【028 ラッパ飲み -DRINK UP-】(テニスの王子様/乾→海堂)



「あちー。まだ6月になったばっかりなのに、何でこんなに暑いんだよー」

 暦は6月を迎え、東京の気候は既に夏を迎えていた。
 降り注ぐ日差しの眩しさと暑さに、向こうから愚痴のような桃城の声が響き渡る。その声に賛同するかのように、菊丸先輩の声や不二先輩の会話が耳に入ってきた。
 体に纏わりつく暑さが、肌を伝わる汗が。その日は既に夏だということを否応なく実感させる。既に外でのトレーニングは朝の涼しいうちに終わらせているのだが、実戦では炎天下での試合も有り得るということもあり、今は交代でコート打ちの練習を行っている。
 海堂はクールダウンさせる目的も兼ねた軽いランニングを終え、木陰に腰を下ろす。汗をかいた体に、たまたま吹いていた風が火照った体を冷やすかのように心地よい。
「おつかれ、海堂」
 木陰にいるはずなのに、その影が更に暗くなる。その為か視界をその影に慣れさせるのに若干の時間がかかったが、その声はいつもと変わりなく誰なのかすぐに分かった。
「乾先輩」
 趣味が逆光だと一部で言われている乾先輩だが、こうして実際に目を凝らしてみるとやはり逆光になっている。本人はそれを否定しているかのようであるが、どうみても似合いすぎて不気味としか言いようが無い。
「お疲れ」
「お疲れっス」
 気がつくと、既に乾先輩は海堂の隣に移動している。そして断りも無く海堂の右隣に腰を下ろした。そして……


「うわっ!!」
「わうっ!!」


 突然首筋に何か冷たいものが宛てられて、海堂は思わず両肩を振るわせたと同時に声を大きく上げる。慌ててそれから首筋に手を当てると、そこには既に何も無く、ただひんやりとした感触が残っている。それから海堂はゆっくりと隣に視線を移した。何の証拠が無くとも、今海堂の隣にいるのは乾だけであり、このような悪戯を仕掛けたのは乾以外に有り得ない。何をするといいかけた海堂は、隣で同じように驚いている乾の顔を見ることとなった。
「な、何で先輩が驚いてるんッスか!?」
「え」
 その言葉に、ぽかんと口を半開きで開けてこちらを見ていた乾の表情が、いつもの表情に戻る。多分、乾自身も驚いていたことに気がついていなかったのだろう、あははと乾いた笑い声を立てた後にそれっきり黙ってしまった。突然、乾に黙られては海堂もどう反応していいか分からず黙ってしまう。数秒後、先程のことを思い出して乾にまなざしを向ける。
「……じゃなくて! 何をするんですか。アンタは!!」
 乾は先程のことだと、思い当たったらしく海堂の様子を見て楽しんでいるかのようでそれが気に入らない。せっかく熱が冷めてきたのに、再び熱を取り戻すかのようだ。
「いや、クールダウンには外側からも内側からも必要だからね」
 よく見ると、乾先輩の左手にはスポーツドリンクのペットボトルが置かれていた。しかもよく見ると水滴がかなりついている。そして先程の冷たさは氷のようでもあった。
「それ……」
「スポーツドリンクを冷凍庫で凍らせてきた。最近の気象データによると今日も暑くなる可能性は高かったからね。こういう気温と気候の日に運動をする場合は、水分補給を怠ると熱射病にて倒れる可能性もある」
 確かに今日の気温は、6月になったばかりというのに既に真夏の気候に近い。地球温暖化という話はここまで実感できるのではないかと海堂も思ったぐらいだ。乾という男はこういうところまで見越して準備をしてくる男だったということを失念していた。
「はい」
 突然、目の前に先程のペットボトルが差し出される。
「あ、あの……」
「気にしなくてもいい。これは海堂の分だから」
 と言いながら乾は、右側に寄せていた自分の分を蓋の部分をつまんでひらひらと振ってみせる。
「あ、すみません。ありがとうございます」
 乾はまあ気にしなくてもいいよ、と笑っていたが。個人用のメニューを作ってもらって以来、乾はこまめに海堂の様子を見てくれるようになった。今の出来事もその一つで予想以上に、色々と世話をやいてくれるので海堂自身としては申し訳ないような気がしているのである。しかし、以前その旨を本人に告げたところ「好きでやっているからいいんだよ」と言われ、それは現在まで続いている。そういえば乾がレギュラー落ちしたあのとき以来、他の部員に対しても細かい気遣いをしているのは分かった。それは副部長の大石とはまた別の面で、部員たちの役に立っている。
 そんな乾だが困った癖も持っている。だから海堂は半ば溶けかけていたペットボトルを両手で持ちながら一つ、たずねた。
「これって、“野菜汁”じゃないですよね……」
「残念だけど、普通のスポーツドリンクだよ」
 本当はそれでも良かったのだけど、こういう野菜系統は凍らせるとあんまり栄養価が良くないとか言い出して考えているようだったが、海堂はその答えを聞いて一安心したのである。

