はじめに

1.本稿は長編のため全編掲載までには1年以上かかります。
2.本稿は昭和34年に執筆されたもので、札幌市の景観や社会情勢が一部現況と異なることをご承知ください。
3.拾った一冊の日記帳からはじまる激しい愛と悪の旋律。
 どうぞ最後までご愛読下さい。




美しい北国の札幌を舞台に繰り広げるロマンス
愛をもてあそぶ女の悪へ 挑戦する男の執念
おぼれる愛と迫りくる危険





目    次

第一章 愛の疑惑

  1. 拾った日記帳(掲載中)
  2. 苦 悶(掲載中)
  3. 周囲の人々(掲載中)
  4. 公開尋問(掲載中)
  5. わたしには解らない(執筆中)
  6. 母と子 誕生日招待
  7. 榊部長の醜態

第二章 愛のめばえ

第三章 愛のもだえ

第四章 愛の破滅









本ページについてのアンケートにお答え下さい。
面白いので読み続けたい
面白くない
まだどちらともいえない




昭和34年頃の、札幌市内の古い写真をお持ちの方がおられましたらお知らせ下さい。


札幌市内バック映像

(中島公園)

(愛と悪)

第一章  愛の疑惑


1.拾った日記帳



札幌の夜11時、中島公園通りの停留所に激しい音を立てて電車がとまった。

ひとりの男が降りた。彼は ちょっとあたりを見渡してから、スプリングのポケットに両手を突っ込むとスタスタと公園の暗がりへ向かって歩いていった。その顔は健康的に色浅黒く、鼻が高く、眼は神経質にいつもどこか空間を眺めているよう。身体はスラリとしてよく整っている。そんな風貌のためか一見老けて見えるが、どこかに隠しきれないあどけなさが残っている。

彼は道を左に折れ、公園の短い芝生のなかの細い道を行く。ところどころに立つ電柱にともる明かりが足下を薄暗く照らしている。くねくねと屈曲するその芝生のなかの道を過ぎて池のほとりに通りがかったとき、その行く手の暗闇よりパタパタという人の足音を聞いて、彼はふと歩みを止めた。

やがて暗闇のなかから黒いものが影絵のように池の縁を伝って近づいてくると、疾風のように彼の横を通り過ぎて、彼の今来た道を走り去っていった。そして彼がいぶかしげにその方角を振り返って見ていると、もうひとつの影が近づいてきて、これも彼を突きのけるようにしてそばを通って、前の影を追うように走り去った。

彼はすれ違いざまその黒い影をよく見ると、それは明らかに真っ黒な姿である。警官なのだ。

彼はある不吉な予感にとらわれて2,30秒、その場にたたずんでいたが、やがて歩きだし、ふと10メートルほど前方の地面に眼をやったとき、そこにボオーットかすんで黒い四角い物体があるのに気づいて、それを手にとってみると、黒表紙に「DIARY」の金文字がの刻んである。中をペラペラめくると、そこに肉筆で丹念に文章がつづってある。

誰の落としたものかわからないが、彼はそれをスプリングのポケットにねじこんで、それからもう一度二つの影の去った方角を振り返ってから、ゆっくりと歩きだした。

公園を過ぎ少し歩き、人家の密集する住宅街に来ると、ある一軒の家の前で歩みを止めた。木造のこぢんまりとした家で表札には柳沼高志と書かれている。
「ただいま!}彼はその家の玄関の戸を開けた。
「おかえり、今日はばかに遅かったネ」

40才すぎの品のいい女が割ぽう着姿でいそいそと家の奥から出てきた。
「帰りに友達からチョット誘われたものでーーーーー」 彼はそういい分けして靴をぬぐと部屋の中へ入っていった。

彼、すなわち男は柳沼高志であり、この家の主である。

彼は母と妹だけの3人ぐらしである。

今年の春大学を卒業してすぐ市内の北報新聞社にその文才をかわれて入社した。彼の母、千代はこれまで女手ひとつで二人の子供を養育してきたが、その苦労の甲斐あって、食品会社に勤めながらも今では肩の荷もおり、これからは二人の成長だけを楽しむ境涯にあった。


昭和11年、高志の母は結婚してすぐ夫とともに満州に渡った。そしてすぐ高志を生んだ。この肥沃で広大な、そして大陸的な満州の地は、若い自信と開拓心に燃えた夫婦にとって大きな希望と歓喜を与えてくれた。ところが不運にも夫の柳沼秀三は、当時の国際間の緊迫した情勢のもとに、1枚の赤紙によって関東軍に編入された。ときは昭和15年3月であった。

昭和初期から支那には日本の武力外交に反発して抗日、排日運動が激化し、一方満州国建立の夢想を抱いていた満州駐屯の関東軍革新派はその実現を急いでいたので、昭和6年9月の柳条溝の鉄道爆破を契機に軍事行動を起こし、一挙に満州国を築いた。その後ますます中国の排日感情が高まり、ここに高揚する日本軍の侵略外交と合致して支那事変の勃発をみた。

秀三は満州から中国の北京、南京へと出征した。秀三にとって結婚後間もなくにして妻子のもとを離れるのは我が身を切断されるように苦痛であった。

秀三の出兵した年の秋、長女美智子が生まれた。そして親子3人は秀三の帰還を一日千秋の思いで待ちわびていたが、秀三が去ってから3年目の秋、3人のもとへ白布に包まれた一物が届けられた。それは1日にして柳沼一家に暗雲をもたらした。通知には戦死としてあった。しかし、後から帰還した同期兵のうわさによると、秀三は軍法会議にかけられて銃殺されたということだった。

あの純真だった夫が何で銃殺なんかと悲嘆にくれた千代は、当時成長して五才の誕生日を迎えた高志と、三才の美智子とともに夫の銃殺された経緯(いきさつ)を聞きまわった。そして実に哀れむべきことを知ったのである。

支那での戦況はすこぶる悪く、北京、南京へと善戦進撃してきた日本軍は、湖北省の都市漢口占拠のあと、蒋介石率いる支那軍の猛烈な攻撃をうけ、そこで長期にわたる持久戦となった。そんなときに、まだ若くして美貌であった秀三はその土地 に居住していた日本娘をすっかり魅惑してしまった。そしてある女は、自分に許婚があり、秀三に妻があるにもかかわらず秀三との交際を求めてきた。彼はなんどもその要求を拒絶して厳と受け入れようとしなかったが、女は容易にあきらめようとしなかったばかりでなく、ますます彼の身辺につきまとった。そんなふたりに嫉妬と憤りを感じていた女の許婚は、秀三が当時の一等無線通信士の免許を持っていることをを種に、裏にまわって卑怯な工作をおこない、秀三が支那軍と内通しているかのような虚報を日本軍参謀本部に密告した。不運というものは恐ろしいもので、丁度、最近軍の機密が頻繁に外部に漏洩し、また支那軍の行動の一つひとつが軍の行動の裏ばかりいっていたので、日本軍はその男の言葉を信用した。軍は即座に秀三を軍法会議にかけた。そこで、軍の幹部の多くは秀三の無実を確信した。しかし、支那駐留日本軍は、当地における日本軍のたび重なる戦略のミスを何とかうまく弁明しようとしていた矢先のことだったので、支那軍の諜報機関への機密の漏洩とその首謀者の捕縛という、しごくもっとらしい報告を内地へもたらすことで、自らの作戦の失敗をぬぐおうと策謀した。そして密告者の言葉を全面的に信用すると、ただちに秀三を銃殺刑に処した。そして遺骨だけは戦死の名をもって千代のもとへ送りかえしてよこした。


三人は軍を恨み、運命をうらみ、何日も秀三の位はいの前で涙にむせいだ。だが千代はこの絶望的な災禍に屈服することなく、残った親子三人で生き抜くことを亡き秀三に誓ったのである。

