[旧石器時代]
氷河期にはブリテン島はテームズ川とセボン川口を結ぶ線の北部は氷河に覆われており、ウェールズはほぼ全土氷に覆われていたと思われる。そして、ドーバー近辺で大陸と陸続きになっており、マンモス等の寒帯動物を追って人類が大陸より渡ってき、住み着いた。これらの人々の住んだ洞窟の跡は南部イングランドの海岸地方に見受けられる。
約 BC 2500 年以降、ヨーロッパの温暖化が始まり、後退する氷河の後を追ってやはり狩猟や漁猟を生業とする人々が大陸から移り住んできた。又この時代にブリテン島南部は地殻変動を開始し、徐々に大陸から分離し現在のブリテン島へとなっていった。

[新石器時代]
BC 2600 年頃から新石器時代が始まり、人々は狩猟や漁猟以外に牧畜や農耕を営むようになった。BC 2500年頃より一層高度な石器時代が始まり、いわゆる考古学者のいう「巨石文化」がこれである。この文化は、もとクレタあたりの東地中海にその淵源を発しているが、ブリテンへの伝播はドーバー経由ではなく、西の方から海流に乗って伝わってきた模様である。

この時代の遺跡の代表的な物がソールズベリー丘原に残るストーンヘッジであるが、同様の巨石記念物はウェールズの平野にも多々見受けられる。

[新石器時代から青銅器時代へ]
紀元前 2000年頃から高い文明を持った人々が大陸から渡ってきた。彼らは一般にビーカー人と呼ばれているが、銅や青銅で武器や道具を作った。彼らは又よく武装された戦士でもあり、先住民の上に征服者として臨んだが、いつしか融合していったと考えられる。

[鉄器時代とケルト人の渡来]
紀元前 500年頃から鉄器文化と共に、数次にわたって大陸よりケルト人が渡ってきた。ケルト人は元来、ギリシャ人、イタリア人、ゲルマン人、スラブ人らと並んで中央ヨーロッパに広く分布していた民族のひとつであった。この民族は好戦的な民族で紀元前7世紀以来、民族移動を開始し、その一部が海を渡ってブリテン島へやってきた。そしてスコットランド、さらにはアイルランドまで征服していった。その結果、イギリスの地名にケルト語以前の言葉の痕跡を留めないほど全ブリテンを完全にケルト化してしまった。彼らは大規模で複雑な構造の城塞を各地に構築しつつ、定着していった。
土地にローマ人がここに住むケルト人を見て、ブリタンニ(ブリトン人)と呼んだので、この島はブリトン人の国、すなわちブリタニア(ブリテン)と呼ばれるようになった。

[ローマ人の侵攻と植民地化]

紀元 100年、当時フランンス地方でガリア人と戦っていたローマ軍はその背後でガリア人を支援するブリトン人を討伐すべく、再度にわたってブリタニアに遠征してきた。ローマ軍は鎧や兜といった優れた武器と共に異なる文明、すなわちローマ文明をこの国に持ち込んだ。

もっとも、この島全体がローマ化されたわけではなく、大陸に近い東南部、およびハイランドに設けられた軍事拠点の周りに限られていた。現在もイギリスにはウィンチェスター、ドーチェスター、グロスター等、何々スター(ー ster)で終わる地名が多いが、これらの語尾は駐屯地を意味するラテン語(Castra)から来ており、この地がローマ軍の駐屯地であった事を表している。ウェールズについて言えば、北部チェスターと南部カーレオンに設けられた軍団の駐屯地を結ぶ軍用道路を中心に、戦略拠点にいくつもの砦が設けられた。又これら軍事的影響以外にも色々とローマ文明の影響を受けている。カーレオンには

今も円形劇場の遺跡が残っているし、カーウェントにはローマ人の町が建設された。又ローマ人はこの地方の商業の発展にも寄与しているし、ドローコーチの金鉱山も彼らによって開発された。

[ケルト人伝道師と海路の開拓]
この間ローマ本国ではゴート人を相手に激しい戦争を繰り広げていた。この為多くの軍団を次々と本国に呼び戻している。ブリテンの諸都市に配備された軍団にも帰国命令が出された。 410年、時の皇帝ホノリアスはブリテンの町々に「以降、町は自分の力で守るように!」と勅令を出し軍を引き上げてしまった。
ここにローマの支配は終止符を打つが、これに続く200年間は英国歴史の空白の時代となり、ほとんどなにも判っていない。ただ特筆出来る事は、キリスト教の再伝来とその普及であろう。この普及に当たって力のあったのは「ケルト人の聖者達」と呼ばれる熱心な宣教師の集団である。彼らは絶え間なく布教活動を続け、ウェールズやアイルランドへと小さな小舟を操ってケルトの土地を渡り歩いた。そしてその土地に教会を建て学校を建てたりしながらキリスト教を広めていった。

