プリンのママ
「やあ、おはよう」
事務所の掃除中、突然に背後から声を掛けられる。振り返れば、そこに居たのは成歩堂さんだった。成歩堂さんは今起きたのだろうか、大きく口をかけてまだどこか目が半開きのように見える。もう時計は昼近くだというのに、今頃起きてきたのか。娘のみぬきちゃんは学校だと朝早く出て行ったというのに。
「オハヨーございます、成歩堂さん。昨日も朝帰りですか?」
「うん、まあね」
悪びれる様子も無く、成歩堂さんはさらりと答える。ここ数日は、突然何日も来なくなったかと思えば、今度は連日朝帰り。これじゃあみぬきちゃんはどうしているんだと思いたくなるが、そんなことを本人に言ってもさらりとかわされそうなので、言葉を喉までで止めておく。
「で、今日も……?」
「うん、今日も」
今日も朝帰りだと、隠す様子も無い。
(本当にいいのか、この人……)
こうあっけらかんに話されると、返って咎める気も失せる。と、突然、どこか聞きなれた着信メロディが響く。成歩堂さんの携帯電話だ。
「もしもし…………ああ、それで? …………」
少し、成歩堂さんの声色が変わる。最近の成歩堂さんでなくて、少なからずあこがれた弁護士・成歩堂龍一の声色に近い。それでいて柔らかな声色。電話の相手とはかなり親しいのだろうと思われる。盗み聞きするつもりはなかったが、嫌でも近くにいれば声が聞こえてくる。そして俺は最後に聞こえてきた言葉に動揺するのであった。
「うん……じゃあ、待ってる。…………好きだよ」
そこで成歩堂さんは電話を終える。それから思いっきり動揺している俺の方を見て。いつもの成歩堂さんに顔に戻った。
「ああ、話の途中だったね」
「っていうか……な、な、成歩堂さん?」
「僕の名前は七成歩堂さんじゃないよ」
ここでいつもの如くかわされてしまったら、俺が人の名前も間違える阿呆に成り下がってしまう。ここは食い下がらなければ。
「違います!! そ、その! 成歩堂さんってその……恋人いるんですか?」
(言った! 言い切った!!)
俺は心の中で小さなガッツポーズを繰り広げながら、相手の反応を待っていた。最近、毎日成歩堂さんを迎えに赤いスポーツカーが事務所の前に止められている。その車の持ち主が誰かはわからないが毎日迎えに来る。そして帰りは朝帰り……とくればこれは成歩堂さんの彼女に違いない。おまけに先程の電話の表情とか、最後の台詞を聞けば否定する材料は無い筈だ。
「ああ、いるよ」
あっさりと、それはとてもあっさりと成歩堂さんは、認めた。誤魔化すことも隠すことも無く、法廷で真相を話す真犯人よりもあっさりと、認めたのだ。あまりにあっさりとして、かえってこちらが動揺してしまいそうになるぐらいに。
「え、じゃ、じゃあ、今度」
言いかけた瞬間に、外からクラクションが二度、聞こえてきた。成歩堂さんが窓の外を見るまでもなく、いつもの赤いスポーツカーの迎えが来たのであろうことは音でわかる。
「じゃあ、迎えがきたから。みぬきに冷蔵庫にプリンが入っているよ、って伝えておいてくれないか」
俺の言葉は途中で遮られて、成歩堂さんはそのまま事務所を出て行ってしまった。何というか、あっさりと衝撃の事実を突きつけたまま、謎はそのまま逃げて行ったという感覚が正しいのだろうか。窓の下に赤いスポーツカーが見える。それは今までも何度か見かけていて、成歩堂さんが乗り込むとあっという間に視界から消え去っていった。呆然としているところに、先程よりはかなり軽い足音が聞こえてくる。
「オドロキ君、ただいま〜」
振り返ると、そこにいるのはみぬきちゃんだった。中学校の制服を着ている姿にも最近ようやく慣れてきた。
「お、おかり。みぬきちゃん」
「“え”が抜けてますよ〜」
