基督降誕祭(クリスマス)殺人事件



 いまでは日本でもなくてはならないお祭りになったクリスマス。街を歩けばイルミネー
ションが輝き、店ではクリスマスセール。ホテルでは下心ミエミエの男が女を連れ込み、
家に帰ればクリスマスケーキとご馳走が待っている、という風景はここ五十年、すなわち
第二次世界大戦後のことなのである。しかし、クリスマスという行事自体は、日本が開国
した幕末の頃から一部の人間は知っていたであろう。ものの本によると明治(『サクラ大戦』
でいうところの『明冶』)二十一年、すなわち一八八八年にはクリスマスカードが輸入され
ていた、というから、十九世紀の末にはクリスマス、というのが結構一般庶民にも知れ渡
っていたのかもしれない(あくまでも憶測)。
 ましてや帝國歌劇團・花組にはフランス人のアイリスとロシア出身のハーフ、マリア・
タチバナ、そして神崎財閥御令嬢・神崎すみれがいる。さらに花組の面々は知らないこと
だが、藤枝あやめがクリスチャンである。クリスマスに関して知らないというほうが無理
があるだろう。
 さて、事件は太正12年も押し迫った12月に始まったのである。
   *
 太正12年12月24日、朝。
 大帝國劇場・帝劇のサロンはいつもと変わらぬ朝を迎えた。
「やあ、おはよう。すみれくん」
「あら少尉。おはようございます」
 大神一郎とすみれが挨拶を交わす。
「……そういえば今日だね」
「そうですわね。大高さんの家でクリスマスパアティが開かれますのは」
「確か大高財閥、って神崎重工の主要取引先のひとつだよね?」
「ええ。わたくしたち帝國歌劇團の大ファンでもありますの」
「そういえば年間予約席を持ってたよね」
「その通りですわ。ですからわたくしたちをクリスマスパアティに招待したのですわよ」 
と、サロンにもう一人やってきた。
「お兄ちゃん、すみれ。おはよー」
 アイリスが二人に挨拶をする。
「やあアイリス。おはよう」
「ねえ、今日だよね。パアティがあるのって」
「そうよ。今日の舞台が跳ねたらわたくしの部屋にいらっしゃい。お化粧をしてあげるわ
よ」
「うん」
 アイリスはサロンを離れた。その後ろ姿を見送るすみれ。
「…トップスタアのわたくしを差し置いてご夫婦でアイリスのファン、というのがちょっ
と気に入りませんけどね」
 大高夫妻はアイリスのファンだったのだ。そこでパアティに招待したのはすみれとアイ
リス、そして大神の三人だったのである。
「アイリスに嫉妬したって仕方ないだろ」
「ま、それもそうですわね。相手は子供ですもの」
「…ところでパアティは何時からだい?」
「確か六時からだと伺ってますわ。今日の舞台は昼からの一回だけですから十分に準備の
時間は取れると思いますけど…」
「そうか。じゃオレもできるだけ自分の回りのことを早く終わらせて準備しておくよ」
「そうですわね。四時半には迎えの車がこちらに来ることになってますので」
「わかったよ。…じゃすみれくん。朝食にするか」
「そうですわね」
 そして大神とすみれは下に降りていった。
    *
 十二月ともなると陽があっという間に暮れてしまい、四時半ともなれば辺りはもう暗く
なっている。
 当時は今ほどクリスマスだからといって飾り付けはされてないし、町内も「雨は夜更け
すぎに」だの「ビルの影を蒼く映した」と言ったクリスマスの定番ソングも流れていなか
った。しかしやはり帝都はどことなく華やかな雰囲気である。
 そんな中、一台の蒸気自動車が街を走っていた。
 アイリスが車の中からその様子をじっと見ていた。
「……ねえアイリス」
「何? お兄ちゃん」
「やっぱりフランスのクリスマスは華やかなのかい?」
「アイリス、あまり覚えてないな…」
「…そういえば、そうだったな…」
 大神はアイリスがフランスに住んでいた頃あまり外に出たことが無かったのを思い出し
た。今更ながらアイリスだって普通の女の子と同じような生活がしたかったのかもしれな
い、と思うとなんとなく胸が痛くなってくる。
    *
「大高さま、御世話になっておりますわ」
 すみれが大高財閥総帥、大高源三郎に挨拶をする。
「これはこれはすみれ様。…さあ、こちらへどうぞ」
 そして3人は邸内へと入っていった

