ウェールズの古城

ニュー・キャッスル (Newcastle)

城の数や密度がその地の戦いの激しさを表すなら、南部ウェールズのグラモーガンはまさにそれに当てはまる。右図に示すように,城や砦の跡がわずか神奈川県程度の広さに滅多やたらと存在する。

ニューキャッスルはそれらの一つで、ブリジェンド(Bridgend)の町の西、オグモ(Ogmore)川を隔てた丘の上に,町を見下ろす様に建っている。丘の川に面する西側は切り立った崖になっており、城に行くには大きく南に迂回していく必要がある。麓の雑貨屋で見学を申し込むと、それこそ30cmは優に越す鍵をくれるので、自分で明けて自由に見学できる。

城はD型の内庭を囲むように城壁が設けられており、西側は崖に沿って幅2mの壁があり、南と西には四角い塔を設けて守っている。

塔への出入りは外部に設けられた木製階段で二階から為されていたようであり、現在の一階の出入り愚痴は後世に設けられたものである。この城を有名にしているのは、南の塔の横に設けられた玄関の精巧な彫刻である。

城の中にはホールの基礎が残っているが、どうも木造建築であったようで、全体として城としての居住性は感じられない。この城はどちらかと言えば、守備隊(Garrison)の駐屯場の様なものではなかったか。

MORGANNWG

Neath

Swansea

Newcastle

Coity

Ogmore

Bridgend

Margam

Kenfig

Ewenny

Senghenydd

Coch

Cardiff

Cardiff

Afan

Llandaf

城や砦

武装された教会

〔ノルマン貴族系図〕

Roger de Montgomery

Sibyl

Robert Fitzhamon

・カーディフ城を作り直す
・1091年、Iestynを打ち破る
・1107年死亡

Mabel

Robert de CAEN

Henry T

・英国王

Ameria

Gilbert de Clare

Richard


Isabel

John

・後の英国ジョン王

ローマ時代と同じく、ウェールズへ侵略する者は,豊かな南部を狙って海岸沿いに西進してくる。ノルマン勢も又同じくグロセスター(Gloucester)を拠点として海岸沿いに攻めてきた。

そして、12世紀末にはウェールズ勢を北部山岳地帯やオグモ川の西へと追い込んだ。

一時期、オグモ川がウェールズ勢との境となり、ノルマン勢はここにニューキャッスル、オグモ、コイテの三つの城と武装されたエウェニ修道院を設けて国境の守りとした。

この城の初期の歴史は曖昧であるが、この地を征服したノルマン候ロバート・フィッハモンは城に隣接する教会をグロセスター北部の教会テウケスベリー(Tewkesbury)に寄進しており,その名前が1106年のヘンリー王年代記に「ニューキャッスル教会」と記されていることから、すでにその時,この城はあったと思われる。

・1122年、グラモーガン候としてこの地を支配

領土はフィッツハモンの娘マーベルに引き継がれたが、彼女は1147年、夫のグラモーガン卿ロバートが亡くなると、この地はフランスの(Clairvaux)修道院に寄進された。僧達は当時廃寺となっていたマーガン(Margam)の地に新しい修道院を建てると共に、周りの土地を略奪hしていった。この寄進の有効性は1157年〜66年のヘンリー二世により署名されているが、ウェールズ土豪達はそれを認めず、1167年反乱を起こしている。

William

・1183年死亡

〔ウェールズ豪族系図〕

Ifor Bach

(  )

Morgan ap Cardoc


Leison

Morgan Gam

Maud

Turbervilles

・コイテ城主
・Robert Hitzhamon の騎士

ロバートの息子ウィリアムは領土野心旺盛でウェールズ人の土地を横領していった。

1163年、ウィリアムは北部センゲンネズ(Senghennydd)のウェールズ豪族イボ・バッハ(Ifor Bach)の領土を取り上げた。イボはカーディフ城に忍び込み、城主とその婦人を誘拐し、これを人質として領土を取り返すといった有名な事件を引き起こしている。

又マーガン(Morgan)は部下のカナイシン(Canaithin)がウィリアム軍の人質になっているのにも関わらず反乱を起こしている。腹を立てたウィリアムは部下に命じてカナイシンの目をえぐり出させた。反乱は長く続き、1183年ウィリアムが亡くなったどさくさに乗じてニース、ケンフィグ、ニューキャッスル等の城が攻められた。

モーガンの支配した土地はニースからニューキャッスルまで及び、グラッド・モーガン(Gwlad Morgan),すなわち”モーガンの地(The land of Morgan)と呼ばれた。彼はニース北部のレソルフェン(Resolven)の土地を盲にされたカナイシンに与えており、カナイシンはそれをマーガン修道院に寄進し、自らも修道院に身を寄せた。

ウィリアムの死後、領土は英国王室の管理下に置かれたが、1184年の記録にはこれらの攻撃機による被害とこれに対抗する城の増築や守備歩兵達への支払いについて記録が残されている。

1188年、十字軍募集のためこの地を訪れたバルドウィン(Baldwin)大司教とジェラルドはマーガン修道院の院長と会っており、ジェラルドは”ウェールズ紀行”にその様子を記載している。

ウィリアムの死後、南ウェールズはその娘と結婚したジョン(後のジョン王)に引き継がれた。彼はグラッド・モーガンの地をモーガンが支配することを認めている。そして、1208年、モーガンは亡くなり、マーガン修道院に埋葬された。

ジョンが王位を継いだ時、モーガンの息子レイソン(Leison)は王に臣従しており、王のフランス遠征にはセンゲンネズ領主の伯父と共に従軍している。

1216年、ジョン王が亡くなると、このグロセスター伯爵領,グラモーガン、ニューポートの領地は13世紀英国で最も勢力のある貴族、ギルバート・デ・クラーの手に引き継がれた。彼は260名の騎士を従え、富と軍事力で王と拮抗する勢力であった。そして、マグナカルタ大憲章にジョン王に対抗する男爵達の一人として署名している。

ギルバート伯と息子のリチャードは領内のウェールズ豪族の領有権を総て取り上げようとした。これに対してモーガン・ガム(Morgam Gam)は反乱の狼煙を挙げた。

北ウェールズでルーワリン一世(偉大王)が反乱を起こし、1228年ヘンリー三世はギルバート伯にこれを攻める事を命じた。ギルバート伯は同時にモーガン・ガムをも攻めて捕虜とした。

1229年、モーガン・ガムは釈放されたが、1231年南ウェールズへ進軍してきたルーワリン軍と今度ははっきりと同盟んだ。この時、マーガン修道院は破壊を逃れるために60マルクの金を反乱軍に支払っている。

ルーワリンはガムにその戦功を称えてゴア(Gower)に領土を与えられたが、1240年亡くなっている。遺骸はやはりマーガン修道院に葬られた。

Jerald of Wales

マーガン・パレス

ニューキャッスルはその後、ロバート・フィッツハムの騎士であったタバビレ(Turberville)一族のギルバートとガムの娘マウド(Maud)が結婚し、このノルマンとウェールズの血を引く一族が支配することになった。

1360年、再び結婚によりこの城はバーカロルズ(Berkerolles)一族のものとなった。1411年、ロウレンス・バーカロールズ卿(Sir Laurence Berkerolles)が亡くなると相続人が居なくなった。その後暴動や訴訟合戦を繰り返し、16世紀にガマグー一族が城を手に入れた。
1580年代に結婚によりロバート・シドニー卿(Sir Robert Sydney)のものとなったが、彼の一族はこの城に興味がなかったのか、1718年サムエル・エドウィン(Samuel Edwin)に売り渡している。
そして、1932年に政府に譲渡された。

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