昭和一九年を迎えてからいよいよ苦境に陥った日本は昭和二十年秋、終戦を迎えた。千代はふたりの子供と夫の位はいをともなって津軽海峡を渡り、北海道札幌に引き揚げてきた。

高志は母と向かい合って食卓についていた。
「さっき公園で妙なことがあってネ」
「何が?」
「二つの黒い影がぼくの横を通り抜けていった。二つ目の影は警官だった。恐らく泥棒か何かが警官に追われていたんだと思うけど何となく不吉な予感がした。」 「夜道は物騒だから気をつけないといけないよ。家ではお前が頼りなんだから」

千代はそういって漬物をうまそうに頬張る高志を心配気に眺めている。

すでに四十代を迎えた彼女の顔にはところどころ小ジワが顔をだし、頭髪にもたまに白いものが見えはじめたが、その容貌にはまだまだありし日の美しさが溢れていた。

高志と母はつねに信頼と愛情をもってこの世風を渡ってきた。喜びも悲しみもすべて親子三人の共有物であった。お互いに隠し事はなかった。しかし、このとき、高志はあの道で拾った「DIARY」のことはすっかり忘れていた。
「高志、あさってはお父さんの命日だよ。昔のことが思い出されるよ。お父さんはよい人だった。お前にそっくりでネ。」こう話す千代の胸中にはある深い感慨があった。

若くして愛する夫を失い、その後寡婦(やもめ)で通してきた彼女にはまだ諦めきれない夫への追慕があった。
「ああ、うまかった。ごちそうさま。」
「あしたは忙しいから先にやすみますよ。お前もすぐやすみなさい。」

高志が食事を終えると千代は食卓を下げ、すぐに隣室の六畳間に消えた。彼女は妹美智子と階下に寝ていた。

高志はひとりになると、母の去ったあとの襖の縁を眺めながらしばし夢想の境でその場に座っていた。時計は12時を打った。間もなく隣室から母の軽い寝息が聞こえてきた。家財道具もあまりなく閑散とした部屋であるが、青畳と最近入れた3尺ほどの茶ダンスと、そして壁にはった暦や風景画の額などが千代のきれい好きから整然と配置されている。

高志の脳裏にふと、銃殺されようとしている父の顔が脳裏に浮かんだが、すぐ消えてしまった。

もう大分夜が更けている。彼は部屋の電灯を消し、突き当たりの階段をのぼると2階の六畳の部屋の椅子に腰掛けたが、あの拾った書籍のことを思いだすと、すぐまた階段を下り、玄関のスプリングのポケットからその書籍を抜き出して持ってきて、それを机上に置くとスタンドをつけた。

表紙の文字よりそれは日記帳である。高志は他人の日記帳を無断で読むことに深い罪を意識したが、何かこの日記帳は彼の心を引きつけるような思いがしてページをめくった。



第1ページのブランクな紙面の片すみに

 橋本行雄 二十四才

と鮮明で達筆な文字でペン書きしてあった。
次のページをめくってみた。そこには平凡な1日の生活記録のっていた。そして、次のページもそのあともずっと簡単な文章がつづってある。

最近の日付にあたるページをめくった。昨日の日付で終わっている。

九月二十三日月曜日 晴後曇り

美和子さんはよい人だ。決して悪い人じゃない。あれも俺にたいする愛情からなんだ。あの人は俺にあのことをしてくれと言った。そうしたら絶対に結婚してくれると約束したのだ。
しかしそのことは恐ろしいことだ。この清潔な手、この尊い手を血で汚すなんて、そんなことがこの俺にできるものか。チリほどの虫を殺すことさえできない俺に------。
しかし俺には美和子が必要なんだ。彼女が俺の前から消えるとき、俺の命もともに消滅するだろう。
自分にあの恐ろしいことを果たす能力がないということは、俺が彼女のもの、彼女が俺のものになる価値がないことを意味するのだ。あの部屋を二度と開くためには彼女との約束を守らねばならぬ。
机の中の鋭く光るピストルが俺の心をどこかへ連れこもうとしている。


最後の方の文章はほとんど走り書きである。

この日記文の中に漂う不気味さは、高志に何か、怪奇小説を読んでいるような錯覚をおぼえさせた。1人の男が何者かに抱きすくめられて、深い渓谷の縁へズルズルと引きずられながら苦悶している姿をみる。

文中の「彼女はあることをしてくれといった」

「あのこと」とは何だろう。

「机の中の鋭く光る」、「恐ろしいこと」、

一体これらの語句はどうつながるのだろう。
高志は前ページを一枚一枚めくってその「あること」というのを探していった。

一週間ぐらい同じような文章が続いていたが、その「あのこと」という言葉の説明は何一つない。あのこと、おそろしいことなどの文句が並べてあるだけである。

そして、七日、八日、九日目にくると、そこに3ページを費やしてきわめて興味深い著述がしてあった。


九月一九日 曇り

自分は今日も彼女の家を訪問した。美しい庭園の望める2階の彼女の部屋の窓辺に、彼女と肩を並べて話していた。自分は宿願だった結婚の話をいんぎんに持ちだした。
『美和子さん、あなたはぼくのことをどう思っているんです。』
『--------------』
『なぜ黙っているんです』
『いま何月何日だと思ってらっしゃるの? いまさらあなたにそんなこと訊かれるとは思ってもいませんでした。わたしを疑っているのね』
彼女はくるりと向きを変えると、視線を窓外からぼくの真正面に移してまじまじとぼくの顔を見つめた。自分はその鋭い、堀りの深い眼にあって、たじたじとなった。
『それでは美和子さん、ぼくのことを思ってくれているんですね。ありがとう。美和子さん、ぼくと結婚してくれませんか? なぜそんな目で見つめるんです。ぼくは真剣なんですよ』
彼女の眼をさけるために自分は窓の下に視線を移した。

彼女は
『あなたは純情ね! わたしはあなたが好きよ。本当に好き、大好き。わたしの弟のように------.』
と言うと、窓辺から離れて向かい側のドアーのそばへゆっくりと、何か考え深そうに、下を向きながら歩いていった。
自分はいま美和子さんが言った『弟のように』という言葉に、何か、深い谷底へ突き落とされたような気がした。
『弟のように好きだ? あなたは、それではぼくのことを自分の弟として愛していたのか! 知らなかった。あなたという女は』
自分は彼女のところへ迫った。
『待って! それはわたしの失言でした。弟という言葉が悪かったんですわ! わたしは親しみのつもりで使ったのですが------』
自分は彼女のそんな言い訳をを聞きたくなかった。それはそうとして、自分が憤った根底には急にガラリと態度が変わった心情にたいしてであった。
急に静かになったふたりはあのとき、隅の方にあったテーブルの椅子に腰掛けた。

『さっきのこと--------、どう思います? 』
「わたしも、それは考えました。いずれは結婚したいと。でも、いまでは困るの。もう少し待って欲しいわ』
自分は1秒でも早く彼女と結婚したかった。時がたつにつれて今にも彼女が、あの美しい雪の結晶のように消滅してしまうように思えて、早くこの翼々とした心理状態から解放されたかった。

『なぜいまではいけないのです』
『お話ししなければいけませんわ。わたしの家は昔、島津家に仕え、禄米三千石を給わっていた武家の家系を引いているのです。もちろんわたしはそんな家柄などを重んじることは嫌いです。この文明の世に家柄など何にもなりません。しかし、父はまだ頑固一徹に家柄を重んじているのです』
『一週間ほど前でした。父にあなたとの結婚のことをうち明けたのです。すると父は-------、お怒りにならないで、断じて許さぬと言うのです。なぜだかおわかりと思います。わたしはそのことで一晩中父と口論しました。そしてついに父を説き伏せましたわ。それでわたし達は結ばれてよいはずでしたの。それなのに、父にはまだひとつ不満があるようでした。わたしはそう思っていませんのに、あなたにはわたしの家を背負っていくだけの力がない、ようなことを言うのです。父は剣道も柔道もしますし、体格も仁王様のように大男なので、普通の体格で立派な方であるあなたでも、自分と比較するものですから、貧弱に見えるのだと思うの。父は人なみ外れた勇気のある人を望んでるらしいのよ。おかしなことですわ』