 さすがに財閥の総帥の家、と言う事もあってか、室内では赤々と暖炉が燃えており、テ
エブルの上には食器が既に置かれていた。
「…ほら、久子。神崎さんの所のすみれさんたちだ」
「…お待ちしておりましたわ」
 大高源三郎の妻である大高久子が挨拶をした。
「ささ、お座りになってください」
 大高氏に言われ、3人は着席した。
 大高氏は執事を呼ぶと、シャンパンを運んでこさせ、自分と大高夫人、大神に注がせる。
 すみれとアイリスは当然のことながらまだ未成年だから、サイダーを注いでもらい、大
高氏の音頭でまずは乾杯をする。
 やがて、メイドが料理を運んで来た。
 どうやら料理は一つの大皿に持ってあり、めいめいで取り分ける形になっているようだ。
唯一違うのは鍋に入ったスープだったが、それはメイドが皿に取り分け、各々の前に置
いている。
 海軍士官学校というのは結構ハイカラな所で、食事の時にはライスカレーやカツレツと
いった洋食が出ることが多いのだが、盛り付けは大抵食事班がやっていたから、こういっ
ためいめいで洋食(和食は言うまでもなく何度もしているが)を取り分ける、ということ
など大神はほとんど経験が無かった。

「旦那様、葡萄酒はいかがでしょうか?」
 その脇で執事の男が大高氏に聞いた。
「ああ、持って来てくれ。…所で大神さん、と言いましたっけ?」
「…なんでしょうか?」
「どうですか? あなたも葡萄酒を飲みませんか?」
「あ…それでは頂きます」
 そして執事が葡萄酒の入った瓶を持ってきた。
 コルクを開けると、その瓶を両手で持ち、まずは大神に注ぐ。
 大神のグラスにワインを注ぎ終えると、注ぎ口を手にした布で拭く。
 次に大高氏に、そして大高夫人に注いだ。
 よほどの綺麗好きなんだろうか、、二人に注いだときにも執事は注ぎ口を手にした布で拭
いていた。                                                                                                                                                                                                                                                                         
 大神は注がれたそれに軽く口を浸けた。

 食事は進み、クリスマスケーキと紅茶をメイドが運んできた。
 これまたメイドが切って各々に渡す。
 アイリスは紅茶に砂糖を入れた。なんだかんだ言ってもアイリスは子供なのだろうか、
砂糖を3杯も入れている。
 すみれは一緒に運ばれてきた檸檬を紅茶に浮かべた。
 大神はそのまま紅茶を飲んだ。ケーキも滅多に食べる事が無いからか、中々の味だった。
   *
「…そういうことですの。お祖父様も年が明けたら一度お会いしたい、と申しておりまし
たわ」
「そうですか。その際はよろしくお願いします」
 終始和やかに食事は進んでいた。
 そして彼らの目の前で驚くべきことが起こった。
「うっ…」
 大高源三郎が苦しみだしたかと思うと、椅子から転げ落ち、倒れてしまったのだ。
「大高さん!」
 すみれが慌てて駆け寄る。
「…お兄ちゃん…」
 アイリスもどうしていいかわからずに、大神にしがみ付いている。
「すみれ君、医者を呼ぶんだ!」
「承知いたしましたわ」
   *
「…残念ながら大高さんは先ほどお亡くなりになられました。原因はまだわかりませんが、
どうやら毒物を飲まされ、その中毒死のようですな」
 警察がやってきて現場検証が始まったのはそれから1時間程してのことだった。
「…すると、皆さんが食べた食べ物の中のどれかに毒物があった、と言うことですね?」
「…はい、恐らくそういうことになると思います」
 大高夫人は目の前で夫の身に起こった事がよほどショックだったのか、椅子に座ったま
まである。その脇にすみれが寄り添っていた。
 一方のアイリスは、といえばあれからずっと大神のそばを離れようとしない。
 大神も最初は大分頭の中が混乱していたが、さすがに今は落ち着いたのか、頭の中で目
の前で起きた事件の事を考える余裕が出てきた。
(確かに毒殺だとしたら食べ物の中に毒が入っていたと考えるのが自然だな)
 そう思うと、事件が起きたままの状態で残っているテエブルの上の料理を見る。
(…しかし、料理はみんな大皿に盛ってあったのをめいめいで取っている。…となると、
途中で運ばれてきたスープか? …いや、スープはオレたちの目の前でメイドが取り分け
ている。となると葡萄酒? …いや、葡萄酒はオレや大高夫人も飲んでいる。となるとデ
ザアトのケーキか? それとも紅茶か? それも違う。ケーキはみんなの前でメイドが切
っているし、大体どのようにして切るか、なんてわかるはずが無い。それじゃ、紅茶に毒
を入れたのか? 砂糖や檸檬に毒を入れたか? 違う。オレは紅茶に何も入れないで飲ん
だし、アイリスは砂糖を、すみれくんは檸檬を入れて飲んだ。どれかに仕込んであったら
オレたちの誰かがやられてるはずだ…)
「駄目だ、どうしても解からない…」
大神は思わず頭を掻いてしまう。
「…どうしたの、お兄ちゃん?」
「…ん? いや、何でもない。心配しなくていいよ、アイリス」
 大神はアイリスに言った。
(何故だ? 何故みんなが同じものを食べているというのに大高氏だけが死んだんだ? 
毒殺とすれば一番自然なのは何かに毒を入れて食べさせる事だけなのだが…)
 大神はもう一度テエブルを覗いた。
 その脇に空になったシャンパンや葡萄酒の瓶が置いてある。
(…待てよ、そういえば…)
大神は葡萄酒の瓶を取る。
そしてそれをじっと見る。
(…あの時葡萄酒を注いだのは…。でも、どうやって…)
 大神はあの時の状況を思い出していた。
(待てよ。あの時のしぐさはもしかしたら…)
 大神は目の前の霧が少しずつ晴れていく気がしてきた。

