々と頭を下げたのであった。