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U「アンデス高地文明」を行く
U‐B世界遺産第1級の「マチュピチュ」・「ナスカ」

◇「マチュピチュ」遺跡へ行く
ペルー観光のハイライトは、クスコ市内観光と共に空中都市といわれる「マチュピチュ」の観光である。ペルーの主な観光地はクスコ市を含めて、標高3000m以上の高地に有り高山病の危険をともなっている。約3400mのクスコ市といえども、一部の人には高山病になる危険性がある。そこで「マチュピチュ」観光の時、旅行会社は大事を取って、ウルバンバ渓谷のホテル(標高約2850m)へ宿泊する場合が有る。この渓谷に沿って古いインカの町並みが残っており、前記「オリャイ・タイ・タンボ」はこの渓谷の中心地である。ここから「マチュピチュ」へ行くには、クスコ発の観光列車に乗るか、途中一泊野宿をして、インカ道をハイキングする方法がある。
クスコ発の観光列車は、途中標高3600mの峠を越えてゆっくりと下降、ウルバンバ川沿いに標高2000m迄下る。ここから専用のバスに乗り換えて2400mのマチュピチュ遺跡迄急坂のS字カーブを登って行く。
この辺りの山は、ちょうど沢山のタケノコが芽をだしたように空に向かって盛り上がっている。雨上がりのマチュピチュは雲が飛び、ちょうど仙境を思わせる景観であった。ペルーの観光写真は100%といって良いほどマチュピチュの全景を掲げている。しかもカメラアングルはすべて同じで、少し高い位置から全景を俯瞰し、両側に段々畑が山肌を下っているというワンパターンが不思議であった。
観光バスは、空中都市に連なる尾根近くで終点となり、ここに食堂や休憩所が有り、遺跡の入口が有る。観光客は、入口から直ぐ遺跡の方に向かわず、左側の山を登って遺跡上部の段々畑に出る。約五〇mぐらいの段差のある石積みの段々畑が、空中都市の全景を写す自称カメラマンの腕の見せ場となり、体力に合わせて高さ等を決めれば良い。又この場所はインカ道が後ろから通じていて、マチュピチュの都市の城門に連なっている。
◇スペインに汚されなかったインカの都市
「マチュピチュ」の発見物語はCに簡単ではあるが後述し、内部施設(神殿や宮殿など)の配置・機能等については市販の書籍に譲ることとする。かみそりの刃1枚も入らないという、所謂インカの石積みは、クスコと同じように神殿・宮殿・貴族の住居基礎等に見受けられる。他の一般建築物は普通の石積みとなっており、屋根は茅葺き(現地の草で、一部のみ復原)であった。遺跡の石積みも引続き復原中である。この空中都市周辺の山
の斜面は、上下200〜300mの間、すべて段々畑となっており、水にも不自由していない。遺跡の建設は神殿等の石積みから考えて、インカ帝国時代のものと断定出来るが、何の目的で作られたのか未だ決定的な説が無い。スペイン軍に追われた「インカの隠れ家(最後の皇帝が姿を消したビルカバンバ)」説など諸説の有る中で、最新の説としては「インカの農業試験場」説が登場した。高度差約300mを利用して、農作物の試験や、品種改良が行われていたのではないかというのである。ペルーには現在多品種のトウモロコシやジャガイモが有り、私達も町のマーケットで色々な種類のジャガイモが並んでいるのを見た。多分10数種類は店頭に並んでいた。
◇「ナスカ」の写真は大失敗
「ナスカ」の地上絵もまたペルー観光の目玉である。以前東インドを旅した時、そこに「アスカ」という地方が
在り、空飛ぶ船の話をしたことが有った。更に全く同一発音の「あすか」という町が日本に有り、「飛ぶ鳥」と書いて何故「あすか」と読むのか?、同時に否定語「N」を付ければ「ナスカ」となって、極楽を意味する「アスカ」に対し、「ナスカ」は人間の住めない所であろうとレポートしておいた。現地に来て空から眺めるナスカ地方は、海岸から内陸丘陵地方迄すべて砂漠の連続である。丘陵砂漠には水の流れた痕跡が見え、丘陵と谷間の区別はよく分かる。正に「N・アスカ」である。しかも地上絵は空中からしか見えないのである。この大地を「アメリカン・ハイウエー」のアスファルトの線が南北に縦断している。この道路は砂嵐で埋まってしまわないのかと心配していると、砂漠の中に大平原が見えてくる。空港の滑走路のような幅の広い直線道路が数本、あちこちの向きに走っている。