「…どうやら葡萄酒の入ったグラスから毒物が検出されたようですね」
 鑑識が言った。
「…奥さん、葡萄酒を飲んだのは?」
「…私と主人とそこにいる大神さんです。…葡萄酒は執事が注いだんですが…」
「…となると、怪しいのはあなたと言う事になる」
 刑事が執事に言った。
「…な、何で私が…」
「恐らくあなたは葡萄酒に毒を仕込んだんだ。それを大高さんに飲ませた…」
「刑事さん、冗談も程ほどにしてくださいよ。もし葡萄酒に毒が入っていたら奥様や大神
さんも死んでしまうはずじゃないですか」
「…ですからまず最初に大高さんの飲んだ葡萄酒に毒を入れた…」
「待って下さい。私が最初に葡萄酒を注いだのはそこの大神さん、と言う方ですよ。その
次に旦那様、そして最後に奥様に注いだんですよ。何で二番目に注いだ旦那様だけを殺す
ことが出来るんですか? …それとも葡萄酒やグラスに毒が入ってましたか?」
「…どうなんだ?」
「…葡萄酒の瓶の中にもグラスにも毒物は検出されませんでした。…大高氏の飲んだ葡萄
酒の中にだけ毒があったことになりますね」
 鑑識課員が言った。
「…そうでしょう? 私が犯人だとしたらどうやって毒を入れることが出来るんです
か?」
「…それが出来るんですよ」
 いきなり大神が口を開いた。
「…なんだと?」
「いえ、思いついたんですよ。その執事さんが大高さんのグラスにだけ毒を入れることが
出来る方法を」
「方法?」
「…すみれ君。悪いけど脱脂綿と、それから鉢かなんかに水を入れて用意してくれない
か?」
「…承知いたしましたわ」

 やがてすみれが大神の持ってきたものを用意して戻ってきた。
 大神は空になっている葡萄酒の瓶を取り出した。
「わかりやすくするためにこれには何も入ってませんが、これを我々が飲んだ葡萄酒だと
します。そして…」
 大神は脱脂綿を水に浸した。
「…これを毒液の滲みた脱脂綿だとします。まず、右手で葡萄酒の瓶を、左手にこの毒液
が滲みた脱脂綿を持ちます。そして…」
 大神は両手で瓶を持つとグラスに瓶の注ぎ口を傾けた。
「まず、自分のグラスに注ぐ時には左手は添える程度にして、毒液の入った脱脂綿を潰さ
ないようにして注ぎます」
 瓶からは何も出てこなかった。
「…その次、大高さんのグラスに注ぐ時、これが大切です。その時は脱脂綿を持った左手
を押し付けるようにして注ぎ口から毒液が一緒に流れるようにする…」
 そういうと大神は瓶を持つと、傾けた。
「……」
 見ると大神の言うとおり、注ぎ口から少しずつ水がこぼれてきて、グラスの中に入った
のだ。
「…そして最後は自分の時と同じようにして、脱脂綿を潰さないように――あるいはさり
げなく隠してしまう、と言う方法もありますが――すれば、大高さんのグラスの中にのみ
毒を仕込む事が出来る、と言うわけです。…執事さん、あなたは確か我々に葡萄酒を注ぐ
たびに瓶の注ぎ口を拭いてませんでしたか?」
「…それがどうかしましたか?」
「…あれは瓶の口に付いていた毒液を拭いていたんでしょう? でも、大高さんの時のみ
拭いていたのでは怪しまれてしまうから、注ぐたびに拭いて、そういう事をする人なんだ、
ということを印象付けようとしたんじゃありませんか?」
「う…」
 執事はうつむいてしまった。…やがて、
「…そうですよ、あなたの言うとおりですよ」
   *
「…なんか、幻滅してしまいましたわ」
「どうしたんだい、すみれ君?」
「…だって、あの大高さんが執事さんのことを苛めていたなんて…。それに耐え切れなく
なってあんな事をしよう、なんて思うなんて…」
「…まあ、執事には執事の苦労、って言うものがあるんだろうね」
「…そうですわね。わたくしもこれからは気をつけなくては…」
「…すみれだったら5、6回殺されてんじゃないの?」
 アイリスが呟いた。
「アイリス、何か言いまして?」
「いーや、何にも言ってないよ」
「まあまあ、とにかく帝劇に帰ろう。…そういえば明日、花組のみんなでパアティやるん
じゃなかったか? アイリス楽しみにしてたじゃないか」
「そうだったね」
 そして3人は帰途に着いた。

<おわり>


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