不思議だった。彼女はそこまで言って急に顔を上げると、ぼくの顔をじっとみつめ、黙りこくってしまった。
そのとき、自分は、まるで 催眠術をかけられたように声がでなかった。なんという侮辱であり、忍従であったろう。
そして、ぼくの紅蓮(ぐれん)のように炎上している心にもかかわらず、彼女はそばの棚の上よりビロード張りの四角い美しい箱を持ってくると、そのふたをおもむろに開いた。
ああ、恐ろしいことだ。彼女が恐ろしい。何という女だ。その箱の中には一挺のピストルと弾丸が入ってるではないか。

彼女は言った。
『この拳銃は父が兵隊にいった記念にとこっそり持ち帰って隠しておいたものなのです。少し古いのですがまだ手入れをすれば使えます。あなたに以前にお話ししたように、わたしのおじはすごく冷酷な人間で、私達はずいぶんと苦しめられました。わたしも父も、もしおじがいなくなればどんなに幸せかと思っています。いつもそれで悩んでいるのです。冗談ですが、あなたに人が殺せて? あなたにそんな勇気があったら素晴らしいわ! 』

彼女はそう言って不気味に微笑んだ。
俺は美和子を愛している。そしていつも信じてる。しかし、人を殺すなんて。
アゝ、しかし俺はあのとき、ひったくるようにしてあの拳銃と弾とをポケットにねじ込んだ。 『殺してやる! 』
俺は叫びながら出口のドアーの方へ吹っ飛んでいった。そしてドアーのノブを握った瞬間、その右腕を後から美和子が捕らえた。そして顔を寄せ、激しく接吻してきた。
俺はぶるぶる震えながら美和子の身体を抱き寄せ、その唇を吸った。

そして、そのあとどうなったかわからない。真っ昼間のまぶしい地面の上を、無我夢中で走っていた。
アゝ、俺は一体これからどうしたらいいんだ。

そのあとの巻末の住所録を見ると、ただひとつ”安西美和子”という名とその札幌市内の住所が書いてあった。

(拾った日記帳 終わり)




1−2 苦 悶


札幌市内バック映像

(桜の季節の中島公園通り)

(札幌市電)

<札幌市電-中島公園通駅>

(第一章愛の疑惑)

2.苦 悶


情熱と解放とを与えてくれる夏も吹き抜ける突風とともに退去し、あとには深奥で美しい北海道の秋が到来する。

未開発な山野に生育する落葉樹の一帯と、年中緑の色彩に飾られ、季節の障壁を頑強に乗り越えてきた針葉樹林の群雄、それらが紅葉と緑葉の錦を織って素晴らしい自然の美を形成している。

今日も朝もやの街を電車がゴットンゴットンと走っている。車道わきに並立する桜の木の葉も、その身体の先端を蛙の舌のようにまるめ、そしてその葉上に光る露の玉をのせながら密かに落葉の宿命を待っている。後方に見える藻岩山も秋の凱旋を迎えるように、うつ然とそびえ立っている。
「この近くのお家で、きのう人が殺されたんだって。イヤねえ! 兄さんその犯人の顔見たっていうの本当なの?」

高志は出勤途中学校へ行く美智子と一緒だった。
「美智子、どうしてそんなこと知っている?」
「朝、母さんから聞いたのよ。兄さんがその犯人捕まえていたらすごいのになー」
「犯人はもう捕まったよ。それより美智子、もうすぐバレーの対抗戦あるんじゃないのか?」

高志は妹とはこの話題を避けたかった。
「そうよ、今月の末にあるわ!。今度は中衛のセッターやらされるの。難しい責任あるポジションだけどきっと勝ってみせるわ。」と妹ははしゃぎながらいった。

美智子は現在高校の3年で、運動部のバレー部員として活躍していた。
「就職の方は?」
「大丈夫よ、まだ心配ないわ! ああここから曲がるわ。今日も練習で帰り遅くなるわ」

美智子は活発な足取りで角を曲がった。

1人になってから高志は、湿った路上を歩いているうち、拭い落とすことのできないほど頭に鋭く刻示された昨晩の事件の場所にきていた。

彼はフト歩みをとめた。

高志の心はいま、ある人間にたいする同情のために深い苦衷を抱いていた。今朝、彼は早番の新聞を見て、昨晩拾った日記帳が何を意味するものか、昨晩の夜更けの事件がいかなる結末を招いたのか、すべてを連鎖的に知ることができた。

高志は頭上の残緑の木の葉に視線を転じてそれを1枚1枚数えていたが、何かを思いだしたように、うす茶色のスプリングのポケットに両手をつっこみ、頭を下げながら黙々と歩きだした。左側に大きな木造の建物があり、小さな子供達の話し声が聞こえてくる。小学校の建物なのか。


彼の心はいつの間にか複雑な迷路を彷徨(さまとい)はじめた。

何処だろう。わからない。焼け跡のような、折れた樹木がポツンポツンと立っている荒漠たる原野を背景に、ひとりの、軍服をまとった男が、胸を赤いもの(恐らく血であろう)で染めながら、焼けただれた1本の木によりかかっている。どこかで逢ったような気がしたが思い出せない。男は苦しそうに身体をくねらせ、眼だけが鋭くギョロギョロとこちらを睨んでいる。それは明らかに何かを訴えようとしている。高志はその場面をじっと目睹していたが、急に背筋を恐怖のようなものが走って、頭を左右に振った。するとその場面がスーット消えて、全く別の舞台風場面が現れた。

壁を境にして二つの部屋がある。両方の部屋とも洋風で、種々雑多な家財道具が並べてある。左側の部屋は暗く、陰気で、どこからか漏れてくる明かりに照らされ、正面の壁にかかったキリストはりつけの絵が不気味な恐懼(きょうく)を誘っている。左隅のベットに頭を向こうにして誰か眠っているようだ。音のしないイメージの世界なのにかすかな寝息が聞こえてくるような気がする。

右側の部屋は明るく中央に電灯がぶらさがって、ソファーが中央の壁によしかけてある。右の壁の小窓に赤い模様のカーテンが垂れている。

いましも、そのソファーのうえで若い男女が抱き合って接吻している。

夫婦なのか恋人同士なのか判然としない。ふたりは長い接吻のあと立ちあがって何やら口論をはじめた。男は両手を差しだして何かを拒んでいるようであり、女は何か男に教唆しているようである。しきりと言い争っていたが、そのうち男は何かを覚ったようにコックリと頭(かしら)を下げた。

そこに想像以上には、どんな会話があったのか分からない。激しく口を動かしているだけである。

気づかなかったが、彼らの足元に黒光りする拳銃が転がっている。

男はやがてゆっくりとその拳銃をとり上げた。そしてそれを右手に握ると、足音を忍ばせて隣室との境の扉へ近づいた。男は左手でノブをつかみ、扉をゆっくりと右へ開いた。床を照らす光の筋がだんだんと太くなり、それはやがて右端のベットまで広がっていった。男は恐るおそる部屋に入り、中の様子をうかがった。その顔は黒ずんだ彫刻のように、形相はとてもこの世のものとは思えない。

一歩いっぽ男はベットへ近づいてゆく。そしてその横に立った。ベットの上の人間は夢でも見ているのかピクリとも動かない。男の拳銃はその人間の胸のあたりの布団の上にかざされている。