これが所謂ナスカの地上絵かと思っていると、飛行機が急に左右にゆれ始め、パイロットがマイクで、「左側!宇宙人!ワカル!」と日本語である。カメラを構えてうっかりすると見失う速さで通り過ぎる。「左側!はち鳥!ワカル!」、「左側!猿!ワカル!」……右側座席の人にはもう1度同じ所を飛行し、あっという間に地上絵の観光は終了する。シャッターを切った筈の写真には、残念ながら砂漠の中にそれらしいものが微かに見られるのが2、3枚しか無かった。写真は絵葉書が最高と帰国して思う「ナスカの旅」であった。
◇1日の生死を共にした11人
観光用の飛行機は、10人〜20人集まれば、首都リマからセスナ機を1日コースでチャーター出来る。私達は11人、リマ空港から11人分の座席をセットして、機長・パイロットと1日の生死を共にする。したがって機内はアットホームな雰囲気で、最後の別れは格別なものとなった。人間が生死を共にするという事は、たとえ1日の事でもこんなに心が通うものかと思い知らされた。
リマを飛立った飛行機は、一旦「イカ」という町に着く。ここはナスカの北方約1500qに有るオアシスの町で、給油・昼食など観光の基地となる。イカ川に面して立派な外国人用のホテルやペルー人のサナトリュウムも作られている。ナスカの町にも最近小さな博物館が出来たが、イカ博物館はかなり立派で、プレ・インカ時代の土器や楽器・織物が展示され、BC200年〜AD800年頃の「パラカス文化」・「ナスカ文化」の遺品が展示されている。特にこの地方には織物の技術やデザインに特色が有り、墓地から発掘された織物を保存する為、自費で買い集めて博物館まで作り、公開している日本人がいる。ペルーの国家表彰を受けたリマ市内にある「天野博物館」の館長である。
◇ペルー文明の源流
ペルー文明は、北部高地・平原に「チャビン」・「ワカロマ」(注一)、これに続いて「シパン」・「シカン」・「チムー」が栄え、中部高地には「ワリ」・「チャンカイ」が、南部高地・海岸砂漠に「ティワナク」・「ナスカ」と各文化が源流となって、1400年頃からのインカ文明へと統合され、スペインの統治を経て、現在のペルー文明が出来上がる事になる。
(注一) ワカロマ文明とは、カハマルカ市付近にBC1300年頃から栄えた文明で、チャビン文明とほぼ同時代である。現在日本の「東京大学古代アンデス文明調査団」が発掘中の「クントール・ワシ遺跡」はこの文明である
そもそもペルー人は、氷河期の約五万年前、陸続きのベーリング海を通ってきたモンゴル族の後裔である。約2万年前、中米メキシコ・ガテマラ付近に住み着く、これらの人達はメソ・アメリカ人と称しているが、トウモロコシの栽培に成功し、後にメソ・アメリカ文明(マヤ文明など)という素晴らしい文明を作る事になる。しかし1部のモンゴル族は、間もなく南方に移動を始め、アンデス高地に到達したのは、BC3000年頃と考えられている。アンデス高地に住み着いた人達の、その移動方法は決して単純なものではなかった。第1のグループは、太平洋岸に沿って直接ペルーに移動した人達。第2のグループは、初めは大西洋方面に移動し、その後アマゾン川を遡ってアンデス高地に辿り着いた人達である。更に第3のグループとして考えられているのが、南太平洋海流に乗ってミクロネシア方面から移住した海洋民族(この人達もモンゴル族)の存在である。これら大別して3種類の人達は、信仰する神の姿が異なっていた。幸いに太陽神を中心に、月や天体は共通していたが、神の具現化されたものとして、ジャングルの動物「蛇・ジャガー(南部ではピューマ)」を信じた人達と、海岸近くに栄えた文明では、水中の動物「魚・カニ」、又砂漠地帯では、大空を飛ぶ「コンドル」を信仰の対象とした。インカ帝国の民族統合は、武力統合とは別に、各部族の持つすべての神を取り入れた結果、文化統合にも成功し、強力な帝国建設を為し得た所以であろう。
第3のグループに属する人達の研究は、今始まったばかりといえるが、ペルーで発掘された土器の中に、日本の縄文時代の土器と共通するものが発見され、日本との関わりが浮上してきている。フジモリ大統領が失脚したとはいえ、ペルーと日本との関係は不思議な縁で結ばれていると思われる。
平成13年1月
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