ウェールズには頭に「Llan--」と付く地名が多いが、これは村人が彼ら宣教師の誠実な仕事ぶりを称えて、それを記念するために村の名前としたのである。すなわち「Llan]はウェールズ語で教会を表しそれに続く名前はその教会が崇めるそれら聖人や宣教師の名前である。例えば「Llandewi」は「Dewi」すなわちセント・デビットを記念する「Llan」(教会)と言うことになる。
これら村々の名前の他に、彼らの活動を称える石碑がウェールズのここかしこにあり、或る物には彼らの名前と共にケルトの小さな王国の支配者がキリスト教に帰依したことを喜ばしげに書かれている。彼ら多くの伝道者は北ウェールズの沖に浮かぶバードセイ島に埋葬されたが、今そこにはそれを物語る僧院等は何も残っていない。

[暗黒時代]
ローマ軍が撤退したというニュースは直ぐに広がり、早速北方よりスコット族やピクトン族が攻め込んできた。ブリトン人の首長達はこの侵略にたいして大陸のサクソン人やアングロ人の部隊を傭兵として雇い対抗した。アングロ・サクソンの兵は強く、たちまちピクトン族を打ち破った。しかし、今度はこのアングロ・サクソンの部族が戦争が終わっても引き上げようとしなかった。それどころか、次々と大陸から渡ってきてブリトン人の土地を奪っていった。そしてブリトン人とアングロ・サクソン人の間に激しい戦いが繰り広げられていった。
この戦いの中で各部族には英雄が生まれている。中でも有名なのがブリトン側の英雄、アーサー王である。彼にまつわる遺跡はウェールズやイングランド各地に点在す

る。しかし、あまりに有名となりその名声が神話や神懸かり的な話となった為実在の人物ではなく伝説上の人物の如く誤解されている。しかし最近の研究ではアーサー王、もしくは王に類した人は実在し、その優れた軍事的才能sで数々の勝利を収め、約半世紀に渡ってアングロ・サクソンの侵略を跳ね返していたと考えられている。
これらアーサー王等の英雄のがんばりも空しく、アングロ・サクソン人は徐々にイングランドの平野部を征圧していき、土着のブリトン人をウェールズのやコンワォール地方へ押し込めていった。一部ブリトン人は海を渡り、今日のフランス・ブルターニュ地方へ逃げ延びていった。この地方が現在も小ブリタニア( Little Britain )と呼ばれ、イギリスの( Great Britain )と相対している。
600年頃にはイングランドは七つのアングロサクソン王国に分割されていた。そしてウェールズとコンウォールがブリトン人の国として残った。
8世紀の後半、これら七王国の内、マーシャ王国のオッファーはウェールズとの国境に延々と土手を築いている。この「オッファーの土手は現在も残っているが、これがその後数世紀に渡ってイングランドとウェールズの国境となった。
9世紀から11世紀にかけて新たな部族の侵略が始まった。北方からのバイキングの来襲である。
彼らは容易に川を遡れるよう長くてスマートな船に乗ってウェールズやイングランドの海岸地方を荒らし回っていった。

[ノルマン人による征服]
アングロサクソンの七つの王国はやがて統一されるが、このサクソン王朝の最後の王がエドワード懺悔王である。1066年エドワードが亡くなると三人の人物が王位継承を主張して争った。王の義弟ハロルド、ノルマンディ候ウィリアム、そしてバイキングの王ハラードである。
1066年、1月ハロルドはヨークの教会でエドワードの後を継ぐべく戴冠式を行い王位に着いた。ウィリアムは早速異議を申し立て、イギリスに軍を進めようとしたが悪天候に阻まれて海を渡れなかった。一方バイキングの王ハラードはすぐさま兵を率いて北イングランドに上陸した。ハロルドは直ちに迎え撃ち、スタンフォードの会戦で打ち破っている。数日を経ずして天候が回復し、ウィリアムは海を渡ったたが、今度はハロルドは南へと軍を返してこれを迎え撃った。
1066年10月14日、ハスティングの原野で両軍は戦火を交えた。ハロルド軍はサクソン得意の歩兵の密集集団を丘の上に築いた。一方ウィリアム軍は大半が騎兵で構成されており、機動力を生かして丘に攻め上ったがなかなか落とすことが出来なかった。両軍一進一退の内、午後になってウェイリアム軍が弓矢を空中高く撃ち、空から矢を雨のように降らす戦術に出た。動揺するハロルド軍に騎兵が突入し、さしもの堅陣も崩れてしまった。ハロルド王は混戦の内に討ち死にしている。
ウィリアムは直ちにロンドンへと兵を進め、日ならずしてウェストミンスター寺院で戴冠式を行っている。ここにノルマン王朝が始まった。

