ねんりんピックかるた交流大会を終えて
              群馬県かるた協会(競技主幹団体)  会長 高橋茂信
  全国各地から30チーム
  常陸宮殿下ご夫妻がご来場
平成16年10月17日、18日の2日間、ねんりんピックかるた交流大会が秋晴れの新田町で、全国各地から30チーム、130人が参加し、盛大に行われた。
  盛会に 肩なでおろし おでん酒  
  成功を 祝う同志に 菊薫る

  閉会式の挨拶冒頭での、山崎昭新田町(実行委員長)の得意の句。

 私も同じ心境だった。大事な大会直前、体調を崩して迎えた本番、自らの体に言い聞かせつつ、日程を終えた。高橋さん、大役ご苦労様、と声をかけて下さった町内関係団体の方の言葉。新木会長様始め、かるた協会関係者の労いの言葉を力にがんばった。

競技場内では、高齢者とはいえ若々しい競技をくり広げる選手の皆さん。手際よく自分の仕事をこなす競技運営スタッフ。会場外では、選手を暖かく迎える新田町各団体のボランテイアの方々。大会開催を自分のことのように・・・。

大会を終えて、喜んで帰られる選手の皆さんを見送りし、一生一度の大事業と取り組むことができた、と実感。

立案に着手

ねんりんピック開催の話があったのは、平成11年11月、私が群馬県の会長に就いて直ぐのことだった。全日本かるた協会鶴谷専務理事より電話連絡があった。平成16年に群馬県で、ねんりんピックが行われるから、その件についてのお願いをしたい、との事だった。その時は「ねんりんピック」という言葉は初めてだった。私が関わっている福祉活動との関わりについても、毛頭知る由もなかった。鶴谷専務理事から経過と説明を受けた。その中で「かるた開催について、受け入れ自治体との橋渡しをしてほしい。正式種目が望ましいが、せめて協賛種目としての開催を。」との事だった。その時は、いやしくとも県の代表であり、できないと言う訳にはいかない、事の大きさ、その後の成り行きの心配もせず、戸惑う事無く努力する事とした。

多少楽観的な考えもあった。新田町には、競技のできる立派な施設がある。そして、私自身も町の各方面の行事に顔を出し、行政機関、議会議員、諸団体にはある程度名前が知れている、なんとかなるだろう、と。早速行動を開始した。福祉課、教育委員会、総務課、県の幹部の同級生を回り、説明とお願いに動いた。結果、町からは、全面的に応援するから、と暖かい言葉をいただいた(但し非公式)。

先ずは、実績づくり、平成12年、手始めに中高年のかるた教室。第1回は生品公民館、が継続練習者は少なかった。反省を基に、平成13年、綿打公民館そして、木崎公民館。おつきあいで参加してくれた有難い人もいたが、何とか軌道に乗った、との実感を得た。

平成13年12月 新田町が「かるた交流大会」開催地として立候補
  町の配慮に感謝した。後は、正式決定を待つばかり。

平成14年4月 正式種目に決定
  待ちに待った事だった。嬉しかった。これでうまくいく。私のような人間が正式種目に漕ぎ着ける力となった、と。早速記念行事を企画し弾みをつけようとした。が、立案の過程で鶴谷専務理事よりご忠告があった。この事は、その後の私の動きには大きな教訓であった。公の事業に関わる立場、全日本かるた協会の組織の中での自分の立場を改めて見直した。
その後は、全日本かるた協会、町、県との密接な連絡を念頭に準備に入った。しかし、初めての正式種目、前例がなく、資料がない中での、暗中模索の実施要項の作成作業であった。

平成15年6月 新田町実行委員会発足
  具体的な実施準備にはいった。が、そのころ、思わぬ情報が入った。それは、ねんりんピックに選手団を派遣しない(予算上等から)決定をしている自治体がある、との事だった。予想だにしないことだった。だとすれば、派遣しない対象となる第一の種目は、新種目としての「かるた」となってしまう。案の定、八月の第一次来県調査では、20チーム参加というさんざんな数字だったという。直ちに中央との協議対策に着手した。少し遅かったかもしれない。それでも、できるだけの努力をするしかない、とやれるだけの手を尽くした。42チーム参加か、と明るい見通しに、元気が出たときも一時。最低でも36チームは期待できる、とし、実施要領の作成に入った。

平成15年12月 リハーサル大会
  本番を想定しての大会運営を念頭においての大会。多くの方の協力により開催できた。思わぬ誤算もあったが、これも、来年の本大会に向けての教訓と受け止めた。実際、リハーサル大会での経験は大きかった。

大会実施要項作成にあたっての配慮事項
  何分にも、初めての大会で、しかも公的行事。いろいろな意味での配慮が必要であった。
 群馬県県ねんりんピック実行委員会の開催方針
 ・高齢者の大会であること
 ・遠方からの参加者
 ・競技大会であるが、一般の地域住民の見学があること
 ・ゆとりのあるスケジュール
 ・開催自治体「群馬県新田町」を知ってもらうこと、等々
このことを踏まえ、
 ・県実行委員会及び新田町との密接な連絡調整
 ・全日本かるた協会との連携
 ・過去のねんりんピックかるた交流大会の開催趣旨
 ・成績処理の工夫
 ・他の室内種目(囲碁、将棋)の実施状況
 ・リハーサル大会での反省点
を念頭に、関係団体と協議を重ねつつ作成作業を進めた。
 具体的には
 ・三人1チームの団体戦、登録5名までとする。
   試合数が多くなるための補員を置く。
 ・個人戦の平行実施。
   参加者の全員の競技参加の機会を作る。
 ・各県の実力格差を考慮した3ブロック制の実施。
    予め、級位・段位の報告を受け機会的にブロック分けする。ブロック名は、1部2部、等明らかに   序列と判る名称を避け、赤城・榛名・妙義とした(幸いにも、群馬の上毛三山として定着している)。
 ・パソコンを利用した成績処理。
   開催要項に基づく成績処理プログラム作成を、足利百人一首の会、小林達郎氏に依頼。
 ・模範試合の開催。
  全日本かるた協会に企画立案をお願いした。
 ・ゆとりある競技会場。
 ・休憩時間の確保。
   過去のねんりんピック反省に多く見られた。時間調整にも好都合だった。
 ・アトラクション郷土芸能の披露。
   私も出演

