011:柔らかい殻
子供の頃、食べた物で一番印象に残っていたのは何ですか?
私が多分それを聞かれて思い出すのは蟹である。
あれは、まだ私が小学校に入ったばかりの頃であろう、父が知人から食事券を譲ってもらったということで
私と両親、そして姉は早速出かけていったのである。
家族で外食など滅多に行くことなど無かった我が家にとって、タダで食事に行けるという事で誰もがはしゃ
いでいたのであった。そして、その後に起こることなど一切判るはずなど無かった…
通されたのは日本風の料亭みたいな感じで、いつも行く近所のファミリーレストランとは全く違う雰囲気だっ
た。家の中のような畳の部屋に通されて、私は少し緊張していた。
それに、店の人たちも皆着物で私は今まで見たことのない人々に、緊張と同時に少しだけワクワクしていた。
一家四人が席に着くと、父が店の人と何か話している。店の人も何か話しているようだったが、私には聞こ
えていなかった。それよりも、毎年お正月に遊びにいくおじいちゃんの家に似ていると思っていたのか、私
は部屋の中を珍しそうにきょろきょろと視線を彷徨わせていた。
そうしている内に、ふすまが開き目の前に料理が並べられていた。
今まで食べたことのないような料理に私はどれを食べようかと箸を迷わせ、母に「行儀が悪い」と叱られて
いた。目の前の料理はいつもの母の料理よりもあっさりしていて、あんまり美味しくないと思ったが父も母も
隣に座っている姉も「美味しい、美味しい」と言って食べていたので、私もそれ以上何も言わなかった。
慣れない正座をしているうちに足は痺れてくるし、料理も味が薄いし…でもそんなこと言えないし…
私は皆に悟られないように、必死に足の痺れを我慢していた。
しかし、我慢しているとまた別の難題が襲来した
トイレに行きたくなったのだ。
私はトイレに行きたいと両親に告げて立ち上がろうとするその瞬間、それは私を襲った。
余りに我慢しすぎたせいか、足の感覚がなくなっていたのだ。
立ち上がろうとするが時、既に遅し
私は立ち上がろうとして思いっきり転び、しかも丁度転んだ時に机に膝をぶつけたのであった。
足の痺れと、膝の痛みとで尿意など遥か彼方に引っ込んでしまい私はただ、突然のことに驚き周囲のことなど
これっぽっちも考えずに大泣きしてしまった。
そんな私を見かねた姉が、持っていた絆創膏を膝に貼ってくれたが、安心したと同時に再び尿意が襲ってくる。
まだ、足の痺れが残っていた私がそれを訴えると見かねた父が私をおんぶしてトイレまで連れて行ってくれたの
であった。父はいつもはぶっきらぼうなのだが、こういうときは頼りになるいい男だとあの頃の私は思っていた
のであった。まあ、そんなこと今はどうでもいいのだが。
そして、私と父がトイレから戻ってきた後、テーブルの上には新しい料理が載っていた
何かの揚げ物だろう、私は一口食べて見る。口からバリバリと音がした。
「美味しい」
見た目からは判らないが味は蟹だった。滅多に食べられないが、蟹は私のいや我が家の大好物の一つでもあった
からだ。私たち一家4人は無言でその唐揚げを食べていた。よく、蟹を食べると無言になるというがこの時もそ
うだったのだろう。例え、食べているのが蟹の唐揚げでも。
しかし、どう考えてもバリバリと音を立てているのは蟹の甲羅である。今まで蟹を食べてきた中で蟹の甲羅を
食べたことなんて一度も無かった。でも、甲羅の部分も食べられるんだ、こんなに美味しいんだということを理
解した私は今度蟹を食べる時は絶対殻も食べるんだ、と心の中で決意していた。
そして、楽しかった外食は終わり、一家四人幸せに過ごした。
まだ話は終わらない
私はその数日後、小学校の同級生の誕生日パーティーなるものに招待されたからだ。
彼女は大会社のお嬢さんという者で、勿論彼女の誕生日パーティーも豪勢なものであった。
その時に出された食事に蟹があった。
そう、ここまでくれば賢明な方は気が付くだろう
私はその蟹の殻を食べようとして、前歯が欠けてしまったのである。まだ乳歯だったから良かったものの、これ
がそうでなかったら…と思うと今になって冷や汗ものであった。その後、私はしばらくその話題のタネにされ
これから一生蟹なんて食べないとその日心に誓ったのは言うまでもない。
大人になって判ったのだが、あの時食べた蟹は「ソフトシェルクラブ」という種類の蟹で、外国産の殻まで美味
しく食べられる代物だったらしい。多分、あの時家族の誰一人としてそれを知らなかったのは間違いない。
さて、私がどうしてこんな話をしたかと言えばこれから親友に誘われて蟹を食べに行くからである。この年まで
蟹を断っていたのだから、今更食べられるかは置いておいて子供の頃の無知というものは後々まで残るという事
を私は身をもって知らされたのであった。
その料理屋で私はあの蟹と再会することになる
2003/02/28 tarasuji
(C)2003 Angelic Panda allright reserved
戻る