[ウェールズへの侵攻]

ウィリアム征服王はイングランドを征圧するや直ちにウェールズ侵攻を計画した。当初ウェールズは隣国のマーシャ王国と同盟を結んでいたが、4年後に
マーシャがウィリアムのノルマン勢に降伏するに及んで一人で戦わねばならなくなった。
王の建てた戦略は三つの軍団を国境に配し三カ所からウェールズを蚕食させようと言う物であった。
まず、自分の甥のフィッツ・オジボーンを南部ヘルフォードに配している。続いて1070年、アバランチズを北部チェスターに、1071年にモントゴメリーを中部シュールズベリーに配した。王は彼らに広範囲の自治権を認め独自の軍隊、財務機関を認めた。そのかわり、彼らは自前の軍隊でウェールズ征圧をしなければならなかった。

南部方面を担当したオズボーンはモンマウス、ウスクと城を築きながらウスク川を南下していった。そして数年を経ずして南東ウェールズを征圧した。北部ではアバランチズは一族のロバート・ラグランに命じて海岸沿いに軍を進めさせ、コンウェイの渡川地点であるデカノイに城を築いた。そして、1081年川を渡ってギネズ地方の首長、トラハーンを破っている。1088年、ロバートが亡くなるとヒューが後を継いで更に西進し、、カナボーンに城を築いている。モントゴメリーは現在のモントゴメリーに前線基地を設け、着々と蚕食していった。ただ、南西ウェールズはウェールズの首長テオドアががっちりと支配していたので、付け入る隙がなかった。しかし、1093年彼が亡くなるや、モントゴメリーは長躯、中部ウェールズの山岳地帯を通り、南西ウェールズに攻め込んだ。そして、部下のディブロー一族にはラドノア地方を、ニューマーチ一族にはブレコン地方を、ハモン一族にはグラモーガン地方を支配させた。

[ウェールズの抵抗]
ノルマン人がイングランドに上陸し、サクソン人と戦いを始めた時、ウェールズ人は数世紀来の宿敵、サクソン人がやられるのを見て喜んだ。そして、単純にも敵の敵は味方とばかり、ノルマン人に対して対サクソン同盟を提唱している。
しかし、彼らがウェールズへ侵略してくるにおよび、その考えの甘かった事に気付かされる。大陸で実戦経験の積んだ職業軍団に対して、牧歌ときな戦いを繰り広げてきたウェールズの人々は抗すべくもなかった。初期のノルマン軍の奇襲攻撃に対してウェールズは簡単に征服されるやに見えたが、民族の興亡という危機感がウェールズ全土に起こり、今までの部族間の反目を越えて反攻に立ち上がった。ウェールズは彼らの本拠地のフランスや今まで戦ってきたイングランドと異なり山岳地帯で、彼らノルマン軍が得意とする重装備の騎兵軍団は行動を阻まれた。そしてウェールズ軍はゲリラ戦へ持ち込んででいった。
1087年、ウィリアム征服王が亡くなると、三男のウィリアム赤顔王が後を継いだ。彼は「歴代イングランド王で最も不道徳な王」と言われているが、軍事的には色々と実績を上げている。
1094年から1098年にかけて、ウェールズ全土で激しい戦いが繰り広げられた。ウェールズ各部族はノルマンの諸城を攻め、一部ではこれを落城させている。しかし、それも補給が続かず、気が付いてみるとウェールズ部族は山岳部に押し込まれ、平野部にはノルマンの城が残っていた。そしてウェールズへ侵攻したノルマン諸侯はその侵略を親から子、孫へと引継、それ以降数世紀に渡り攻防戦が繰り広げられていった。

[ルーワリン偉大王( Llwelyn the Great )]

ヘンリー一世が亡くなると甥に当たるスティブンが継いだ。この継承に内部抗争が伴った。又その後を継いだヘンリー二世はヨーロッパ随一の広大な領土を待ったが、教会と相争い、又晩年には親子、兄弟が骨肉の争いを繰り広げている。その後を継いだのは「アイバンホー物語」で有名なリ獅子王リチャードであるが、彼の関心は十字軍にあった。これらイングランドの混乱はウェールズに反撃の機会を与えた。
時代はウェールズに味方し、そしてウェールズの英雄、ルーワリン一世の登場となる。彼は1173年北ウェールズのトルイデランで生まれた。父はこの土地の豪族であったが、彼が生まれて直ぐに亡くなっている。そしてルーワリン自身は幼年期の大半をイングランドで過ごした。15歳で国に帰り、21歳で同地方を統一に成功し領主となった。その後イングランド王ジョンの娘と結婚し、数年を経ずして北ウェールズ全域を支配下においた。彼は武勇に秀

