030:通勤電車
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
こうして私はいつものように妻に見送られ家を出た。
家から歩いて15分の道のりを歩き、駅に向かう。
定期券を見せ、空いている座席に座る。
もともと、人口の少ないこの町では、電車はサラリーマンと学生が殆どであった。私は発車するまでいつものように
文庫をめくり時間を待つ。それから10分も経つと隣の市に通う高校生が一人、二人と乗ってくる。
私の若い頃とはすっかり様変わりしても、好きな人のことや、勉強のこと放課後のことなど話している内容は昔とさほど
変わることも無く。その姿に若い頃の自分の姿を密かに重ねてみたり、自分の子供たちを重ねていた。
「次は●●、お客様はお忘れ物の無いように・・・」
いつも聞こえる車掌の声。
私はこの声が好きだった。美声とまではいかないが張りのあって聴きやすいその声、はこの電車に乗る時の楽しみの一つ
でもあった。一度、思い切ってその車掌に声を掛けようと思ったが、時間が無かったのと恥ずかしさに負けて結局は叶う
ことが無かった。今日こそは…と思っていても人ごみに紛れて機会を失っていた。
文庫から視線を外し、窓の外を見る。
周りは一面の畑だったのに、何時の間にか灰色のコンクリートがちらほらしていた。
私が会社に勤め始めた頃はまだ、この辺りは私の会社だけしかなかったのに。
時の流れというものを目で実感しつつ私は文庫に視線を戻した。
電車の中というものは意外に読書に向いていると思ったのはいつの頃だったろう。最初は書類の再チェックやビジネスの
マニュアル本だった。家でも会社でも読む時間が無かったから仕方なく読んでいたような気がしたが、今ではこの時間が
私の楽しみになっていた。古本屋を巡りその為の本を買いに行くこともあった、もっとも妻は本が増えて片付けが大変と
ぼやいていたが、他に趣味の無い私だからかそれでも大目にみてくれたのであろう。
今度、行きたがっていた旅行にでも連れて行こうか。
そうすると、今度は旅行社にパンフレットでも貰いに行こうか。
そうこうしている内に目的の駅へのアナウンスが流れ、私は急いで文庫を鞄の中にしまい定期券を取り出した。
同じ電車に乗っていても朝と夜、行きと帰りではまた違うものがあった。
夜は夜で、仕事帰りのサラリーマンが多かった。時々、朝に同じ電車で見かけた学生がいたりしたものの。
長年、同じ時刻に電車に乗っていると自然に顔見知りが出来る物である。挨拶などしないが、乗っていないと寂しいもの
を感じていたりするのだ。朝とは違い帰りの電車では眠ることが多い、やはり疲れているのだろう。
幸いにも私の降りる駅は終点だから間違って乗り過ごす事は無い。時々、寝ぼけていつもより早く降りたり寝過ごしてし
まった人もいたが、そういうのは本人が一番恥ずかしいのであろう。
そうこうしている内に終点に着き、私は電車を降りた。
朝の車掌が改札口にいた。
「ご苦労様です」
「車掌さん?」
「どうしました」
「あの…私、貴方の乗車案内の声が好きだったんですよ」
突然、私は何を言い出したのだろう。車掌も驚いているに違いない、自分の行動に自分自身も驚いていた。
「ありがとうございます」
車掌はそういって微笑んだ。後ろから人がつっかえて来たのでそれ以上話は出来なかったが、それだけでも良かったと
思い、私は家へと向かった。
「ただいま」
ドアを開けると妻が待っていた。
「おかえりなさい、今までお勤めご苦労様でした」
今日は私の定年退職の日。
2003/01/29 tarasuji
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