1秒、2秒、3秒、数秒の時が流れた。

ためらいで硬張している男の横顔が浮きでて見える。ついに残忍な銃弾は罪のない人間の肉体を貫通したのか、男は急に走りだし、隣室に駆け込んだ。男はハッとして部屋の中央で立ち止まった。そこにはもう誰もいなかった。

手をダラリと下げ、髪をバラバラに、口を八文字に、男は眼はランランとして空間を眺めている。何かにとりつかれたよう。しかしその瞬間、その姿は飛鳥のごとく跳躍すると、開け放たれた右のドアーがら暗闇へと消えた。

その間被害者はどうなっていたのか。男が隣室へ消えると同時にフトンがムクッと動き、その動きが激しくなると、すぐにベットから大きな物体が床に転がり落ちた。そしてベットのそばに横たわり、それはそのまましばらく動かなかった。解放されたドアーからの光がその白い足裏を不気味に照らしている。

ほんのわずかな時間が流れた。それはフラフラと立ちあがると、2,3歩きだした。老体らしく髪の大部分が白髪であったがどことなく気品があった。胸の左側のパジャマが赤く染まっており、老人はその部分に両手を当てて非常に苦しそうにあえいでいたが、パタリともう一度倒れると、もう今度はピクリとも動かなかった。

老人が倒れてから1分もたたないうちに、その部屋の左側のドアーから2名の警官を含む数人の男女が部屋の中へなだれこんだ。そしてその妻と思われる老女が抱きつくように老人のそばへ走り寄った。

「ガー、ガー、ガー、--------、チンチンゴー」

そのとき、高志の鼻先を激しい音を立てて電車が横切った。

「あゝーーーーーー危ない」誰かが言った。

高志は激しくぶたれように後にのぞけって、路上に尻餅をついた。そして>夢からさめたように吾にかえった。幸いどこも痛みを感じなかった。

近くで数人の人がこちらを眺めている。

彼は素早くズボンの埃を落とすと歩道へ戻り、電車を待った。 

(苦 悶 終わり)



1−3 周囲の人々


札幌市内バック映像

(テレビ塔から植物園方向)

(第一章愛の疑惑)

3.周囲の人々


何千万もの人間が活動するあらゆる機関のなかで新聞社ほど複雑多岐にわたり、かつ時間的束縛を受ける職業はないであろう。そのためその内部で働く人々はいつも緊張と社会的矛盾に耐えてゆかなければならない。

高志はそういう環境のなかで働いている。

北報新聞とは札幌に本店と、北海道内に数個所の支店をもち、主として道内に発生する事件を取扱っている中規模の地方新聞である。その本店は市の中央部の大きな6階建てビルの4階以上を利用している。

高志は社会部に勤務し、隣から回ってくる記者の速記した文章を改作したり、改刪(かいさん)したりする仕事を担当していた。それは頭脳を酷使したが彼はそれほど苦痛も感じないですこぶるきれいにやってのけた。それはこの仕事に興味をもつと同時に、彼の内部にほの暗く文学的才能が焼炎していたからである。

原稿がかさむときなどその忙しさに頭がもうろうとして、思わず背後の窓から首をだして大きく溜息をもらすことさえあるが、現在ではこの過重な仕事を自分のものとして、むしろ楽しく思っている。小林局長、榊(さかき)部長も仕事には厳峻であるが、普段は温厚で人情味のある人たちなので、ともに尊敬している。机を左右に並べる人達も、新入社員の高志の面倒をよくみてくれるし、また記者達も安心して高志に記事をまかせている。

しかし今日の高志は自分でも解らないほど、まったく別人のようである。

汚く無秩序に書き散らかしてある記事をまとめる文字も異常に乱雑になっている。気が文面からすっかり離反している。
「ハイ、お茶。マア! ずいぶん原稿が溜まっちゃったわねえ。この原稿急がないと夕刊に間に合わなくなるわよ。」

机上の散乱している書類の間に茶碗を置いた雅子が、グレイとライトブルーの格子のスカートに、襟元から純白のジレーをのぞかせた紺のスカートという昨日と一変した服装で、いかにも誇らしげに溌剌(はつらつ)と高志の前に現れたが、彼はありきたりの骨董品でも眺めるように無頓着に頭を上げた。いつもなら彼女のその若々しい服装にたいして賞嘆の声を惜しまないのであるが-----。

雅子は不満そうに彼を見やってプリプリと不機嫌である。
「高志さん、あなた今日どうかしているわ!」

高志は構わず何かを一心に書き始めた。

雅子は愛くるしい目玉をクリクリさせてその様子を凝視していたが、何かをみてとったのか、
「あなた少しお顔の色が悪いようよ。お身体の具合でもお悪いんじゃなくって?」と、充分皮肉まじりに訊く。

高志はただ無言で頭を横に振る。
「ならいいんだけれど、あまり無理しないほうがいいわ!」
「雅ちゃん、今日はどうも頭の中がすっきりしないんだ。悪いけど構わんでください」
「そう、じゃこの原稿整理してあげるわ! 持って行くわね」

彼女は望月雅子といって高志とは同期に入社しており、格別美人とはいえないが何となく感じられる魅力の持ち主である。まだ学生気分 の抜けきらないせいでもあろうが快活で、きびきびとしていて、そのうえ非常に素直な性格である。局内に5人の女性が勤務しているが、その中で、忙殺されている多くの人の心を慰めてくれる女性として、蝶のように動き回っている。雅子はまた、高志にたいして特別の好意をよせており、あれこれと世話をやきにくる。


昼休みに高志は3階上の屋上へのぼった。

薄い射陽がコンクリ−ト面をまぶしく照らして、あちこちから明るい笑い声が聞こえてくる。右端でバレーに興じる男女の群。

彼は正面のコンクリートの硬い手すりに寄りかかりながら、視線を人並みで雑踏する地上から遠くビルの彼方へと移動していった。向かい側のビルの窓が雲母のようにキラキラ輝いている。高志の顔面にかすかな笑みが浮かんだ。
「あら、やはりここにいらっしたのね。どお、ーーーーやりません?」

背後から雅子が探しあぐねたように声をかけた。そして顔の前にバトミントンのラケットをさし出した。
「雅ちゃん、すまないが今日はやる気がしないんだ。こうやって空を見ているほうがいいんだ」と雅子の顔を淋しそうに見つめた。

遠くの紺碧の空に白雲がたなびいている。
「そう、じゃわたしもよそう。」と雅子は手すりの上にラケットをおくと一緒に並んで遠くの空を眺めた。」
「雅ちゃん、あなたは自然が好きですか?」
「女ってわりとセンチメンタルにできているのよ。自然は大好きだわ。私は小さいころ支笏湖々畔に住んでいたことあるの。短い期間だったけど、そのときのことが懐かしいわ。どこか遠くへ行ってみたい」

陽に照らした横顔があどけなく、可憐にしゃべる彼女を見ていると高志の心は不思議とさわやかになってくる。
「例えばどんなところ?」
「そうね------日本の自然もいいわ! 特にこの北海道の自然。壮大で、原始的で、そして美しい。素晴らしいわ!」
「海外では?」
「そうね、もし行けるとしたら-----アルプスのあるスイス、フランスか、カナダがいいわ! だけど高志さんはどうなの? さっきから聞き手ばかりに回っていられるけど」
「うん、そうだな。南極の氷の上かアマゾンの奥地を逍遙してみたいな。だが、どうせ実現不可能ことなんだから、せめてこの雄大な北海道の自然を満喫したいな」
「あなたも北海道がお好きなのね。」
「好きだよ。そんなに長くは住んでいないけど」
「以前はどこにいらっしたの?」
「子供のころ満州。日本じゃないんだ」
「そう、知らなかった。満州ってどんなところ? 住みやすいところ? 」
「いや、よいところじゃなかった。中国哈爾浜(はるぴん)より少し北の北安(ぺいあん)という町で、土地も肥え生活には困らなかったが、寒さが厳しく、それと間近にソ連軍が迫ってきて、日本に帰ってくるのに命がけだった」
「あなたのお母さんてえらい方なんでしょう。女手ひとつであなた方を養育されてこられたんだから」と、ある程度情報を知ってる雅子はいった。
「うん、感謝してる」と、なぜかぶっきらぼう。

