015:ニューロン −A smile of a machine doll 9−
私が初めて出会った貴方
私は決めた、この人のそばにいたいと
それゆえに貴方を悲しませることになろうとも
僕は目の前で眠るように横たわる彼女の姿をじっとみていた。
彼女の名は…
「やあ」
彼女の傍から離れられない俺は、訪ねてきた友人に右手を軽く上げて声をかけた。そんな俺の対応に友人は一瞬表情を曇らせた後で、なんでもない風を装って僕の前によってくる。そんな友人の心遣いに俺は感謝しながらも、それを表に表さないようにしていた。俺も、友人もそうやって表情を表に出すことが苦手だったから、互いにそれを責めることなどなかったから。
カツ、カツ、カツと硬質の音を響かせて友人は俺の傍に寄ってくる。
友人は俺と、俺の目の前に横たわる彼女の姿を交互に見て、それからもう一度俺の顔を見た。多分、俺の顔は世界で一番情けない男の顔をしていることは確かだった。友人は何も言わなかったが、それは俺自身が一番判っていたから。
「彼女…まだ目を覚まさないの?」
「ああ、あれから何をしてもな…」
友人と俺はもう一度、目の前で眠り続ける彼女の姿を見ていた。
肌理細やか、という言葉通りの白い、透き通るような肌。造作の整った顔立ち、すっと伸びた鼻筋、少し濡れたような艶を放つ唇、広がる漆黒の髪の毛、開けば蒼玉の宝石のような瞳を持つ瞼はずっと閉じられたまま、薔薇色という名が相応しい頬は生気を消しそれは人形のように眠り続けていた。
・・・いや、『人形ように』という表現は相応しくないな。
正確に言えば彼女は【人形】なのだから。人形である彼女が人形らしいことに何の不都合があるのか、そして何故人形ながら生きている人間のような表現を俺はしているのか。
答えは一つ、彼女はただの【人形】ではないから。【ウィル】と呼ばれる機械人形、人間さながらの表情の変化と機能を持ち、人間の補助の為に存在する人形。噂では古代の秘術と最新の科学技術の粋を極めたシステムを持ち合わせた奇跡とも呼べる存在。人間の下に仕えるために色々と機能は制限されているものの、それは人間社会に適合した存在とでも言してもいいだろう。それゆえに高級品の一種でも言っていいのかもしれない。安いものでも購入したあともかなりの資金がかかる。例えば車と同じものだといってもいいのだろうか、入手した後にも整備や点検に手間がかかるというのが、それは車とは比較にならないほど綿密なために費用がかかるのと言われている。だからその性能の割りには余り一般家庭には浸透していない存在であることも確かである。
そして、その機械人形は今、俺の目の前で眠り続けている。正確には機能を停止しているというのが正しいというのであろうが、目の前に居る彼女は【眠り続ける】という表現が何よりも相応しいと俺は思っているのだ、だから僕はこうして彼女が眠り続けているのをじっと見守っている。
「彼女が【こうなって】からもうどのくらいだっけ」
友人は俺に返答を求めていない。ただ、その沈黙を破るためだけだろうに俺に声を掛ける。そう、彼女が眠り続けてからもう…一ヶ月にもなる。たった一ヶ月、けれども俺にはそれは一年にも十年にも、もしかしたらそれ以上の長い月日に感じている。
「少し、痩せたように見える」
友人は俺の顔を見る。俺は最近きちんと鏡を見ていない。彼女の傍にずっと居る。トイレや睡眠以外の生理的現象時以外は殆どだ…。食事もろくに取らない俺にこのお節介な友人は時々さりげない形で食事を取らせてくれた。友人がいなければ俺は栄養失調で自分を追い詰めていただろう。それでも、以前より摂取量は少ないのだから痩せたといっても自分では自覚は存在しない。俺は、少しだけ眉をひそめて、そして口の端を上げるような仕草をして見せた。演技が上手くなったのかそうでないかは判らないが、そういう表情をするのが少しだけ無意識の方に入ってきたのだろうと思う。それだけ、俺の中で落ち着きが現れてきたのかもしれない。
「現在考えられる、方法も試してみた。機能的には回復した、けれど彼女はまだ…」
そんな事は俺が一番わかってるんだ。彼女があの出来事から、一切の機能は回復したと彼女の修復に関与した人形屍生師(にんぎょうしせいし)は言っていた。しかし、どれだけ待っても彼女が目を開くことはない。俺は何人もの人形屍生師に彼女を見せたが、皆同じこと回答を返すのみ。彼女は目覚めない、彼女は目覚めない…彼女は俺の呼びかけに答えない…
「君のせいでない、あれは不幸な出来事だったんだ…」
不幸な出来事!?彼女が目覚めないことは不幸な出来事だというのか…確かに目覚めないのは、俺がこうして寝食も忘れそうになるほど彼女の目覚めを切望しているこの事態は不幸な出来事だというのか。それで全てを片付けようというのか。友人が俺を慰めてくれようとしているのは痛いほどに判る。けれども俺の中ではあの出来事は今でも片付けることなど出来るはずのない濁流のうねりとなって流れ続けているのだ。出口のないその感情は俺の中を巡り続け、勢いは静まることなどなく更に増している。