《トルイデラン城》

いでたのみならず、政治家としても卓抜した技量を有し、近隣諸国と友好関係を結びながら連合国家を造っていき地盤を強化していった。彼は農業技術の改良や荒れ地の開墾を推進し、商業や交易を盛んにするために領内のカナボーン、ペロリーの町に自治を与えている。又ウェールズ人の中から信頼できる者を選び、土地を与え、その見返りに軍務を架した。ここに来てやっとウェールズに中世封建制度が確立されていった。さらに、教育水準の高かった修道士を多数使い、当時のウ

ェールズとしては革命的な中央集権体制を目指している。
イングランドのジョン王がウェールズ全土を武力征服しようとした時、ウェールズの首長達はルーワリンの下に団結し、ある時は武力で反撃し、ある時は恭順の意を示し巧みに王の野望を打ち砕いていった。このような類い希な指導者、ルーワリンをもってしても「ウェールズ統合」という大目標は達成できなかった。当時のウェールズの人々の頭には「国を統合する」といった概念が最後まで理解できなかったようである。
ルーワリン一世は1240年、コンウェイで亡くなった。彼はその実力から言って「ウェールズの王」を名乗ろうとすれば出来たであろうが、終生スノードニア地方の首長に止まった。

[ルーワリン最後王 ( Llywelyn the Last )]

ルーワリン一世の後を継いだのは孫のルーワリン二世(最後王)である。彼も祖父に習い、イングランドの内紛に乗じて勢力を伸ばしていった。そして、1267年時のイングランド王ヘンリー三世との間に「モントゴメリー条約」を結び、彼を「全ウェールズの王」と認めさせている。
1272年、ヘンリー三世が亡くなると長男のエドワード一世が位についた。彼は幼年病弱であったが、長じて武勇にも優れ英国史上屈指の名君となった。又従来の王がフランス風の名前を名乗ったのに対して、初めてイングランド系の名前を名乗り、これも相まって国民からも愛された。
ルーワリンの不幸はこのエドワード王の優れた能力に気付かなかった事にある。ルーワリンは王の即位に際して臣下の礼を取ったり、祝いの品を送ることを拒んだ。又、外交的に拙いことに当時エドワード王の最大のライバルであったモントフォート候シモンの娘と結婚した。当初エドワードは国の内外が多忙のため、ウェールズと事を構えるのを避けていたが、ここに至り遂にウェールズを攻め滅ぼす決意を固めた。

[エドワード一世の第一次ウェールズ遠征]
1267年、イングランド軍は北部チェスター、中部モントゴメリー、南部カマーセンから軍を発し、ウェールズへ攻め込んだ。エドワード一世の戦略は慎重を極めた。まず城を築き、そこを前線基地として武器や食料を確保し、そして軍を進め、又そこで城を築いて前線基地とすると言った方法で暫進していった。
この重厚な包囲網にルーワリンは為すすべもなくギネズの山間部に押し込まれていった。更にエドワードは艦隊を組織し、ウェールズ軍の穀倉地帯であったアングレシー島を占拠し、食料の補給路を絶った。
万策つきたルーワリンは和を乞い、1277年アバーコウェイ条約により和平が成立した。この条約は予想されていたとは言えルーワリンにとって屈辱的なものであった。過去10年に渡って培ってきたウェールズの支配権は全て奪われ、わずかギネス地方が領土として与えられた。皮

肉な事にここに至ってもエドワード王はルーワリンに「全ウェールズの王」と名乗ることを許している。

[第二次ウェールズ遠征とウェールズ独立の終焉]

第一次遠征後、エドワード一世はウェールズ各地に堅牢な城を建てていった。日夜その城を見上げるウェールズの人々は屈辱感にさいなまされた。さらに占領地の支配のために派遣されたイングランドの役人の横柄な態度はいやが上にも反感を募らせた。
今回最初に反乱の狼煙を上げたのはルーワリンではなく、弟のデビットであった。彼は青年期、ギネズで兄ルーワリンと過ごしたが、兄の暗殺計画に連座し英国に逃げ込みエドワード王の庇護を受けている。そして第一次ウェールズ遠征ではイングランド軍に参加して手柄を立て領土を与えられている。しかし、戦後、兄に替わり「全ウェールズの王」に成れると思っていた彼にとってこれは不満であった。そして今度は英国に対して反旗を翻した。
兄のルーワリンがどう思ったかは定かではないが、反乱はたちまち全土に広がり、人々は再びルーワリンをリーダーに押