そこでふたりのあいだに暫し沈黙が続いた。天高く馬肥ゆるの秋の風がそよそよと吹いて、雅子の前髪をひらひらと揺らせた。手前の道を二つ挟んだ高いビルの屋上からスルスルとアドバルーンが上がりはじめた。
「高志さん、今度どこか景色のいいところへ連れって」と、雅子は嬉しそうに言った。
「いいなあ、探して一緒にどこかへ行こうか! うんと自然が美しく、雄大なところ」と、あまり深く考えずに答えた。
「わあ、嬉しいわ! 約束よ、さあゲンマイ」

雅子は嬉しくてたまらないように快活にいうと、手摺りの上の高志の右手のそばに自分の小指を持ってきた。

高志はその白くしなやかな小指に自分の小指を絡ませ、彼女をみながら少し微笑んだ。

雅子の頬が一瞬赤くなった。ポッと赤らみ、また目玉をクリクリさせてまぶしそうに高志を見た。彼もまた少し赤くなっていた。 ふたりがこんな感情を交わしたことはいまだかってなかったことである。

雅子は恥じらいながらその小指をそっと引っ込めると、照れ隠しに、
「もうすっかり秋になったわね」

高志は手摺りから身をのり出すようにして、
「こうやって下を見ていると面白いものだね。人の動きが手にとるように見える。あゝ、あのお婆さんよそ見をしていると危ないなあ!  車道へはみ出しそうだよ。雅ちゃん、あのビルの右端から左端までの間で、1人の人間、どんな人でもよいから、その動作を観察してみると結構面白いことがわかるよ」
「そうね、現代のコペルニクスっていうところね」
「こうやっている僕らだって、今誰かに見られているかもしれない」

そう言われてひやりとした雅子はまわりを見やったが近くにはもう誰もいなかった。
「いつまでこんないい天気が続くのかなあ」と高志はいう。
「もう時間だわ、下へ降りましょう」

雅子に促されて高志は一緒に暗い階段を降りていった。そして階段を下りきって編集室のドアーを開けようとしたとき、
「柳沼君、柳沼君。」と声をかける者がある。振り返ると、
「ちょっと頼みたいことがあるんだ。こっちへ来てくれ。ああ、望月さんも一緒に」
と榊部長が急ぎ足で近づいてきた。そしてせわしげにドアーを開けて奥の自分の机の前へ連れていった。
「このカメラ、フラッシュガン、それとこの書類、これらを今中央署にいってる桜井君に届けて欲しいんだ。今すぐ至急頼む。私用で直行したもんだから、肝心なものもっとらんのだ」
「分かりました。それだけですね」
「あゝ、それとついでに記事も持ってきてくれ。君たちの今やっている仕事は他のものに頼むからいいよ」と部長は答えた。

(周囲の人々 終わり)



1−4 公開尋問


札幌市内バック映像

(昭和34年当時の札幌中央警察署---撮影は平成7年のもの)

(この後平成10年に昔のイメージを残し改築された)

(第一章愛の疑惑)

4.公開尋問


二人は社を出た。高志はカメラを肩に掛け風呂敷包みのフラッシュガンを手にぶら下げ、雅子は書類の分厚い束を紙袋に入れて抱えている。中央警察署は北1条通りの歩いて20分ほどのところにあり、何度も来たことのある高志には勝手がわかっていた。警察につくと二人は階段を上ってすぐの記者室と書いた部屋のドアーを開けた。
「やあ! 」

いきなり部屋の奥から大きな声がとんできた。5,6人の男達にまじってタバコをふかしていた桜井記者が長椅子から立ち上がった。
「部長から頼まれました」
「柳沼君に望月さん、待っていたよ。ありがとう」近寄ってきて少し笑いながらいう。
「今日は何があるんですか? 忙しそうですね」
「君は知らなかったのかい。例の老人殺害事件の一件さ」

桜井記者は高志からカメラを受けとるとそれにフラッシュガンをセットしながらいう。
「ああ! あの中島公園で起きた」
「犯人とみられる容疑者の動機と、拳銃の入手経路をいま捜査中だ。彼が犯人であることも、単独犯であることもほぼ確定的だね。まだ逮捕はしていないが」

50歳を少し過ぎた、老練な桜井記者の話を憮然と聞いていた高志は、背筋を冷たいものが走るのを覚えた。

そのとき、雅子が横から口を挟んだ。
「人殺しなんていやねえ! 罪のないお年寄りを殺すなんて最高の罪悪よ。野蛮だわ!」
「ところが 望月さん、この男はぜんぜん悪人らしくないんだよ。不思議だね。朴直で博学なんだ。大学出ときている。」
「彼はいまどこにいるんです。」と高志は呑み込むように訊いた。
「捜査課にいるよ。写真を撮るものがあってこれから行くところがある。なんなら君たちもくるかね? あ、それと望月さん、資料はそのまま持ってきて。」

二人は急ぎ足で出て行く彼の後を追う。
桜井記者は人声で騒々しい部屋を通り越してその隣の鑑識課と名札のかかった部屋に入っていった。

かなり広い部屋の奥の方で4、5人が机に向かっており、そのまわりには訳の分からぬ器具や試験管などがところ狭しとおいてある。 桜井記者は「お願いします」と一言いうと勝手知った我が家のように、スタスタと手前のテーブルへ向かって歩いていった。畳2枚ほどの大きさのテーブル上に白い布が敷いてあり、そこにどす黒い一丁の拳銃と三発の銃弾がおかれていた。
「こいつの写真をとるんだ。賊の凶器がこれなんだ。」と桜井記者はカメラを拳銃に近づけてフラッシュをたいた。
「ずいぶん古いものですね。銃身が錆びてしまっている。」と高志はがいうと
「恐らく戦時中のものだろうね。タマもどちらも古いものだ。」
といって桜井記者がタバコを口にくわえたとき、廊下が急に騒がしくなって荒々しくドアーが開き、ふたりの刑事に両腕をとられた1人の男が入ってきた。その後にはさらに2名の警官。

高志は、両腕をとられた男が我々のいるテーブルのそばへ歩みよってくるまで、寸秒もその姿から視線を離さなかった。

男の顔は青白かった。まるで猟師に狙われた兎のように絶えずためらい、恐れ、そして自分をすっかり萎縮してしまっているようで、わずかな物の動きにさえ身体をピクリと震わせた。紺の薄汚れた背広、そこから出る神経質な顔、左手首に包帯、なんと惨めな様子をしているのだろう。みな、恐らく、果たしてこんな脆弱な男にあの凶悪な殺人を犯すことができたのか? という疑問が沸いたであろう。

男、橋本行雄は高志の正面に立っている。今から何が始まろうというのか。


「記者のみなさん、写真を撮らないでください。また、ここでのことについて絶対に記事にしないように。--------いいですね、桜井さん!」

突然、右側のボスらしい男が橋本の腕をつかみながら言った。

左の桜井記者は急いで加えていたタバコをポケットに戻すと、重いカメラをテーブルの左端にそっと置き、納得したように頭を縦に振ってうなずいた。右の雅子も胸に抱えてた紙袋をテーブルの上に置いた。