 乾特性野菜汁こと通称“乾汁”

 乾が趣味で作る、本人いわく絶妙なる栄養バランスを備えた野菜ジュースらしい。実際は飲んだ人間が“あの世”を見ると言う極めつけの代物である。これが平気なのは一部の人間と乾だけであるのだ。過去に海堂もそれであの世らしいものを見たので、以来乾の手作りと呼ぶ飲料は一切飲まないように心がけている。だから一応乾には確認をとった上で、蓋を開けて中を見る。
 どうやら今のところ外見も匂いも異常は無い。半分ぐらい氷が溶けて、ペットボトルを振るたびにカラコロと音がした。
「いただきます」
 氷のおかげで常に冷やされている状態にある中身は、普通のスポーツドリンクだ。ちょうど喉が渇いていたので蓋を開けて一気に飲み干す。喉を通る感覚が心地よい。五臓六腑に染み渡ると言うのはこういう感覚のことを言うのだろうかと海堂は思う。ふう、と飲み終えると隣の乾が、黙ったまま海堂を見ている。というかじっと見ていたので海堂は何故か気恥ずかしくなって顔を背けた。その様子で乾も、見ていたことに気がついたのだろう。あ、と小さく声を出して慌てた様子で自分の分のペットボトルを飲み干していた。
「な、何見てるんですか」
 海堂は小さく声を掛ける。海堂が照れているので、乾も何処か照れているように見えていた。
「いや、別に……」
 声が僅かに上ずっているのに乾自身も気がつかないだろう。しかし乾はそれ以上何も言うことは無く、2人の間に妙な沈黙が漂う。そしてその雰囲気に最初に耐えられなくなったのは海堂のほうであった。
「先輩、ご馳走さまです。お、俺顔洗いに行って来ます」
 慌てて立ち上がると、洗面所の方へと走っていってしまった。乾も声を掛けようとしたものの、海堂の既に向こうへと行ってしまい、掴もうとした手は虚空を掠めるのみ。乾は半ば立ち上がりかけた腰を再び地面に下ろすと、先程の光景を思い出していた。
 海堂が水分を嚥下するときの喉の動きが、やけに艶やかで。汗に濡れているはずの肌も何もかもが何処か色めいて。思わず同性だということも忘れて見入ってしまっていたのである。そんな乾の意図はともかくとして、視線の思惑には海堂も無意識に気がついたに違いない。そもそも、男の後輩にそんな感情を抱くことすら間違っているのだと思いながらも先程の光景は、やはり目が離せなかったのだ。

(何やってんだ。相手は年下で後輩で、男だぞ……)

 冷えたはずの体は、収まりのつかないぐらいに火照っていた。乾は、両手で髪をかきむしり、頭を抱えるのであった。



それは好意が恋だとまだ気づかない頃の話。




07/06/03〜08/02/11 WEB拍手掲載

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