おとな相談室
「悪い虫が、ついた」
ぽつりと、成歩堂はそう呟いた。
「虫?」
「そう。悪い虫」
もう一度、成歩堂はそう呟いた。
大抵、男が悪い虫などと言うと、娘のことを思い浮かべるのが一般的である。英字新聞を読みながら紅茶を飲む、御剣もその例に漏れることは無かった。
「それは、みぬき嬢のことか」
「それだったら、僕はもっと慌ててる」
御剣の頭に疑問詞が三つ並んで浮かんでいる。大抵、悪い虫とは娘のつくのではないか? と傍らにいる成歩堂に問いかければ、隣の男はひとつため息をついて「そうなんだよなぁ」と腕を組んだ。
成歩堂の様子に、御剣は心当たりのある相手が思い浮かばない。しかし成歩堂の言う『悪い虫』とは何なのか、気にしないようにしても気になる代物ではある。
「うっとおしい。ため息をつくなら他所でやりたまえ」
「えー」
みぬきや王泥喜に言わせれば、胡散臭いですよねといわれる成歩堂だが、御剣の前では7年前と変わらぬ成歩堂龍一である。自分の気持ちに素直で、人の迷惑などお構いなしに真っ直ぐに向かってくる。御剣は背後から覆い被ってくる成歩堂の耳を引っ張ると、邪魔をするなと釘を刺した。
「全く、君という男は……いつもみぬき嬢の話しかしないのだな」
それは、成歩堂にも聞こえるか聞こえないぐらいの小さな囁き。言った御剣自身も、思いもよらぬ言葉だったのか言ってしまってから、黙り込んだ。
「証人、それはもしかして“嫉妬”ですか?」
動揺した御剣。成歩堂の耳を掴んでいた手に更に力が入る。後ろで成歩堂が何かを叫んでいるが、それも聞こえない。俯いた、御剣の顔が紅潮しているのも自分自身で気がつかない。
「ったたた、御剣。耳が腫れたらどうしてくれるんだよ」
「大丈夫だ、君の耳がその程度で腫れる代物ではないだろう」
冷たいなー、御剣。と笑いながら、成歩堂は御剣にすり寄って来る。そしてちょこんと御剣の隣に座った。肩に触れようとする、成歩堂の手をベシっと払いのけて、御剣は成歩堂に冷ややかな視線をよこす。
「で、どういうことなのだ」
無言の圧力。罪人を暴く検事の如き迫力。それは7年経っても代わることはなく逆に凄みを増したと思うのは勘違いではないだろう。成歩堂は、縮こまって冷や汗をだらだらとかいた後に御剣の方をちらりと見た。まさに証言台に立たされる証人の如く。
「前に言ったろう、新しい弟子が出来たって」
「ああ。先日の裁判員シミュレーション制度の試験裁判で、君が推薦した……確か名前は……」
オドロキ君こと王泥喜法介だよ、と成歩堂は付け加える。今現在、成歩堂なんでも事務所の一員であり、駆け出しの弁護士だと御剣は成歩堂から聞いていた。先日行われた裁判員シミュレーション裁判の時に、初めて彼の顔と弁護を御剣は見ることとなる。成歩堂とはまた違うタイプだが、真実を追い求めるひたむきさに加え、依頼人の無実を信じて戦う様子は何処か昔の成歩堂を彷彿とさせる。まだあどけない顔をした初々しい人物だったと御剣の記憶にある。御剣の表情から、成歩堂は彼が思い出したことを想定する。そして更に付け加えた。
「じゃあ、あの裁判の検事は誰だったか。御剣なら知っているだろう?」
成歩堂にそう言われ御剣は記憶を揺り起こす。脳内に映像を思い浮かべて、全体像を移す。視点をズームアウト。右側へ移動。そしてそこにいた人物が誰であるかを確認した後、今までの成歩堂の会話を揺り起こす。
【王泥喜法介】【弁護士】【検事】【悪い虫】……
何か閃いたかのように、御剣は成歩堂の表情を見る。それから眉間を右手の親指と人差し指で軽く摘んだ。
「そういうことか」
「そう」
あのシミュレーション裁判での弁護士・王泥喜に対抗した検事は牙琉響也。検事局のスター検事であると同時に、実力も高い。この7年の間に、海外を中心に回っている御剣に代わって検事・オブ・ザ・イヤーの称号に輝いたこともある男。芸能活動も行っているという、一見派手な姿とは別にその実力も認められている。
そして、7年前のあの裁判で……成歩堂の証拠捏造を突きつけた男。最も、その捏造の情報を彼に与えたのは、彼の兄であった訳だが。あらゆる意味で、御剣の中に強烈な印象を残しているといっても過言ではない男。
「彼が、キミの弟子についた【悪い虫】か」
「まあ、まだオドロキ君の方は全く気がついてない様子だけれどもね」
「そうなのか」
「ああ、何処かの検事さんと同じぐらい、恋愛ごとには鈍そうなんだ」
わざわざ、何処かの検事というフレーズのみ強調する成歩堂。御剣はそれがすぐ自分のことだと分かると、成歩堂の頭をぐーで殴った。頭をさすりながらも成歩堂は笑う。
「まあ、簡単に可愛い息子をやるわけにはいかないよね」
「全く、その台詞を君が言うのか」
そんな成歩堂を見て御剣は両手の手のひらを上に向けて、やれやれと首を数度左右に振った。今だからこそ言えるが、成歩堂は御剣に会う為に弁護士になり、再会まで15年の年月を要している。それから3年以上かけて成歩堂は御剣を口説き、今の関係が続いているようなものであった。
そんな彼が、今事務所に居る息子のような弁護士に近づいてくる検事に対して、何処か面白そうに父親っぷりを示すのはある意味興味深い代物ではある。今の成歩堂はどう見ても2人を引っ掻き回すつもりであることが見え見えである。全く、そういう悪戯なところは昔よりも今の方が強く出てきているかのようで、子供に戻ったのではないかと隣の成歩堂に視線を移す。成歩堂は気がついているのかそうでないのか御剣の顔に視線をよこすと、御剣の読んでいた英字新聞を取り上げる。
「君は、人の恋路を引っ掻き回すつもりか」
「そんなつもりはないけどね」
オドロキ君も牙琉検事も、からかうと面白いけどね。と、成歩堂は付け加えた。更に牙琉検事もオドロキ君のこと好きなの目に見えているのに、当の張本人は全く気がついていないしね、皮肉めいたことをいいながら、成歩堂はそのまま御剣の肩に頭を持たれかかる。今度は御剣もその頭を振りほどこうとせずその重みを受け入れていた。そして、ふと口にする。
「彼が、虫だと言うのなら君だとて虫ではなかろうか?」
「僕が?」
「ああ、ひっつき虫、くっつき虫……それに」
御剣は皮肉めいた笑みを浮かべていたが、それ以上彼が言葉を繋げる前に、成歩堂が頭を上げると御剣を抱き寄せて唇を塞いだ。
(君の方こそ、【お邪魔虫】じゃないか……成歩堂?)
言えなかった言葉は、彼の吐息と共に奥深く飲み下されて。
07/05/26 tarasuji
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