廻りを見渡しても記者は我々3人しかいない。高志は思った。第三者の面前で被疑者の人相を暴露し、さらにそこで尋問まで始めようとしているようだ。警察の常識からいってありえないことである。きっとそれは桜井記者が非常に老練で、この署内での信用が高いために、警察が許したのだろうと推測した。ただ、何か納得しないものがあった。

刑事の尋問が始まった。
「きみはこの拳銃をどこで手に入れたね?」
と橋本の右隣の刑事が尋ねた。

橋本はいくぶんおどおどしている。
「外人から--------」
「外人とはどこの国の人間か?」
「たぶんアメリカ人だと--------はっきりわかりません」
「いつごろ、どこで手に入れた?」
「今月の------二十日(はつか)ごろ-------真駒内で------」
「わざわざ真駒内まで行ったのか? 相手は軍人だな。」

彼は弱々しく首を縦に振った。

すると突然左側の刑事が、橋本の右腕をゆすりながら。
「ウソを言え! これは外国製に似ているが戦前、日本軍が使ったものだ。なんで真駒内のアメリカ兵などが持っているものか。正直に言え! 」ときびしく叫んだ。

橋本は無言だった。

高志はこの一問一答を聞きながら舌打ちせざるをえなかった。

----何とおかしな奴なんだ 何で隠すんだろう 安西美和子という女に渡されたといえばそれまでなのに。

尋問は続いた。右の刑事が訊いた。
「本当に---、どこからもってきた、盗んだのか?」
「------------------」
「言わないなら、---いい。どうせ調べればわかるから。ではこっちのタマはどこから手に入れた? 」とポケットから出した白いハンカチで拳銃のタマをつまみながら訊いた。
「市内の火薬店から------」と橋本は答える。

左の刑事
「またウソをいう。拳銃のタマは市販されていない。なぜそう、きみは偽りを言うのか。なぜ正直に言えないのだ。」とかなり怒っている

そのとき、それに応えるように橋本は、
「拳銃と一緒に手に入れました」と小声で言った。

高志のひとみは、橋本を見つめながら不気味に輝いている。

----畜生、あ奴、また口からでまかせを言っている。お前の秘密の一切はこのおれの手中にあるのだ。いくら生半可なウソで他人をだまそうとしても、この俺だけはには通じないのだ。それに、まもなく、お前の秘密を全部ぶちまけてやる。その方がお前にとって嬉しいはずなんだが。だが不思議でならない。どうしてお前はそう事実を隠そうとするのだ。お前が正直に白状すれば、事件は簡単に解決するし、それにお前自身の刑もずっと軽くなるはずなんだが。

右の刑事の尋問はなおも続く。
「きみはこの弾丸を何発使ったか?」
「2発まで撃ったのは覚えています。あとはほとんど夢中で何発撃ったのか、何をしたのかまったく記憶にありません。」といくぶんはっきりした声で応えた。

左の刑事はいつの間にか後の警官に橋本の腕をまかせて手帳に何か書き込んでいる。
「自分では最初何発タマを拳銃につめたのか?」
「6発です」
「はじめに言った拳銃の入手日、今月20日に間違いはないか?」
「-------------」

拳銃の入手についてはあまり触れようとはしない。
「拳銃の操作はどうやておぼえた?」
「自分で研究して-----」
「犯行のために拳銃を入手したのか?」

橋本はしばらく考えていたが、
「最初は何気なく-----」
「何気なく、それからどうした?」
「殺すとき手元にあったから----」

橋本の顔にあわ粒大の汗がにじみ出ていた。


刑事の口は実に巧みに橋本の心理を見抜こうとしており、この拳銃から何かの事実をひき引き出そうとしているようであった。
「人を殺すのにこんな音のするものを使わなくても、、ほかにたくさん凶器があったろう。たとえば刃物などが--------。」

と刑事の質問に出会ったとき、彼の顔面は激しい苦痛にゆがんだ。
高志は、-----そらどうだ、答えられまい。そこでお前は安西美和子に渡されたピストルだからそれを使った、と白状するんだな。暴露するさ------と思った。
「拳銃を使った方が簡単に殺せると思って」
と答えたが、刑事はその曖昧さを見逃さなかった。
「拳銃の音を聞いて家の者や警官がくる。刃物だって急所をつけば簡単に死ぬ。拳銃を使うことなんて滅多にないことだ。なぜ使った? 」
「無我夢中で、無意識にそばにあったものをつかんで外に出たんです。あとから気づいて手を見るとピストルを握ってた。本当に知らなかった」

彼はさも自分の行為が精神喪失中に行われたかのことを誇張するかのように両手を固く握りしめて、それを胸の位置にもっていき、肩で息をつきながら言った。

だがその言動がさも真実のように思えたが、先に言った彼の言葉と照合してみるとその矛盾が瞭然たるものであることは、誰の目にもはっきり分かっていた。

刑事の尋問は鋭かった。
「さっきは拳銃のタマを6発つめたと言ったろう。タマを詰めるだけの余裕があったのではないのか?」
「前の日にいたずらに詰めておいたのです」
「では少し前に、拳銃を使った方が簡単に殺せると思った、と答えたのはどういう意味か?」
「そ、そう言いましたか? 本当にそう言いましたか? いや、ぼくはそう言いました、確かに。ぼくは------そう考えてピストルを手に入れたんだ。一時はこれでやろうと思った。しかし、あとから考えてみると、刑事さんの言うようにこれは音がする。だからぼくは-----短刀を買おうと思った。短刀なら音がしない。本当なら今日短刀を買って、今日殺すはずだったんだ。----------ああ、だんだんボクの頭はあっきりしてきた。

そうだ! おれは今日やるはずだったんだ! だのにおれは昨日(きのう)やっちまった。なぜだろう、わからない。なぜきのうやっちまったのか? 刑事さん!ウソじゃない。これはウソじゃない! 」

彼は魔物につかれたように喜んだり、沈んだり、悲しんだりしながら喋ると、そこで右側の刑事の方へ両手を伸ばした。

みなその猪突な行為に驚いて少々ざわめいた。

右の刑事は橋本の差し出した両手を優しくつかんでおろすと、肉親のような親しみを込めて、
「わかった、わかった。君の言うことは分かった。そういう訳だったのかい。君は知らないうちに人を殺していたんだね。そうだね、誰にでもそういう過ちはあるもんだよ。君はいま、心が乱れているんだ。落ちつかなきゃあいけない」と言った。

橋本はやがて顔面に笑みを浮かべて下を向いた。

右側の刑事が静かに訊いた。
「拳銃をどこで手に入れたかも思い出せないかね。教えて欲しいんだが」

すると橋本はしばらく言うことをためらっていたが、急に乱れた言葉づかいで、
「言います。いいます。はっきり言います、隠しません。盗んだんです。盗んだものです。すいません」

だが、「どこから盗んだね?」という質問にたいしては顔を曇らせ、容易に言いだそうとはしなかった。

そんな様子を見ている高志には小気味がよかった。

最初のうちは精神脆弱者のように臆病に振る舞っていた橋本が、尋問が進むにつれて除々に自己を取り戻し、今まで 刑事の尋問にたいして終始狼狽して不体裁を演じていたのに、急に、まるで道化師のように巧みな話術と素振りによって、刑事および周囲の人々の心を翻弄しはじめた。これは驚くべきことであった。しかし、高志からすれば、ここにいたって窮地に追い込まれた橋本が、いよいよ安西美和子という名を口にしなければならなくなったことを思うと、苦労して追い回した小雀をやっと捕らえた鷹のように快い気持ちであった。


