【040 ティータイム -TEA TIME-】(絢爛舞踏祭/舞踏子orホープ)
夜明けの船には一台のコーヒーメーカーがある。
老若男女・種族問わず、この船に乗り込んだことがある人間ならば、一度はお目にかかるのがコーヒーメーカーである。一見、ただのコーヒーメーカーだが、一度でもこれを利用したならば印象が強い代物となるであろうことは間違いないであろう。
勿論、コーヒーメーカーなのだからコーヒーを入れる代物であることは間違いない。かつてはこの機械から紅茶や緑茶、烏龍茶をはじめ各種ジュースから果てにはビールまで出てくるといった伝説があり実際それを目にしたものは、『夜明けの船7つ以上8つ未満の不思議』の一つとしてこれを語り継がれていたが、現在のところそれを知っているのはごく一部の人間しかいない。そもそも、この不思議自体もごく片隅で語られるマイナー中のマイナーなゴシップの一つにしか過ぎない。しかしたまにはコーヒーメーカーからコーヒー以外のものが出てくるというのは、一部のものにとっては夢のような素っ頓狂な話ではあるが。それはそれでまた楽しい話ではある。あり得ないことがあり得るという想像こそがまた新たな創造の想像となるのだから。
話が逸れた。
つまりは、このコーヒーメーカーからはコーヒー以外は出ない。
それが、この夜明けの船のコーヒーメーカーの約束である。
そんなのつまんない。と思う人間もいるであろう。しかし、コーヒーメーカーがコーヒー以外のものを出すからこそ、良いのではないか。それ以外のものを出してもただの便利機械にしかならない。コーヒーメーカーはコーヒーを入れるからこそ存在することが出来るのだ。
その意図を汲み取ったかどうかは分からないが、この廃品回収にでも出そうなコーヒーメーカーはこの夜明けの船の一つの備品として備え付けられ、今日も故障一つすることすら稼動している。
妙なコーヒーメーカーだな。
最初の印象は、漠然としたものだった。何処にでもある変哲も無いコーヒーメーカーの筈である。元々コーヒーをあまり飲まない性質なので他のコーヒーメーカーを良く知らないが。ミズキやアキに聞いたら他のコーヒーメーカーも皆同じようなものだと話をしているし、この違和感は私だけのものであろうと思うことにした。ほんの些細な代物であるのは間違いない。確かに変なものだと、皆が口を揃えて言う。しかしこれがコーヒーメーカー以上の何者でもないということは間違いないのだと。
普通、コーヒーには砂糖やミルクを入れる。もしくは何も入れないか。たいていこの3パターンである。ならばその隣にある『チリペッパー』の文字は何なのだろうか。一瞬ほど固まる、うん。それからそれが自分の見間違いなのかをもう一度確かめてからから……間違いない。そもそも私の中にあるのは自分の世界のごく一部の常識ですかなく、これが火星の常識というなら、そう思うことにしよう。私の世界など小さい。世の中には色々な嗜好の人がいるのだ。しかし、こんなの常飲したら痔になりそうだがいったいこんなの誰が飲むのだろう。ああ、辛いものだったらイカナとかかな。
漠然と考える。気になりだすと止まらない。しかしその後エリザベスとかポイポイダーなど色々な人に聞いて回ったが結局返事はこうだった。
「ああ、そのコーヒーメーカーはこの船を作った当時からこういう風になっていたという話だよ」
つまりは、この夜明けの船を建造した人物がこのコーヒーメーカーにチリペッパーを入れる機能をつけたので誰も知らないということ。
大体チリペッパーって何だ、チリペッパーって。タバスコとかじゃ駄目だったのか。ワサビは揮発性だから長時間は持たないだろうし……コショウは沈殿しやすいだろうしと色々考えていく。そもそもこの中でチリペッパー入りのコーヒーなんぞ飲んで喜ぶ人間はいるのだろうかと考えるものの。よくよく見ればボタンの表示が若干薄れているかのようで飲む人間もいるのだろうと推理する。
こういう様々な、些細なことがいつだっ心の中に小さな好奇心を生み出す。押しちゃいけない、押しちゃいけない、押しちゃいけない。
妙な顔をしながらもつい押してはいけない筈のチリペッパーを入れるボタンをぽちりと押して。赤いのか黒いのかよく分からない色合いがちょっと綺麗だな、と思いつつ刺激臭を漂わせる目の前の物体と斜め下に見下ろす。後悔するのはいつだって行動した後なのだと、そうしてから思い出す。
さて、この右手にある液体をどうしようか。
−艦橋でヤガミが倒れました−
その瞬間、脳裏の中にこの液体を渡す人間が思い浮かんだ。同時に楽しいものを見つけた子供のように笑う。こうなったら行動あるのみ。ならば目的を達成するために最適な手段を高速で脳内シミュレートしながら艦内を駆け出すのであった。
してやったりと言わんばかりに手をたたき。それから再び倒れるヤガミを見て、サーラにめっと脱力するかのようにおでこをコツンをされた後、サーラもそんなヤガミを見て大笑いする。ヤガミは確かに夜明けの船にいるが不運にもこの場所にいる人間にとってはヤガミは格好のからかいの種となるしかないのである。
そんな笑い声の聞こえる中、恵がコーヒーを抱えて医務室へやってくる。それを見て二人は、一瞬目を合わせたる。先程ヤガミにチリペッパー入りのコーヒーを飲ませていた自分が他人の入れたコーヒーに対して一時的に猜疑的になってしまったものの断るのも恵を悲しませまいとして、覚悟を決める。予想外の味わい。自分の好みにかちりと当てはまるかのような風味。思わず二人同時に感想を漏らす。
「この苦さと豆の香りがたまらない」
「あまり苦くなくて、水っぽい薄さがいい」
え、と顔を見合わせる私とサーラ。恵はそれぞれの好みに合わせて入れてくれたのだろうかと問いかけたのだが返ってきた答えは予想外のものであった。
「私は普通にコーヒーを入れてきただけでよ。好みに合わせたのはコーヒーメーカーです」
少し恥らった笑顔を見せながら、それでも茶化すような素振りは何処にも見られない。恵は更に、実はあのコーヒーメーカーは乗組員の好みにあわせてコーヒーを入れてくれるのですよ、と続ける。もう一度私とサーラは顔を見合わせる。恵がBALLSと話を出来ることは知ってはいたがまさかそれがコーヒーメーカーとも意思を疎通できるとは。これも火星の常識とでも言えるのだろうか。ああ、これも火星の7つ以上8つ未満の不思議なのかと思うと、ただ、ただ笑うしかなかった。
このコーヒーメーカーからはコーヒー以外は出ない。
但し、各人の好みに合わせたコーヒーは出てくる。時々好みを間違えて砂糖たっぷりだったり滅茶苦茶濃いコーヒーが出てきてもそれはご愛嬌。今日も一台のコーヒーメーカーは夜明けの船の人々のひとときを演出しているのである。
06/09/06〜07/05/23 WEB拍手掲載
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