静について
「静」 のうちにあずける時、 そこに「聖」なる癒しの力があらわれる。 「静」は「生」で
あり、 「清」であり、「聖」であり、生かしであり、 清めである。  
絶対安静療法などのことを 言っているのではない。 心がただ委せきりになって、全托の
心境に万事を委ねるのである。   絶対安静療法などと言って身体を安静にしていても
心が「静」になりきらない者は、 「静」の生かす力を受ける事はできないのである。
我の力による力みを 捨てる事。
静かに 静かに 、自分が委せきりになっているかどうか。 無理はないか、焦りはないか
ひたすら歓びのみある心持に落ち着ける時 、 活動していても、 活動していなくても
「静」の力を受ける事ができるのである。
             (全托) ・・・・すべてをゆだねまかせきる 
雑念というもの 実は心を平和にして精神統一をする働きがあるのです。 空の雲というものは
一見、空を曇らしているように見えますけれども、雲というものは本当は空を綺麗に澄みきらす
働きをするものなのです。 雲が起こるので空気中の水分や塵埃が綺麗にさえられて雨となって
取り去られるのです。 雲が起こらなければ空気中の水分や塵埃はなかなか急には取り去られない
そうすると雲と言うのは空を曇らす働きをするようでありますけれども、本当は、空を清める
働きをしていることが解るでしょう。
それと同じように、雑念妄想というものは心を曇らす働きをしているように、見えますけれども
雑念妄想が起こるので、過去から蓄積されていた心の塵が表面に浮かび出て心がいっそう
速やかに澄んでくるのです。
雑念とはなんぞや、といいますと、過去から無意識圏内に蓄積されていたところのいろいろの
妄念迷想が消えんがために意識の表面に浮かびだしてくることなのです。
だから、 最初は 「気功 ヨガ 神想観 瞑想など」 をすればするほど雑念が浮かんでくる。
その雑念を仮に第一の雑念と名づけますと、第一の雑念は迷いの消えんがための雑念なので
ありますから、そのままでよいのです。その雑念に引っかかって、「これではどうもならぬ」と言う
念を起こすと「第二の雑念」 を新たに起こす事になります。
第一の雑念は宿念の集積の自然に戻れる働きとして起こるのですから、業を浄める働き
であって、善いばかりで悪い働きはないのですが、「第二の雑念」は新たに心が引っかかって
生ずるものでありますから、 これは新たに流転する業因を作ることになるのです。
だから、「気功 ヨガ 神想観 瞑想など」中起こる雑念は起こるがままでよい。
雑念の起こるのは、 雲が起こってやがて空気を澄みきらす働きとなるように、やがていっそう
心を透明に澄みきらすためであると信じ、雑念は雑念で、それに心を引っかからせないで
放置して、 受け流す事です。
雑念 について
無極     無極・気の一元論
古代中国の哲人たちの 宇宙観 と自然観によれば、 人間や万物が現れる前の、
まだ天と地にさえ分けられていなかった時期の、 宇宙の最も原始的な状態は混沌たる 「気」の
統合体でした。  つまり、当初の宇宙は「気」の状態でした。 その「気」の中には後に天地と人類を
も含む自然万象を生み出し、 それを生成、 発展させるための総ての成因と要素が含まれていたが
いまだに何の形も形成されておらず ( 勿論名称も概念もあり得ない) ただ混沌たる統合体を
成していた。  こういう状態を老子が「無極」 と形容したのです。

やがて、その「気」の内の、 澄んでいて軽いものが上に浮かんで天ができ、 濁っていて重いものが
下の降りて 凝り固まって地ができた。 その後、天と地の気より 陰と陽の二気ができ、陰陽二気
から いわゆる四象、 「五行」が生じ 、 その千差万別な組み合わせ、 変化、結合によって
自然万象が 生成されました。  人間は陰陽二気の最も優れた部分が最も優れた状態で結合した
結果できたものである、 と昔の人は考えました。

後に この「気」を、この我々には 見えない 聞こえない 捕らえようもない、感知することも出来ない
けれども、 万象の生みの親である 原始的な「気」を 「空気」 という概念の気と区別するために
時々 「原気」 「元気」 「根源的な気」 等の言い方で表すことになります。
「太極 」の 状態 とは
「太極」は 無極より生ずる、もので、しかも 動と静の機であり、 陰と陽の母である  ので、太極の段階
においては まだ動も静も陰も陽も生まれていない、現れていない、ということになります。即ち 太極は
混沌とした 「原気」(無極)の中にすでに「動く」という「機」(つまり動因、趨勢、動こうとする傾向、
動き出したいという意念) が生じているだけで、 或いはその条件と準備ができているだけで、しかし、まだ何ら具体的な「動」の(従って静の、陰の 陽の)現象も「動」の形も現れていない状態です。
つまり 太極は 動と静 陰と陽とを はらんでいる母体のような状態だ、 ということになります。