刑事の再度の質問にも首うなだれていた橋本は深い思慮のなかに閉ざされていたが、ついに、
「安西という家から盗みました。」と答えた。

高志は心の中で笑った。
------ついに喋っちまったぞ。それでもう女の罪は確定したようなものだ。お前の罪は軽くなった。心が晴ればれとしたろう。嬉しかろう。

しかし、 「どこにあるある? その家は? 」
「市内北4条です」
「いつ盗んだ? 」
「今月の二十日」という問答のあと、
「なぜにこの家から盗んだことをそれほどまでに隠そうとしたのか? 」という質問にたいして発せられた応答に、高志は激しい憤りを感じた。

後の警官が持ってきたコップの水をうまそうに飲み干した橋本は、ひどく興奮しながら語り始めた。
「自分から述べるのはおかしいでしょうが、ぼくとその家のお嬢さんとは大分前から恋仲でした。ぼくがある日、彼女の家を訪問したとき、彼女はぼくに、家にピストルがあることと、そのあり場所を教えてくれました。それで、そのピストルを盗んだのです。前にぼくは、刑事さんにピストルの出場所をきかれたとき、それに正直に答えようとするなら、彼女の名、お嬢さんの名を出さねばならない。ぼくを信じてくれるのは彼女ひとりなんだ。その彼女のの名を-----この汚れたぼくが口にするのは、真珠に泥を被せるように不潔なことだ! それに、ぼくの名と彼女の名を連ねて新聞に発表するなんて、とても罪深いことだ。お嬢さんは大変よい人なんだ。今も泣いて悲しんでいることだろう。もしぼくが監獄に入ったとしても、彼女は毎日差し入れに来てくれる。このぼくにとっては、彼女との愛が純粋でであってくれさえすれば、それで嬉しい。その純粋の愛を、彼女の名をこのぼくの名と一緒にこの世にだすことによって壊したくない。新聞記者のみなさん! 頼むからお嬢さんの名を新聞に載せないで下さい! 」

シーンと誰も口を開こうとしない。みなが感嘆し、この悲劇の主人公に無限の同情を寄せている。はじめてここに、彼にたいする一切の疑いが解消されたかに思えた。

しかし高志のみは、橋本の話に驚異を感じながらも、なおも疑い、信じようとしなかった。事実を知ってしまっている高志にとって橋本の名演技も功を奏しないのである。それでいて、高志は激しい熱情的なものをに襲われていた。不信の気持ちと交差して、胸に厚くこみ上げてくるものをやっとの思いでこらえていた。

しかし、その抑制にも急に耐えられなくなって突然激しく叫んだ。
「ウソだ! きみは美和子にだまされてるんだ! 」

ハッと思ったときにはすでに遅かった。周囲の眼が一斉に高志を見た。刑事や警官は、お前は何者だ、というような顔をしてこちらを見ている。

高志はそれらの視線は恐れなかったが、何よりも辛かったのは、みなの中央にいる橋本がその蒼白な顔をこちらに向けて、高志に哀願するかのように眼を細めて見つめている姿に直面したことである。思わずタジタジとなり、大声をあげた意気込みは吹き飛んでしまった。

橋本の視線を避けるように後を向いたが、そのまま逃げるようにその場を離れ、手前のドアーを荒々しく開けると廊下へ飛び出した。 そして少し右へ行って向かい側の両開きになっている窓を外側へ開いて、そこから外へ首を出した。弾丸乱れ飛ぶ戦場からはい出してきた将兵のような興奮した気持ちである。誰も追ってはこなかった。

窓下の車の騒音は聞こえるが、あの部屋の迫力にくらべればそれは静寂といってもよいほどの刺激である。わずかに入るそよ風が彼の頬をなぜてゆく。騒音のなかの静寂、高志の目には遠くにかすんで見える山々と、白雲が映じている。

-----自然はなんとすがすがしいのだろう。人間とは何と惨めな存在だろう。あのとき、橋本が自分に向けた視線は彼の心情をそのまま表現している。あの悲しそうな目をみたとき、美和子にたいする憎しみも、橋本にたいする不信の念もすっかり消えてしまった。彼の日記から、美和子の策略を露骨にはかり知ることができたが、いま、橋本から印象づけられた彼女は実に気高いばかりであった。美和子とはどんな女なのか? 日記の断片にしか現れてこない美和子ではなく、現実の美和子に逢ってみたいものだ。きっと素晴らしい女性だろう。

最後まで残って尋問を聞いていた雅子は、尋問が終わるとすぐに廊下に飛び出してきて、そこに考え深げに立っている高志を見た。
「急にいなくなったと思ったらこんなところにいらっしたのね。なぜ急に抜け出たの?」

振り向いた彼が言った。 「気分が悪くなったから涼みにきたのさ。尋問はどうでした? 」
「面白かったわ。だけどあまりいい気持ちはしないものね。かわいそうになってきて------」
「あんな極悪人でもかわいそうに思いますか? 」
「もちろんよ! どんな悪人でも犯罪を離れた個人としてみたら同情もわいてくるわ! それにあの人は憎めない人よ!」

興奮気味の雅子へ
「あなたもそう思いますか。」
「誰が見たってあんな純情そうな人を殺人犯とは思わないわ! 」
「その彼がどうして人を殺したのだろう? 」
「わたしには解らないわ。だけど何か特別の理由がありそうね」
とそのとき、後のドアーが開いて人々がドヤドヤと出てきた。

そのなかのひとりと、パッと振り向いた高志の視線とがガッチリとぶつかった。それは橋本だ。彼はちょっと歩みを止めると、あのときと同じ視線で高志を見つめだした。そのとき、高志の脳裏に、咄嗟にあるひらめきが走った。

高志は優しい眼差しをつくろい彼へ向かって軽く会釈をした。すると彼はニコッと笑い、頭を縦に振った。そしてすぐに刑事に小突かれ、後ろ姿を見せながらどこかの部屋へ消えていった。
「どうなさっとの? あなた今、おかしな素振りをして」

雅子の観察眼は鋭かった。
「いや、何でもないんだ。チョット錯覚をしていた。それより雅ちゃん、早く社へ帰ろう。夕刊に記事が間に合わない」

その狼狽は雅子の注意を引いた。
「なにをおっしゃってるの? これから桜井さんから記事をもらって------、それからこの資料も渡さなくっちゃ! 」 といって、雅子は書類袋を抱えて桜井記者の後を追いかけようと振り向いた瞬間、小走りで通り過ぎようとした、制服を着た職員の女性と接触した。

「アーッ!」という雅子の叫びと同時に書類袋の中身が床に散乱した。

一冊の分厚い本とそれを覆い隠すように沢山の新聞の切り抜きが散らばっている。高志はすぐに腰をかがめて資料をていねいに拾うと、雅子から袋を受取りそのなかにキチンとそれらを収めた。本には「札幌市史」と書いてあった。新聞の切り抜きは古いものが多く、事件や行事に関するものであった。そして、ふと袋の表面を見ると、右上に「柏原刑事 殿」と書いてある。

高志は桜井記者がこの警察署にとって非常に大切な人物である、ということを心にさとりながら、雅子と一緒にその桜井記者の後を追った。

(公開尋問 終わり)




1−5 わたしにはわからない


(第一章愛の疑惑)

5.わたしにはわからない


「電車で帰ろうか? 」
「わたしはいいわ、近いから。それに歩くの嫌いじゃないの」

すっかり暗くなった札幌の街を高志と雅子が並んで歩いている。仕事が忙しくて少し遅く退社した二人である。

雅子の家は街の中心にあり、高志の家とは逆の方角であるが、高志は途中まで送っていくことにした。何となく二人の気持ちがそうさせたのかもしれない。

ただ、高志にはひとつの計画、これから美和子の家を訪問してみようという考えがあったので、雅子の家が美和子の家の方角に近いという便宜さもあった。
「高志さん、わたしはあなたにお訊きしたいことがあるの」と雅子は歩きながら言った。
「何ですか?------- いやにあらたまって」高志はけげんそうに問い返す。
「お昼の、警察でのことなんですが、 ーーーーーーーあなたに解らないことがあったので」
「どういうことですか? 」
「あなたは、あの橋本という人に大声で何かを言ったわね。そのことについて-------」雅子は遠慮がちに応えた。