彼女がこうなったのは【原因】がある。そしてその【原因】が俺自身だということは一番自分が知り尽くしている。そして、その出来事の、その瞬間はいつまでも褪せることなく俺の脳裏に浮かんでは消えて浮かんでは消えて俺を苛み続けている。
「今のお前はただの腑抜けだ」
そうだな、かつては何事にも挫けない屈強な精神力を持っていると言われていた俺だが、たった一人のそれも【ウィル】が目覚めないことでここまでになってしまうことなど当時の誰が想像など出来たことだろう。自分自身がここまで脆い人間であることなど思っていただろうか。
誰が、それを失ってみっともなくなるだなんて思わなかっただろうか。俺は友人のその言葉に反論することもなく小声で「そうだな…」と呟くだけだった。もう、どう思われてもいいのだ。
俺が望むたった一つ、それは彼女が目を覚ますことだけだから…
「何故、人形にそこまで執着する」
その理由は俺が知りたいさ。何故、俺はここまで人形1体にここまで追い込まれている?何故俺は彼女の目を覚ますことを望んでいるんだ。
・・・脳裏に、在りし日の彼女の面影が浮かぶ
ただ、俺を寂しそうにけれどもまっすぐに見つめる蒼玉の瞳。さらさらと流れる人工物とは思えない黒髪は肩の辺りを揺れて。だけど、あの頃の俺は彼女の存在など微塵にも感じていなかった。
数年前、両親が亡くなった。生みの親ではなく、育ての親だった。その年老いた両親が家事を手伝う為に使っていた機械人形が彼女だった。その当時、仕事の忙しさもあって処分するよりも引き受けて家のことをしてもらうためだけに彼女を俺は傍においていた。そもそも、機械人形を買うように両親に勧めたのは俺だし、彼女にすることを決めたのは両親だったのだ。だから、一緒に暮らしていても殆ど俺は彼女と接することなどなく、俺がきちんと彼女を認識したのは両親の葬儀だったというのは皮肉なのか。
葬儀の後、両親の葬儀の席で遺産目当ての親戚に殆どの財産を分配し、養子としての俺は、生活していける必要最低限の分配と彼女を引き受けることだけを告げると幸いにも承諾を得たために俺は面倒は御免だと言う形で俺は彼女と暮らし始めることとなったのである。
それから、少しずつ彼女を俺は認識していくようになった。時折両親の話をしたり、少しずつ話して、一緒に生活を共にすることで少しずつ、そう、本当に少しずつ彼女の存在を意識するようになっていったのである。家に戻って明かりが付いていること、「おかえりなさい」と言ってくれる誰かがいること。それがどんなに幸せなことなのか当時の俺は実感していなかったのだ。あの頃の俺は感情を素直に出すことなど出来ずに彼女の対しても感謝を素直に表すことなど出来なかった。
だから、覚えているのはいつも寂しげに、それでも俺を見つめる蒼玉の瞳だけだったのだ。
恋ではない、多分これは後悔の入り混じった感覚だけだ。子供の頃から素直に感情を出せない自分への後悔と、与えられた両親への愛情を渇望する気持ち、一人で居る孤独。俺はそれを全て失ってからそれに気がついたのであったのだろう。俺はそれを取り戻したいのだ、ただ…それだけなのだ。
「もし、二度と目覚めなかったら…」
「そんなことはない!!」
そんなことがある筈か、そんな事がある筈が無いんだ。彼女は目覚める、彼女は目覚めてそして俺に向かって微笑みかけるんだ。あの蒼玉の瞳を輝かせて、俺を見て。そうしたら俺は今までの分ももっと、もっと彼女を大切にしてずっと傍にいるのだから。
あの出来事…彼女がこうなってしまった出来事が脳裏に蘇る。
あれはほんの些細な不注意だった。
俺はいつものように仕事に出かける為に玄関に向かう。彼女は何か言っていたがそれは記憶に無く俺はそのままいつものように無言のまま玄関から出て行く。彼女は俺を追いかけて呼び止めようとしたがそれに気がつくことなどなく、最後に聞いたのは大きな破壊音。
そして次の瞬間に見たのは壊れた人形だった。
彼女は俺の仕事の資料を大事に抱きかかえるようにしていた。資料は何一つ破損することなく、その代わり彼女の体は酷い状態になっていたのだった。恐らく彼女は玄関に忘れた俺の資料を見つけ俺を呼び止めたのであろう。しかし、俺はその言葉を耳に入れなかった。
彼女の素体は無事に修復されたが、記憶の方が今までのことを覚えているかどうかは確定できないらしい。と修復に関わった人形屍生師は言っていた。人間の脳と同様にデリケートなために記憶回路の状況が完全に修復したとはいえない状況らしい。だから、起動させて目覚めて見なければどうなっているのかは判らないとまで言われた。最悪の場合には記憶を全てリセットをかけて一からやり直さなければならないということも告げられた。それでもいいと思った、記憶を全て失ってもあんな辛い思いを持っているぐらいなら一から新しい思い出を作ればいいと。
