【033 カルピス -CALPIS-】(テニスの王子様/乾&海堂)



 汗が、肌を伝わるのも気にする暇もなく、息を切らし、何処までも酷使するつもりで動く体。既に濡れそぼった体にかかる風が、そろそろ冷たさを増してくるのを感じ始める。

「海堂、そろそろ休憩をとった方がいい」

 そう言われて体がようやく休みを取ることを自覚し始める。そして動きを止めてそれから声のする方に振り向くといつもと変わりない乾の姿が視界に入ってきた。関東大会でのダブルスを組んで以来、こうしていつも開いている日や早朝などは乾にメニューを組んでもらいながら、共に練習をするようになりつつあった。本来なら海堂一人の為にメニューを組んでもらうということだけでも、無理をさせているというのにいくら結果が気になるからといってもいつも練習まで見てもらっているのは申し訳ないと、海堂は思っている。実際、乾に対してはその旨を告げたのだが、『データを正しくとるには、正しく実践しているのを確認する必要がある』『俺も一人で練習するより誰かとする方が効率が上がる』云々言われた上に、止めとして、

『俺が見ていないときは乾特製汁を毎日差し入れするけど』

なんぞ言われた日には断る理由が何処かへ行ってしまう。あの汁だけは海堂は何度も身を持って体験し、彼岸というものを初めて見たという苦い記憶だけが残っているだけにそれよりなら何でも……という選択肢がない状況に陥ってしまうしかないのだ。
 関東大会では苦くも負けを喫したが、乾との練習は今になってもこうして続いている。それは夏に入っても変わらない。
 適度にストレッチをしてから、芝生に腰を下ろすと乾が何かを持って来る。そして持参してきたであろう紙コップにそれをコポコポと注いだ。

(こ……これって……)

 乾が右手に持っているのはいつもあの通称『乾汁』が入っているボトル。そして紙コップに注ぎ込まれた液体は……いつもより若干色合いは淡い緑だが。どうしてもいつものあの汁を連想させて見せる。乾の不透明な眼鏡越しに感じる視線がどうしても『飲め』と脅迫しているような気がする。背中に冷たいものが走るのは、汗が冷えたせいだけでは絶対無いだろう。
 しかし、これをくれたのは『先輩』である。礼儀正しい海堂としては例えこれが毒であろうとも飲まなければいけないような気がしたのだ。

(え、えぇぇい!!)

 一気に喉に流し込む。




 ……しかし、覚悟していた彼岸の景色など一向に見えず。その代わりに口の中に爽やかな風味が広がっていた。ほんの僅かに甘酸っぱい、何処かで口にしたことがあるような風味だが思い出せない。
「う、美味い……」
 思わず出た一言に、慌てて乾の方に視線を移す。しかし、乾は海堂の言葉には然程傷ついた素振りは無い。しかし、いつもの汁とは対極を為すこの飲み物は一体何なのだろうか。
「あ、アンタ一体何を飲ませたんですか?」
「口に合ったか?」
乾が海堂の顔を覗き込んでくるかのように、近付いてくる。海堂は慌てて体ごと顔をを背けてしまう。何故そうしてしまったかは海堂本人にも分からない。
「……何でこんなに美味いもん作れんのに、いつもあんな不味い汁なんて作るんだよ」
「美味かったら、罰ゲームの意味なんてないだろ?」
そうやって、何処か余裕綽綽で見ているその姿に何故か腹が立ちそうになったものの、そこは最近僅かばかり身についてきた忍耐力で何とか堪える。
「…で、何なんですか?」
「大葉とカルピス」
「は?」
 思わず素っ頓狂としか思えないような声を上げていたに違いない。間抜けだ何だと言われようとも出してしまったものは仕方が無い。そういえば大葉はともかく、あの味は母が時々作るカルピスの味だったかと漠然と記憶を辿った。
「大葉はまあ…刺身の“つま”に使われているのが殆どだ。海堂もそれは見たことがあるだろう? 他にも豆腐や納豆、みそ汁など何にでも組み合わせることができ、常用すれば体質改善もできるという。効能としては殺菌効果、下解作用があり、血液の流れをサラサラにする。栄養的にも、ビタミンB1、B2、Cが豊富で、さらに、鉄やマグネシウムも入っている。食欲増進に役立つので、夏バテ防止にもいい。アトピーにも効果があるとか言う。
一方カルピスの方は乳酸菌があることは広く伝わっているが、他にも血圧低下や免疫系統にも効能がある。また、スポーツの時にの全身反応性などの向上、ストレスの指標である血中カテコールアミンの速やかな低減など、疲労やストレスの低減を示す結果が得られているらしい。
この二つを組み合わせれば、この暑い夏の練習に適した飲料だということは証明できる上に、味もそれなりに悪くは無いというのは今の海堂の反応を見れば明らかだ」
 相変わらず乾の説明はこまごましているものの、聞いてしまえば成る程と思えることばかりなのだ。
「気ィ、使ってもらってすんません」
「いや、前にも言ったろ? 今度は味の方も研究するって」
 そういえば悪夢のような青酢ボウリングの時もそんなことを言っていたような気がするが、そんなことは今の今まですっかりと忘れていた。

「海堂が気にすることは無い。結構カルピスを使ったレシピは色々と研究中なんだ。今度また美味く出来たら試してもらえるかな?」
「まぁ……味がこんな感じなら。俺でよければ構わないッスよ」
「ああ」
 乾が、余りにも嬉しそうな顔をするのでほんの少しだけ海堂も嬉しくなる。もっとも、それを表に出すことは殆ど出来なかったが乾は海堂の頭をバンダナの上から軽く叩いていた。子供扱いされたようで癪に障るがそれでも今の乾を見れば仕方ないと思わざるを得ない。しかし、乾がそれに乗じてずっと叩き続けてきた為、調子に乗るなと脛を蹴ってやった。乾が痛そうにしているのを見てちょっとだけしてやったと思いながら海堂はまた練習へと戻るのであった。


 夏の日差しの下、鼻腔には爽やかな大葉の匂いがまだ少し残っていた。



05/07/25 WEB拍手掲載

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