【024 パン -BREAD- 】(頂天のレムーリア/岩手&茨城)



「朝起きたら、焼きたてのパンの匂いがするっていうのはこの上なく食欲をそそるものだと思うのですが」
「だったらパン屋の二階に住めばいい」
 即答。一瞬の躊躇なく返される言葉に、僅かながらに抱いていた淡い幻想も想像も何もかも打ち砕かれるような、そんな返答。ああ、神様仏様贅沢は言いません。ほんの僅か、そうほんの僅かでいいのです。私の妄想の外で私に少しでも愛想よく返答をしてくれるだけでいいのです。
「お前の少女漫画のような妄想に付き合ってられるか」
 まるで、心を読まれるかのように挟まれる容赦の無い言葉に対して傷ついたふりをしながら、完全に彼が怒っていないことを気配で確認してからそして微笑むのだ。いつものように、ただ。そして、それを面白くないことを感じていながら、傍にいることを感じるのであった。




 それが、何処か遠い過去なのか未来なのか分からないままに、ただ漠然とした懐かしさを感じながら朝の光を感じる。その目は朝になっても、見開かれることはないが周りの全てが今日も朝が訪れたと岩手に囁くのだ。瞼を通して感じる光、少し肌寒いがそれでも目が覚めるような凛とした空気。それから鼻に感じる潮の香り。
 ここが、海沿いの町だと思い出すのは体の感覚の後だった。

「おっはよー、岩手」
 明朗そのものを体現するかのような声と同時に、岩手は現在の自分の状況を一瞬にして思い出した。それから、その声の持ち主を思い浮かべた。この声の主は茨城。茨城雷蔵という今の旅の連れである。
「おはようございます」
挨拶を返すと同時に、頬に柔らかいものが触れる。その感覚に、思いを馳せてから数秒後に岩手は顔全体を紅潮させる。
「な…」
「朝の挨拶だよ、どうしたの?」
こともなげに言う茨城の声に、岩手は動じないように全神経を集中させる。それから取り澄ましたかのようにつくろい始めた。
「い、いえ……突然のことだったので」
岩手の返答に、茨城はふうん、とこともなげに笑ってそろそろ朝ごはんだよと告げると先に部屋を出て行ってしまった。
 岩手は、そんな茨城の後姿を見ながら今時の子は進んでいるんですかねぇ、と笑いながら宿の浴衣からいつもの服に着替える。滋賀の病を治せる可能性を持つ水の巫女と出会うことが叶い、それに希望を託そうと考えた途端に彼は『旅に出る』と書き置きを残し旅立ってしまった。それはたった一ヶ月しか傍にいなかった岩手に対する当てつけなのか、それとも何か用が出来たのかはわからない。ただ、猫たちに聞いたところ滋賀が旅立ったのは数日前だということ。何処に行くかは書いていなかったが、その前に客人が一人あり、滋賀はその客と旅立ったということだった。
 彼を直ぐにでも追いかけようという衝動に駆られた。岩手という男は、滋賀のためとなると分別も何もなくすかのように、子供であるが故の純真さをてらいもなくさらけ出す事が出来る男である。しかし、それを同時に押しとどめるのは茨城と水の巫女の存在でもあった。岩手の為に本来の道程を捻じ曲げてまで協力してくれようとした友人と協力者に対する礼の意味をも込めて、今は子供のような衝動を大人としての仁義で押しとどめている。多分、それも茨城と水の巫女が離れてしまえば簡単に破られてしまうのは間違いないのである。

 ふと、潮の香りに混じって何処か嗅ぎ覚えのあるにおいが混じってきた。食欲をそそる香り。香ばしい、鼻腔をくすぐる。それにつられるかのように食堂へと降りていくと宿の女将らしき声がした。
「ああ、起きたのかい? 丁度朝御飯が出来たところだよ」
茨城は岩手、こっちだよと近づいてくると手を引いて椅子のあるところまで誘導した。茨城はまだ岩手のことを目の見えないのだと信じているが、岩手はそれを訂正する様子は無い。思わせぶりなわけではないが、こうして人に気遣ってもらえるのはありがたいことであるし、その親切を無駄にするわけでもない。それに茨城の気遣いにやましいところは感じられない。だからこそ岩手は茨城の新設に甘えることによって、自分の理性を保っているのかもしれない。
「今日は、宿の女将さんがパンを焼いたんだって。僕もちょっとお手伝いしたんだ」
それはいいことです、と茨城の気配に微笑むと。何処か得意そうな感覚が声の端から伝わってきて、岩手も素直に茨城を褒めた。嬉しそうな感覚がこちらにも伝わってくる。素直に口にした言葉に、素直に反応が返ってくるのはどこかくすぐったい。そしてそれと同時に、そんな反応をするのはありえないだろう岩手の相棒のことを思い出させてしまう。行動も、反応も何もかもが対極にあるというのに。

「何? やっぱり岩手は朝は米派?」

 黙っていた時間が長かったのだろうか。茨城の声が耳に届く。どうやらパンを持ったまま黙っていたのだろう。先ほどまでは熱で扱ったパンが少し温度が下がっている。
「いえ、僕は和食も洋食もどちらでもいけますよ。ただ中華はちょっと朝からは重いと思いますが」
「ふうん。ま、朝からちゃんと御飯が食べられるのはいいことだよ」
ええ、と岩手は返答し、それからパンを口に含む。麦の香りが鼻に広がる。
「麦……ですか?」
「ああ、この辺は海辺の町だから麦は作っていないけれども。市場では最近良く出回っているよ。小麦よりも若干風味は独特だけれども安いからね。気に召さないかい?」
女将の問いかけに返答する前に、茨城が声を出す。
「僕は、好きだよ」
それから岩手が声を上げる。
「いえ、この風味は好きですよ。昔を思い出します」
 思い出すのは、一面に照らされた麦畑。多分黄金の穂をつけた、何処までも広がるかのような麦畑。それからそこで出会った一人の子供。自分に構ってもらいたいのにいつも悪態をついてちょっかいを出してきた子供。傍にいるときはうっとおしいと思ったのに、離れてしまってから何処か寂しさを感じさせた子供。一族のしきたりを破っても、その姿を見たいと思った子供。まだ、目を見開いて姿を見たことの無い子供。一度は自分から離れたのに、いなくなるとこうして子供のように探さなければと思う相棒。

 ふと、目覚める前の光景が頭によぎる。
 あれが過去なのか未来なのか、思い出なのか願望なのかは分からない。けれども再び自分は滋賀と出会いたい、と岩手は願った。
「岩手? 早く食べないと冷めちゃうよ」
「そうですね。今日は沢山体力を使いそうですし」
茨城はうんと返事をすると女将の用意した食事をたいらげ始め、岩手もそれに倣う。
 茨城を送り届けたら直ぐに滋賀を探しに行こう。再び出会って、彼の病を治したら、あの黄金の麦畑へ一緒に行こう。そのときこそあの時の続きを、自分の中にある寂しさの理由を理解するのだ。
 岩手はそのためになすことを考えると、ふと見える窓の外の景色から今は傍にいない相棒へ向かって思いを飛ばす。


 君が、こうして穏やかに朝食をとっていられますように。

 いつか、二人で笑って朝食の時間を過ごせるように。






06/12/23〜09/06/18 WEB拍手掲載

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