 などである。

平成16年 いよいよ開催の年 
 年明けて、いよいよ本番の年、気を引き締め臨んだ。
ねんりんピックでの正式種目は、国家の行事であり、公の行事だ。組織の一員として、全日本かるた協会と新田町群馬県実行委員会等、関係団体との連絡調整が私の役だ。できるだけ足を運んで学び、そして指導を受けた。すべてが、大会のためになる、と謙虚に受け入れることに徹した。新田町役場への出勤()も多くなった。かるた協会の行事にも可能なかぎり参加し顔見知りとさせて頂きつつ、指導を受けた。

10月15日()
 会場準備。イベント業者、町職員、関係団体、かるた協会関係者。体勢が整う。

10月16日()
 総合開会式が、前橋で開催された。かるた関係者から、ねんりんピック初の総合開会式での入場行進に非常に素晴らしく感激した、と聞く。私も出席予定だったが、大事をとり病院で点滴治療のやむなし。唯一、悔いが残った。
 総合開会式を終えて、選手団役員到着。代表者会議。その間、各係員最終業務確認。

10月17日(大会第1日)
 素晴らしい天候だった。バスから降り会場へ向かってくる選手のみなさん、拍手で迎える関係者。朝日に映えて素晴らしい盛り上がりだった。

・開始式
 いよいよ、大会の開始。緊張の中にも、大会に臨む選手、スタッフの顔に、美しい気迫を感じた。

常陸宮殿下ご夫妻がご臨席
 特筆すべきは、常陸宮殿下ご夫妻のご臨席をいただいたことだ。
  初めての種目、しかも県都を遠く離れた新田町へのご視察、この上ない光栄なことだった。ご夫妻は、第2試合にご来場され、30分間、かるた競技を真剣にご覧になられた。長年かるた競技を続けてきた選手も、宮様の前で、競技ができたことは、一生一度の思い出の大会であったにちがいない。

・初日表彰式(成績は一括して後述)

1018日(大会第日)
 初日成績をもとに、決勝トーナメントの実施。決勝に向かい試合が次第に白熱し盛り上がった。

・模範試合 
 群馬県では、到底見られない、本物のかるたの試合を目の前で堪能。山崎町長も身を乗り出し、観戦。

・表彰式・閉会式
   最高齢者賞 山本秋雄(愛媛)  能勢綾子(高知)
   高齢者賞  大原一郎(三重)  小針信一(福島)  渡辺 昇(兵庫)
         井上節枝
(岡山)  栗原輝子(群馬)  植永勢津子(広島)

個人戦         
  (赤城) 優勝 中村節子(京都) 準優勝 多田日出夫(石川)  第三位 山本秋雄(愛媛) 
  (榛名) 優勝 椿 威 (宮城) 準優勝 加藤基道(山梨)  第三位 有本孝子(大阪)
  (妙義) 優勝 沖田朝子(福島) 準優勝 高橋良子(群馬)  第三位 原さなえ(神奈川)

団体戦    
  (赤城)  優勝 兵庫県   準優勝 東京都  第三位 愛媛県・静岡県
  (榛名) 優勝 山梨県  準優勝 奈良県  第三位 栃木県・島根県
  (妙義) 優勝 福岡県  準優勝 神奈川県 第三位 徳島県・山形県

各県選手、会場を後に
 午後5時30分、各県選手は日が落ちた新田町の会場を後にした。大会を終えた満足の顔、みなさん元気だった。また会える言葉を交わし、見送った。感激。

大会を終わって
 かくして、ねんりんピックは無事終了した。私にとって、主管団体の代表として、この大事業に参画できたことは、生涯忘れえない貴重な体験だった。
 競技経験の少ない私には、確かに重荷と感じることが、しばしばあった。途中体調を崩すことも何度かあった。この状態で大会に漕ぎ着けることができるか、不安とあせりもあった。でも、私自身に言い聞かせた。全国で初の事業に携われるのは、なんと素晴らしいことで幸運なことだ。神様が、私に求めても得られないチャンスと体験を与えてくれたのだ、と。
 多くの反省点もあった。しかし、新田町を挙げて、また、全日本かるた協会の一大事業として、初の大会は、本当に素晴らしい出来栄えであった。競技かるた制定百年の記念すべき年、これを機会に日本の素晴らしい伝統文化である百人一首愛好者の輪が更に拡がっていくものと期待できる。
 記述出来なかったが、競技部門以外で大会を支えた、多くの関係ボランテイア団体の連携のとれた活動の力が大変大きかった、と思う。

               平成16年11月 
                  (社)全日本かるた協会機関誌 かるた展望掲載第40号
                   高橋記