{太極拳論}の 第二句によりますと 、 動すれば即ち分かれ 、静すれば即ち合う  ですから
太極の状態は、動と静 陰と陽の両者が、お互いに作用し(反対し 闘争し)ながらも、 当分はまだ
分かれていない統合体を成している状態です。 言い換えれば 両者のバランスが まだ取れている
状態です。  即ち こういう状態自身は 常に変化し始めよう、運動し始めよう という趨勢を持っては
いますが、  同時にまた常に、バランスの取れた状態を保とう、 それに復帰しよう という趨勢を
持っています。
気功 修練の段階
一  だれでももってる 三つの宝  「精・気・神」

体が だるくて元気がない。 しかし、 病院にいって 検査してもらったら「異常なし」 という
診断結果が出てくる。  こうしたことを 経験した人は けっして少なくないであろう。
これは病院の検査に間違いがあったのだろうか、  それとも自分の感覚がおかしいのであろうか
実は、 病院の検査も間違いないし、  患者の自覚症状も確かに存在する。  
その間のギャップは、 まさに西洋医学の方法論の一つの限界を 示しているのである。
近代解剖学や 細胞学などの基礎の上に成立した西洋医学は、 人間を一つの精密機械の
ようなものと考えている。   ちょうど一台の高級車のようなもので、  検査は車検と同じく
どこかの部品が壊れたら、 新しい部品に取り替えればよしとする。  
もし車のどこにも故障がなければ、 以上なしと診断されるのである。  

しかし、 たとえ故障なしの車でも、 必ずしも正常に道路を走れるとは限らない。
車は構造だけでなく、 その機能も正常でなければならないのである。  構造が正常だというのは
車を構成する さまざまな部品に故障がない ということであり、 機能が正常だと言うのは、
車がしっかりと道路を走れて、 人や物を運べることである。

一台に車が正常に機能するためには、 構造の面で故障なしと言う事は もちろん必要な基礎条件
であるが、  これだけでは足りない、 少なくとも燃料がないと動かない。 また、 ガソリンが
満タンになっても、 運転手がいなければ機能しない。  西洋医学は、 構造重視の医学とも
いわれているが、  気功や東洋医学は機能の面を重視している。

気功または東洋医学の観点から見れば、  人間は知識や富とは関係なく、  誰でも生まれつき
三つの宝を持っている。  それは 「精 ・ 気 ・ 神」 である。

ここで言う 「精」は、  生命を構成する基礎的な精微物質である。  西洋医学の言う筋肉や
血管 骨 内臓 神経 脳細胞などはすべて「精」の範囲に属している。  車の事を例にしてみると
車体やタイヤ、エンジン、 ネジ、 などの部品にあたる。 

そして 「気」と言うのは 生命の活動を維持するために、 欠けてはならない生的エネルギーである。
ちょうど車のガソリンや電力系統のようなものに相当する。 

最後に、生身の人間として なによりも  「神」 が存在している。 この神は 私たちの精神・意識活動
のことである。  この神こそが人間の生命活動を主宰するものである。

やはり車を例にとると、 神は運転手にあたるものだ。  運転手がちゃんと運転する技術を持ち
かつ頭がはっきりしていて酔ってないことが、 車を機能させる最も重要な条件である。

現在の病院の検査は だいたい 「精」 のレベルに限られており、 「気」と「神」のレベルには
及ばない。

車検と同じく、 車に付いての点検は行うが、 運転手の頭のおかしいかどうかなどは 車検では
調べられない。  人間は一つひとつの部品から組み立てられたものではなく、 この部分の
総和から新たな性質が 生まれてくるのである。  生き生きしている人間と言うのは、「精・気・神」
を高度に統一して、  機能している生命体でなければならない。  

もちろん、 現代医学が重視している部品そのものも 決して無視してはならない。
現在日本で形式化された座禅は、  精と気の様な物質レベルの存在を ほぼ無視して
精神レベルの 「神」のみを重視している。 ところで、 車がなければ 運転手の養成は
到底出来ない

三つの宝の相互関係を見ると、 精は物質 (色)しきであり、 神は精神 (空)くうである。
そして、 気は 物質と精神、  または色と空の間の仲介者の様なものである。
もし、 座標軸で表示するとすれば、 物質(色)の世界をプラス軸として、 精神(空)の世界を
マイナス軸とすれば、 気はちょうど ゼロに位置している。