そこを突っ込まなくてもいいから、と俺は曖昧に返事をして笑う。みぬきちゃんが荷物を置いて手を洗いに行った。その辺りのしつけは成歩堂さんとはいえきちんとしているようだ。そしてふと思い立つ。彼女ならば何か知っているかもしれない、と。冷蔵庫に向かいかけた彼女に声を掛ける。
「みぬきちゃん」
「なんですか?」
「成歩堂さんって、恋人いるの?」
その言葉で、足を止めた彼女がこちらに向かってくる。何かにこにこして、ふふふ〜とこちらにやってくる。
「恋人、あ、プリンのママのことですね。それだったらいますよ」
流石、血は繋がっていなくとも7年間親子をやってきただけのことはある。彼女はあっさりと成歩堂さんに恋人が居ることを認めてしまった。しかし彼女の言う“プリンのママ”とは何なのだろう。
「そ、それってみぬきちゃんの言う“新しいママ”ってことだよな」
「多分、そうだと思います」
これまたあっさりと答えられると、かえってこちらがどう反応したらよいか分からない。
「みぬきちゃんは、いいの?」
「いいもなにも、パパが好きになった人ですから」
普通なら、新しい母親ができるとなれば混乱したり、拒否したりするっていうけれども彼女はいかにもあっさりと受け入れている。偉いなあと思う反面、それが本当にいいのかどうか考えてしまう。
「じゃ、みぬきちゃんは会ったことがあるんだね?」
「みぬきも何回かしかあったことありませんけどね」
彼女の話によると、成歩堂さんの恋人は美人で落ち着いていて、いつも来るたびに高菱屋のプリンを買ってきてくれるそうだ。時々みぬきちゃんにまでお小遣いと言う名の給食費をくれるそうだ。あとトノサマンのファンだと彼女はしきりに強調していた。
「ああ、だから“プリンのママ”なのか」
「そうなんです。いつも美味しいプリンを買ってきてくれるんですよ」
どうやら彼女はパパの恋人よりも、買ってきてくれるプリンの方が好みらしい。まあ、この経営状況に乏しい事務所で、子供の好むおやつを買ってきてくれる人は、子供にとってはいい人だと映るのかもしれないのだろうな、と思いながら。彼女の話に耳を傾ける。
「今は海外に居ることもあるんで、時々しか来ないんです。でも最近毎日冷蔵庫にプリンが入ってますから、日本に戻ってきているのかもしれませんね」」
「へぇ…」
みぬきちゃんにまでお菓子やお小遣いをくれる上に、成歩堂さんの恋人になる人に対する彼女の反応が良いものなので、俺としては一度は会ってみたいものだと口にしていたらしい。その反応に彼女は笑って答える。
「いい人です。パパには勿体無いぐらいに」
成歩堂さんには勿体無いぐらい……確かに、今はしがないピアノ弾きだという成歩堂さんにあの高そうな赤いスポーツカーの恋人は今ひとつ、釣り合いが取れそうに無いと思う。それでも成歩堂さんの先程の電話の様子を見ていると、恋人のことが好きなのだなと感じられるのだ。いつか紹介されると嬉しいと思う。
「あ、みぬき今日のステージの準備があるんです。だから冷蔵庫に入っている高菱屋のプリンは誰にも食べさせないでくださいね」
どうもあの口調だとプリンは1個しか無いようだ。俺の分は無いのかよ、だったら喋るなといいたくなるが、食べた後のみぬきちゃんよりその背後に控えている成歩堂さんとその恋人が怖いので、俺は冷蔵庫には手をつけないぞと誓った。
まだ掃除が終わっていないことに気がつき、慌てて手を動かし始める。多分幸せなんだろう成歩堂さんと、頑張っているであろうみぬきちゃん。それからあの二人が認める成歩堂さんの恋人とは誰のことだろうと思いながら俺は、今日の帰りはプリンを買って帰ろうと心に決めた。
07/05/05 tarasuji
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