(ルーワリンのさらし首)

し上げていった。今回の戦いはウェールズの存亡を賭けた戦いで長く激しいものとなった。イングランド側は西部国境からは陸戦隊を送り込み、北部からは艦隊を用いて海から攻め立てた。これに対してウェールズ軍は活路を南ウェールズに求めて南下していった。不運にも、ルーワリン自身セルメントの戦いで討ち死にしている。その戦いは彼の戦死がしばらく両軍どちらにも判らなかった程の混戦であった。
戦後、エドワード王はウェールズの中心地ギネズ地方の首長達を皆殺しにし、この地方を王の直轄地としている。そして再び反乱が起こらないように城を堅牢な物に補強していった。

[グリンダー( Owain Glundwr )の反乱]

エドワード一世の遠征後も、ウェールズは静かにならなかった。ルーワリン二世が討ち死にしてまもなく、今度は南ウェールズの首長マドックが反乱を起こしている。しかし、前のように全ウェールズを巻き込む事態にはならずに平定されてしまった。その後も不穏な動きはあったものの1400年に至るまで、ウェールズは表面上は平和な時が流れた。
当時イングランドはヘンリー四世の時代であったが、彼も又歴代の王と同様フランスと交戦状態で、又スコットランドともいがみ合っていた。これらの戦費をまかなうためにウェールズにも重税をかけてきた。更に悪いことにペストの大流行である。そんなこんなでウェールズの不満は鬱積し、一発触発の状態であった。
このような世情を背景にオーウィン・グリンダーが現れた。彼はウェー

ルズの名門の血筋を引いており、家柄を重んじるウェールズ社会では最初から頭角を現していた。
青年期にはイングランドに渡り、ウェールズの青年貴族として宮廷での社交会の華やかな暮らしを楽しんでいる。1400年、洗練された紳士として故郷ウェールズに帰ってくるや近隣領主との領土争いに巻き込まれた。この小さな紛争がいつの間にか全ウェールズを巻き込む国を挙げての反乱となっていった所に彼の持つ能力とともにカリスマ性が見受けられる。事実彼は人々から超自然的な魔法を使うという評判を得ていた。
反乱軍の怒濤の様な攻撃にあって、イングランド勢は後退をやむなくされたがこれが全面撤退とならずかろうじて踏みとどまることが出来たのはエドワード一世によって築かれていた一連の城の存在であった。特にカナボーン城は十重二十重に囲まれたが、長期籠城戦を戦い抜いた。最も全ての城がそうであったわけではなく、コンウェイ城では日曜日の教会での祈祷の最中に奇襲攻撃を受け落城している。1404年、オーウィンは絶頂期を迎え、ハーレック城に全ウェールズの代表を集めウェールズ国会を開催し議長として取り仕切っている。又フランスと同盟を結び、海路援軍を得て共同でイングランドの城を攻めている。
しかし、実力に勝るイングランド勢はじわじわと失った土地を回復していき、オーウィンを後退させていった。そして、1412年、彼自身が忽然と煙のように姿を消してしまった。それとともに反乱も自然消滅している。
オーウィン・グリンダーの生涯や性格は明確な記録としては残っていない。しかし謎の英雄として広くウェールズの人々に語り伝えられ、その立像はカーディフ市民ホールにある。

[英国との統合]

バラ戦争も終わりの頃、ウェールズの血を引くリッチモンド候ヘンリーは時の英国王リチャード三世の毒牙を逃れて大陸のブルターニュ地方へ逃亡していた。
1458年8月、僅かな手兵を連れてウェールズ南西端のミルフォード・ヘブンに上陸した。噂を聞いたウェールズの彼の支持者は続々と彼の元に集まり、シューズ

ベリーに到着した時は大部隊に膨れ上がっていた。そして8月22日、ボズワースの野に数において倍するリチャード軍を打ち破り、王を討ち取っている。
ヘンリーはヘンリー七世を名乗り、チュダー王朝を開いた。ここに曲がりなりにもウェールズの血が英国王朝に入ったことになる。

その後もウェールズは領主が独自に領土を治めていたが、1546年イングランドとウェールズを統一するという法案が議会を通過し、ここにウェールズは英国の新しい州となった。
以降もウェールズは英国歴史の中で大きな役割を果たして行くが、それは英国歴史の一部として語られるべきで、ウェールズの歴史からは割愛する。

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