しかし、彼女はどうやっても起動…いや目覚めないのである。だから彼女の記憶がどういうものなのか誰にもわからないままこうして一ヶ月が過ぎた。俺はこうして彼女が目覚めたとき一番最初に俺の顔を見るようにそばに居る。
昔聞いたことがある話だ。
赤ん坊が、母親の顔を見た瞬間、網膜から伸びる、ニューロン(神経単位)が、大脳皮質の視覚野につながるんだと。そうすると、脳に電気回路がつながって赤ん坊の記憶に母親の顔が、永遠に刻まれていくという話だそうだ。
人間と人形だから違うかもしれない、けれども俺はその話をふいに思い出し、まるで母親の帰りを待ちわびている子供のように彼女の傍にずっとこうしている。
義理の両親が嫌いだとか言うわけではなかった。彼らは俺を養子としてではなく自分たちの子供と同様に育ててくれた。だけど、その年老いた容貌ややはり養子としての遠慮から俺は彼らに十分に甘えることが出来なかったのかもしれない。俺にとってはあの機械人形が母親のイメージに重なっていたのだろう。だから彼女に対してあそこまで無関心を装いながら、今となって彼女を切望する。自分に都合の良い存在が欲しいだけなのかもしれない。けれども…俺が望むのは彼女が目覚めることだ。他のことは後からでもいいのだ、ただ、俺は…。
「 」
隣に居る友人が俺に向かって何かを呟く。その声が余りに低く俺はもう一度聞き返す。何を言ったのだろう、何を俺に告げようとするのか。俺はゆっくり隣の友人の顔を見た。
見覚えのある蒼玉の瞳、短いが漆黒の黒髪。俺が求めてやまない存在…それは…
何故、何故俺はそれに気がつかなかった!!
「やっと、こっちを見たね」
「どうして…」
目の前にいるのは俺がずっと求めていた彼女の微笑。
「それが、望みか」
「はい」
清潔に保たれた部屋の中、彼女はそう答えていた。
幸いにして記憶のでーたは無事破損することなどなく、元の素体を修復するまでの間に保存用の仮初めの素体に入れられていた人形の記憶と人格のプログラムは、彼女を造った人形屍生師にそう答えたのであった。今のままでは彼が私に重大な負い目を感じてしまっている。だから彼女の人格はそのままに新しい素体で彼の傍にいることを彼女は…人形は望んだ。
彼には一日も早く自分のことを吹っ切って欲しいと、それでいて彼から離れられない人形を思い人形屍生師は望むままに新しい素体に彼女の人格と記憶のデータを移植したのである。元の彼女と似ているような外見の素体を作り、少し観察力のある人間ならば彼女に似ているとわかるようなものだった。
吹っ切って欲しいと願いつつ、それでも彼のことが気になって彼の傍に行ったものの、彼は彼女に気がつかない。彼女の元の体が目覚めないことを嘆き、姿が変わってしまった彼女のことには気がつくことがなかった。それどころか彼女を彼の知人と混同する始末で、その余りに落胆振りに彼女は友人として傍にいることを選んだ。
「ねえラティオ師匠?」
「何だい?」
「師匠、何であの人形はあんなことを願ったんでしょうかね」
ラティオは作業の手を休めることなく、弟子の方に顔を向ける。
「ニューロンがあるだろ、あれと同じさ」
「意味わかりません」
「【ウィル】は最初に出会った人間を刷り込む性質が時々あるんだよ。で、彼女がこの世に存在して初めて出会ったのがあの男だった。だから彼女は記憶装置の一番奥深いところであの男を認識しているんだろうと俺は思うんだが」
「…だが?」
「【ウィル】の記憶…ゲデヒトニスって呼ばれる部分には俺たちでも判らない未知の部分も存在してるって話は以前したよな」
「え、そうでしたっけ?」
「まあいい、とにかく【ウィル】っていうのは機械工学と魔術の融合したの奇跡的存在とも呼ばれているんだよ。だから未知の部分で…まあ俺たちはそれを一種の【刷り込み】って呼んでるけどな」
「ああ、あの卵から孵った雛が最初に見たものを親と思うような」
「ま、そんなもんだな。だから彼女はあの男の傍に居ることを願ったのさ」
「へえ〜。じゃ、師匠。それって恋って言うんですかね」
「俺にもわからんさ…それよりもさっさと仕事片しちまえ」
「は〜い」
人形と男がどうなったかだなんて誰も知らない。でも、それが不幸な結末だけでなければいいと願うのはエゴなのかそうでないのか。それでも、幸いを願うのはどこかに存在する親心だろうか。
人形屍生師は、人形の幸せを願いながら仕事の続きを始めたのであった。
2003/10/08 tarasuji
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