■その懐かしき景色に
旅立つなら、夜の闇に紛れるのがいいと言っていたのは何処の誰か。
確かに、誰にも見咎められずこの里から旅立つなら夜の闇はいとも容易く己を隠す。
朝になれば己の存在など夢幻だったかのように消え去り、最初は悲嘆と罵声が浴びせられた感情も時間と言う名と共に薄れる。
彼ら、彼女らの中の記憶もいつかは色鮮やかに彩られた青春という名の思い出に変わる。
人は、辛さも悲しみも乗り越えても、引きずったままでも
地球が自転を一周すればまた朝が来るかのように
一日を過ごし、その記憶を重ねていく。
その記憶は糧となり、また記憶を積み重ねる。
この富士の懐に抱かれるかのように存在する天照郷では、花が開くのが僅かに遅れる。
時期を待ちかねたように、この懐かしき季節と共に桜は競うかのように花開く。
あのひとを意識し始めたのは、ちょうどこの季節、この時期だった。
今、その桜の苑の中心に立つのはあのひとの志を受け継いだ紫上。
彼女の姿は、一年前に己が出会ったあのひとと同じように決意を固めながらそれでも迷いなど素振りも見せずに、それでいて何処か柔らかな雰囲気を醸し出している。
己があのひとの辿るべき運命と力を手にしたなら
彼女はあのひとが取るべき行動と志を手にした。
あのひとがそれを望んでいたのか今となっては分からないけれども。
彼女がそれを望んだのなら、あのひとは拒みはしないだろう。
その輪の中に己は入ってはいけない。
遠くから、その誇らしき紫上の姿をもう一度だけ確かめるとその場を立ち去った。
まだ、全てが終わったわけではない。この戦いは確かに平定し天照郷の柱は目覚めることなく再び眠りについた。
けれども、姿を消した国津の神子であり、【もう一人の自分】である彼の存在。今回の戦いで不安定になった周囲の状況――ここに己がいる限り己は【神子】としての人生を強いられることは確かで。以前【神子】として存在していたあのひとはそれをも受け入れようとしていたのは痛い程知っていた。
それと同時に、己の力を見極めていたあのひとが己が自由であることを望んでいたことも。
この郷に生まれ、この郷で死んでいくと漠然と思っていた世界は突然崩された。
己が慕ったあのひとの存在はもう、この世界の何処にも無くて。
あのひとの存在を世界から消したのは己自身。
日がまた昇るように、あのひとの存在を思い出という記憶に薄れさせることでこの罪を消そうとしたけれども。ここは何処もかしこもあのひとの全てが残っている。
天照郷を旅立つ最後に、己が足を運んだのは藍碧台だった。
あのひとは、この場所によく足を運んでいた。この場所で、風に吹かれることを好んだ。
隣に立っているその時さえも、あのひとが何を見て、何を考えていたのか分からない。ただその時の己はあのひとの隣に立てることが嬉しかった。
郷の景色が一望できるこの場所に立ち、見える場所の一つ一つにこれまでの記憶を呼び覚ます。自分が望んだことも望まなかったことも怒涛の様に押し寄せて、それでも己がこの場所にいられたことを有難く感じた。
日は沈みかけ、鮮やかな山吹色に染め上げられる天照郷の姿。
いつか記憶の波が全ての出来事がやわらかい思い出と変えようとも、この光景はいつも己に憧憬を呼び起こしあの怒涛の記憶を引き起こすだろう。記憶の中に確かに存在した皆や、あのひとの姿も。
―それでいいのだ―と、誰かが心の中で囁いた。
それはあのひとであり、皆であり、己の声であった。
全ての思い出をその景色に封じ込めて、背を向けた。
外套をなびかせる少し湿り気を帯びた風に向かいながらゆっくりと歩き始めた。
後書
当サイト初の転生學園幻蒼録話です。
一応EDの主人公旅立ちシーンということで。
実はあの一枚絵が気に入っていたのでそこをメインに書いてみました。
一応主人公(伊波)→九条っていう裏設定はそこはかとなくあるのですが、敢えて紫上以外は名前を出さない方向で。ネタバレありまくりですけれども(汗)
基本的には私の主人公は誰ともくっつかない設定が個人的に一番好きらしいです。
04/06/09 tarasuji
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