今までこのことについて何も触れなかったので気にしていないのかと思っていたが、彼女はやはり心に銘記された疑問を抱いていたのである。
高志は胸中を突かれた思いで驚きはしたが、すぐに知らぬ振りをした。
「ぼくは何か言いましたか?------記憶にありませんが」

高志は、いくらか雅子と距離をおいて歩いており、訊きただす雅子の言葉に困惑したように下を向いていた、
「あなたとしては大変重要なことと思うんですが、ーーーーー朝からのあなたの様子がいつもとぜんぜん変わっていられるので、きっと何かの悩みごとが起きたのではないかと思っていたのです。このことと関係があるんでしたらわたしもご相談に応じてよろしいかと------」
「それとこれとは全く関係ありません」

不機嫌に答えた。事実はまったく雅子のいう通りなのである。
「そう、何か他にあったのね」

雅子は納得しかねた気持ちで言う。

高志にとってここで事情のすべてを話すことができるであろうか。雅子には心を許してはいるが、今回のことはじっと胸に秘めておいた方がよいと思った。また、あの橋本の真剣な哀願のひとみを裏切ることはできなかった。人の生死にかかわることだった。
「わたしはあなたの性格をよく知ってるわ。普段何もないときは、あなたって大変ほがらかに振る舞うわ。だけど、一度何か悩み事を持つと、陰気になってひとりで悩むのよ! 急に無口になるわ。今もあなたは無口よ。いつもならもっとお口が軽いわ! 」
「雅ちゃんがそれほどぼくを観察しているとは驚いた。あるいはあなたの言う通りかもしれない。自分でもそう思うことがあるから----。しかし少なくともあなただけにはぼくの胸中をいつも解放してきたつもりだ」
「ええ、-------だけど、------今度のあなたは話そうとしないわ」
「そりゃ、------人にはどうしても他人に話せないことがあるよ、どんなに親しくても」
「そう? -------そうなの。わたしには話せないお話しなのね」

雅子は不機嫌に言う。
「わたしはやはり、あなたの悩みはあの殺人事件と何かかかわりがあると思うわ。あなたは否定されたけど-----」

と追求の色を見せた。

雅子の濃いグリーンのスプリングが薄暗い中にくっきりと浮き上がって見える。 高志は並んで歩く雅子の顔を覗き見るように、
「それはきみの思い違いだよ! なんでぼくが殺人事件なんかと」と大声で興奮しながら弁解する。
「あなたがいくら否定されてもわたくしにはどうしてもそうとしか、思われません。あなたはご自分を偽ろうとしているのよ」鋭い言葉がほとばしった。
「そうですか、そうまで言うんだったらそれはあなたの勝手です。どうなりと思って下さい」捨て鉢に言う。

雅子は何も言わない。

自動車が2台勢いよく右を通過した。早じまいの商店の格子戸がカラカラと閉まった。

ふたりは互いに無言でふたつほど角を曲がった。私邸の多い所で、松の垣根が半町ほど続いている。人通りもほとんどなかった。 ふたりは肩をよせ合ってはいるが 心中は互いに相手を洞察しようと火花を散らしている。
「美和子さんってどんなかたですの?」雅子が急に口を開いた。

その質問は高志が警察で叫んだ女の名前にたいしての嫉妬ともとれたし、単なる詮索ともとれた。どちらにせよ、高志を耐え難い困却へと陥れた。
「美和子なんて女はまったく知らない。あなたは恐らく、ぼくが警察で言った女のことをいっているんだと思うが-------本当に知らないんだ。誤解しないで欲しい」とひどく筋の通らない弁解をした。
「誤解なんてしてませんわ」しばらく間をおいて、
「でも、まったく知らない人の名前を口から出せるはずもありませんわね。そうじゃなくって?」2の矢を放つ。
「あなたは一体何を訊き出そうとするんだ!」と抱きかかえるようにして雅子の顔を見すえる。
「もし、あなたがあの事件のことで悩んでいられるなら、大変大きな問題を抱えていると思いますの。わたしにはとてもじっと、あなたがひとりで悩んでいるのを見てられませんわ。少しでもご相談にと-------」
「ぼくにはそれがかえって迷惑なんだ」
「あなたが迷惑なのはわたしに知られては困ることあるからなのね。わたしはその困ることをお訊きしたいの。警察であなたは殺人犯に、橋本さんとかいいましたわね、その人に何か大声で言いましたが、わたしは、なぜあなたがあのようなことをされたのか腑に落ちませんの。あの事件は全くあなたには無関係なのに-------。それに、橋本とか言う人は、あなたの言葉にひどく怯えていたわ! よほどあの人にとっては重大な意味があったのではないかと思うの。あなたはそれを知っていて言ったんだわ。まだるわ! あなたの、その橋本さんが部屋から出てきたときの、目つきとか、わたしがそのことについて尋ねたときの狼狽振りは異常だったわ。わたしはあれから色々考えてみたんですけど、どうしても解らなかったので------。高志さん、あなたは何かを知っていられるわ。どうして知っているのか不思議なんですが」

雅子は口を閉じた。別段強いて高志から回答を求めようとはしなかった。自分の思っていることをきれいに言い尽くしてしまっただけで満足しているようである。暫く沈黙が続いた。

雅子は実によく高志の挙動を観察していた。高志にとっては予期しなかった攻撃であったが、しかし同時に、何か有効な理由を見つけだす必要に迫られた。これ以上雅子の不信感を助長させるわけにはいかなかった。

高志は別段よい知恵も浮かばないまま、とりとめもなく話し始めた。
「雅ちゃん、驚いた。すまない、頭を下げるよ。今となってはぼくがどんなに弁解しても、あなたは同じ質問をぶつけてくるでしょう。当然のことかもしれない。実のところ、ぼくはあなたのいう通り隠してることがあるんだから。それをあなたに話してもよい。雅ちゃんがそれほどまでにぼくのことを心配してくれるなら------- しかし、今は話せない。どうしても今は話せないことなんだ。分かってもらえるだろうか」

高志は弱り果てたように雅子の横顔を見た。雅子は無言で前方を見たまま。

いつの間にかあたりが賑やかになった。交差点で歩みを止め、青信号で横断歩道を渡った。大きなデパートの前を左に 折れた。

高志は話しを続けた。廻りの騒音を気にしてか、右側の雅子の腕をつかんでときどき彼女の顔を横からのぞき込むようにする。
「もう少し時がたってからならいいんですが-------あなたがもう気づいている通り問題が非常に重大なので------もしぼくが話したことが警察の耳に入ったとなると、ぼくは一生悩みと通すかもしれない。もちろん、問題はあの殺人事件に関係のあることなんですが------あなたが不信を抱くと困るので話しますが、全くぼくはあの事件には関係はない。ただ、あの事件の裏にあるちょっとしたカラクリを耳にしただけなんだ。ぼくさえ今黙っていれば平穏に解決すると思う。雅ちゃん、ぼくは、ただ黙っていればいいんで、本当は何もないんだ。時がたつにつれ自然と消滅してしまうことだよ。あしたからまたいつものぼくにかえる。言わないでも許してもらえるだろう? あなたには必ずそのうち話す。時間の問題なんだ。ぼくはいま、秘密を人に話すことは------どんな相手にだって話すことは恐ろしんだ」

高志は哀願するように言った。そして廻りに人が多くなったのに気づくと、
「雅ちゃん、いまのぼくの話だって、他人に聞かれると困るんだ。」と恐るおそるつぶやいた。

そこはもう大通り公園だった。





 Copyright t-hayashi 2007  登録 9/24/2007