035:髪の長い女
昔から僕の記憶に強烈に焼きついた女性がいた。
黒い髪の長い女性。髪だけでなく、目も、服装も真っ黒。
それは漆黒、鴉の濡れ羽の様に。
底さえ知れぬ闇かと思えば安らぎをもたらす夜のように。
かと思えば、肌は石膏のように白く透きとおり僕はその女性から目が離せなかった。
その女性は時々僕の目の前に現れては少しだけ、そう本当に少しだけ。それも儚げに微笑んだ。
何故か、その女性の姿は僕にしか見えなかった。
父に聞いても、母に聞いてもそんな女性は居ないというのだ。
だけど、僕にははっきりとその女性が見えている。
両親はそんな話をする僕にそれは幻だと言った。そしてそんなことは忘れなさいとも。
嘘などついていないのに、友達は僕を嘘つき扱いした。
いつしか、その話をすると母がヒステリックになって僕を叱った。
だから、僕はその話をするのをやめるようになった。
僕は、母を悲しませる『可愛そうな子』にはもうなりたくなかった。
いつしか、その女性の姿はだんだんと薄れていって、僕自身にも姿は見えなくなった。
それと同時に僕の中にあんなに強烈に焼きついていた彼女の印象が、霞がかかったようにおぼろげになっていった。
僕は退院することになった。
僕は若年性の…ええと何ていってたかな?病名は母は教えてくれなかったので詳しい頃はわからなかったが、僕は子
供の頃から病弱で何度も入退院を繰り返していた。父は僕は下手するもうすぐ死んでしまう可能性が高かったんだ、
だから今生きていられることに感謝して精一杯生きろ、と目じりに涙を潤ませて僕に教えてくれた。
あれが厳格だった父が唯一僕に見せた涙だった。
その当時、母は家のことと心身共に僕のことで疲れ果てていた。何しろ母もこれ以上子供を作ることが出来ない体で
(これは後で知った)僕はたった一人の子供だった。その上、体が弱く生まれたことで父方の祖父母はかなり母を詰っ
ていたからだ。
だから、退院した後の僕は少しでも母を悲しませないように常に立派であることを自分に課し、あの日の父が僕に言っ
た『精一杯生きろ』という言葉の通りに人生を歩んだ。知人に薦められて結婚した妻とも上手くやってきたし、子供
も生まれ僕はいつしか曾孫までいる年代になった。
その時にはあの女性の頃は記憶から無かった。
陽気も朗らかな頃、僕は縁側でのんびりと椅子に腰掛けて外を眺めていた。
その瞬間、僕の眼前にはあの女性が現れた。
石膏のような肌、黒尽くしの格好、そして長い漆黒の髪。
その姿に無くなったはずの記憶が噴き出したように脳裏に湧き上がり、波の如く押し寄せてきた。
遥か昔、記憶の中に沈めたその姿のまま彼女はそこに居た。変わらない微笑で僕の方に近寄ってくる。
「迎えに…来ました」
鈴を転がすようなそんなか細い声。
初めて聞いたその声は昔の僕がイメージしたそのままで。
彼女は僕に語りかけ、僕の方に近付くとゆっくりと手を差し伸べた。
「会いたかった…」
僕は、今度こそ幻ではないことを確かめようと差し伸ばされた手を掴んだ。
その手を掴んだ瞬間、本当に彼女の存在があったことに喜びを感じながら、最後の意識を手放した。
「ねえ、起きてよ」
「どうしたの?」
「おじいちゃん、眠ってしまったみたい。全然起きないんだ」
「今日は天気がいいからね、少し眠らせてあげなさい」
「はーい」
春の陽気もうららかに、僕が出会った長い髪の女性は僕を迎えに来た死神だった。
2003/01/22 tarasuji
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