【044 はちみつ -HONEY- 】(テニプリ/乾海)
「チッ…!」
舌先に何かを触れて痛みが走る。
「どうした、海堂?」
「い、いや…何でもないっス」
駆け寄ってきた乾先輩に俺は大丈夫だと言って、練習に戻る。乾先輩はそれでも怪我じゃないかとか、小さな怪我は油断してはいけないと言ったがそういうものではないのだ。大丈夫ですから、ともう一度念を押すかのように告げると練習に戻っていく。
乾先輩はそれでもまだ心配しているが、気にするほどのものではないのだ。舌先で口の中をひと舐めすると、先程の痛みの原因はついうっかりと口の中を噛んでしまったのだった。鈍い痛みは走るものの、気になるまではないので、俺はそのまま練習を再開したのだった。
「お疲れさまーっした」
「やあ、海堂」
クーリングダウンを終えて部室に戻れば、既に残っているの俺と……乾先輩だけだった。いつもなら最後まで残って鍵当番となっている大石先輩は今日は急用があったということで、鍵を預かったと乾先輩から説明された。先輩は今日の部誌当番だとかで残っていたらしい。
俺は、とりあえず汗を拭って制服に着替える。先輩は部誌を書いているらしく、シャーペンの芯の擦れる音が耳に入っていた。制服に着替えて、荷物を纏めて出入り口のほうに足を向ける。
「着替え、終わった?」
「は、はい」
「俺も今部誌終わったところ。途中まで一緒に戻らないか?」
特に断る理由も無かったので、俺は乾先輩の提案を受け入れようと返事をしようとしたそのときだった。
「は…は、イテッ!」
先程噛んだところが痛んだ。すっかり忘れていた痛みが思い出される。
「海堂?」
「す、すいません……だ、大丈夫ですから」
「ちょっと口、開けて」
「え?」
突然口を開けろといわれても、反射的に口は閉じてしまう。乾先輩の顔が至近距離まで近付いてきて、指が唇に触れた。
「大丈夫、ちょっと中見るだけだから」
「い、いいっす……」
「良くない。もし虫歯でもあるのなら早急に治療しないと、練習にも響くし本番でも実力が発揮できない。それに、それが原因でどんな病気にかかるかも分からないんだ。だから今のうちにちゃんと歯科に行った方がいい。それに、さっきも痛がっていただろう? さ、口を開けて」
確かに、先輩の言いたいことも分かるがこれは先程切ったばかりなのだ。大体うちは母親のおかげで今まで一度も虫歯などにはなったこともないし、一度も歯科などにかかったことはない。しかも、先輩が見たって虫歯など分かる筈もないのに、どうして見せなければならないのだろうと思うと、何故だか恥ずかしいものを見せるようで口を開けたくない。
「こ、断る…」
「遠慮すること無いだろ?」
先輩は手を離そうとしないし、段々距離が近付いてくる。俺はとにかく乾先輩から身を話そうとしてみるものの、先輩の力は強く中々引き剥がせない。
「せ、先輩」
「いいから……ほらよしよし」
俺は子供でも猫でもないと言いたいが、どうも唇に触れられてうまく言葉が出てこない。だが、粘りでは負けないと思いつつも先輩の眼鏡が部室の蛍光灯のせいで逆光になりきらりと光る。こういうときは何かが起こることは確実だと身を持って知らされているので背中に、嫌な予感が冷たく走った。
もうこうなってしまえば言ってしまうしかない。
「こ、これは単なる口の中を噛んだだけで、む、虫歯じゃないっすから!!」
言い切ると同時に、先輩の手から力が抜けて、ようやく俺は先輩から離れることが出来たのだった。
「そ、そうなのか……」
「そうっす」
先輩は、ははは、としらじらしく笑う。何故か俺の方が恥ずかしくなってしまって何も言えないまま、どう反応すればいいか分からなくなってしまう。
「あの…すんませんでした。心配かけて」
「いや、俺の方こそ無理強いしてしまったようだな。だが、海堂。口内炎を侮ってはいけない。口内炎は…
(以下、乾による説明が10分近く続く)
栄養面が足りない時には、やっぱり乾汁が…」
「それはいいっす!!」
当たり前だが、即答だ。治療の為でいくら身体にいいかもしれないが、あの汁を飲むぐらいなら痛いほうがまだ…
「まだ痛いほうがマシだと思う確率、100%」
いつもの如く、人の悪い笑みを浮かべると乾先輩はいいものがある、と自分の鞄の中を探していた。
「家に帰ったら、ちゃんとうがいをすること。あとは薬を塗ること。それと、とりあえず民間療法だが、これを塗っておくといいよ」
「は、はあ…」
そう言って乾先輩が取り出したのは小さな小瓶だった。
「海堂にはこれがお勧めかな」
「何ッスか? それ?」
「ああ、それは【バイパースバグロス】というニュージーランドの蜂蜜だ」
何故、鞄の中にハチミツが入っているのだろうかということは於いておいて、乾先輩はその瓶を俺に手渡した。
「口内炎には、蜂蜜が聞くそうだ」
「そ、そうなんっスか」
「塗ってあげようか?」
「い、いいっス! いいっスから!! あ、ありがとうございました!!」
俺は何故かもの凄く恥ずかしくなって、先程一緒に戻ろうという約束も忘れて部室を飛び出すしかなかった。情けないことに自宅に戻ってからそれを思い出してしまったらしく、気がついたとしても後の祭り。
自室に戻って、乾先輩の言うとおりにきっちりとうがいをしてからそれから先程持ってきてしまったハチミツの瓶を取り出して蓋を開ける。指で掬って、それからゆっくりと痛みを感じる部分に塗った。ハチミツ特有の粘りがあり、それでいて少し香ばしい、いつも家で食べているハチミツとはまた違った味わいがしていた。ハチミツを塗りながら先程の乾先輩の言葉が脳裏に浮かび上がった。
『塗ってあげようか?』
乾先輩の声が頭の中で繰り返される。
全く何なんだ、あの先輩。
俺は、その先輩の声を思い返しただけで意識してしまう自分が情けなく感じてしまう。明日はきちんとお礼を言おう、お礼を言おう。
口の中にはまだ、さらりとした甘みが
耳にはまだ、先輩の声が
離れようとしても、離れられない感覚が身体の中に残っていた。
05/06/03〜05/07/25 WEB拍手掲載
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