それでは、 気功の修行にとって、 精・気・神 をいかに鍛えていくのか。
伝統の気功の 修練は、 およそ次のような五つの 段階がある。


  第一段階   「築基 ・ 補漏」    (〔精」)  百日築気 約2400時間
        
(体の機能を 修復し 体調を整えます)

  第二段階   「練精化気」             十月懐胎 約7200時間
      
(精を 生体エネルギーの 気 に変え 精と気を一体化する)

  第三段階   「練気化神」             三年哺乳 約26280時間
   
    (精気を 人間の自己制御の意識 生命の脳である 神 と合わせ 全面的な
                  バランスが コントロールできる 高度な段階)


  第四段階   「練神返虚」             九年面壁 約78840時間
     
   (すべては 空・虚 に入り 円・明 となって元に帰り 悟りを得た状態)

  第五段階   「練虚合道」             

伝統の気功用語で表現すれば  この五段階は 「精を練って気となし、気を練って神となし、
神を練って虚に返り、 虚を練って道に合う」  という。








           元神 と 識神


元伸と識神の両端の間に、いくつもの中間(中継)レベルの意識層がある。 西洋の心理学的な用語
を借りて表現すれば、 潜在意識 無意識などである。 次によりわかりやすくするために
 モデル図を 示す   

これはピラミッドの形である。 縦軸は時間軸であり、 上る方向は順時間運動の方向、たとえば
誕生→成長→成熟→老化→死亡の過程は、 一種の順時間の運動と考えられる。

地球の発生→発展→成熟→滅亡の過程も同様に, 一種の順時間運動である。
下がる方向は逆時間運動である。 私たちの過去への回想、 児童時代への懐かしさ、
地球環境や動物の保護、 気功練習を通して 先天の気が再び蓄積される事による身体や

精神状態の若返り (逆もどし)・・・・・・・  これらはすべて逆の時間運動の表現である。
横軸は 空間の広さを示す空間軸、 もちろん、この空間は平面の空間ではなく、
時間要素も含めての多次元的な 立体空間である。















































そのピラミッドの頂点に立つのは識神であり、  その底辺にあるのは元神である。
その中間には 潜在意識があるが そして、元神に近いのは 無意識レベルであり、
その 無意識の究極の所、 すなわち自己意識のない「空」の状態に元神が 存在している。

反対に、元神空間の幅はもっとも広い。 このレベルは自己意識のないレベルである。
あらゆる人間の「意識」に通じている。 人間と動物・植物の 「意識」に通じている。

現在・過去・未来・に通じている。 時間の空間に通じている。 より正確にいえば、
自分と他人、 人間と動物・植物、 生命体と非生命体を区別する意識がない。現在と過去と未来の
区別がない。  時間と空間の区別がない。 精神と物質の区別さえもない。
     すべてのものは 同じである。

これの広さは、 宇宙の広さと同じである。 そのために元神は 宇宙意識ともいえる。
そして、 識神と元神は一つの円でまとめられて、 対極しながら互いに依存し合って、
宇宙の陰陽の均衝を表している。

この境界は気功の高度な段階で 初めて体験できる。













    すべてのものには プラス と マイナスがある

わたしたちは 常によいものを探しているが、 絶対的に良いものは この世に
存在しない。   すべてのものが プラスとマイナス、 表と裏、 正と反 陰と陽 の
 両面をもっているのである。

日本語の 「忘れる」と言う言葉は 中国語で「忘記」という。 日本語の場合、「忘れる」
は ただの忘れるだけであるが、 中国語の場合「忘れる」と同時に「記憶」の要素も
含めている。

確かに、 なにも忘れなければ なにも覚えない。 必要のない古いものを忘れる事が
新しいものを覚える前提条件となっているわけである。 だから、「忘れる」もただ単に
悪い事ではなく それと同時に覚える意味も入っている。

また、「捨てる」は中国語で「捨得」 という、 同じく「捨てる」は 捨てるだけでなく、
「得る」の条件にもなる。   人に利を与えないで自分だけ儲かる商売は 長く続く
はずがない。

社会は常に良い商品の開発に力を注いでいる。 しかし、 いくらよいものでも 、
必ず その反面をもっていることを 忘れてはならない。

苦と楽 正と反 左と右 捨てると得る  忘れると覚える ないし 精神と物質などは
みんな一つのものの分割できない両面である。 それを切り離そうとする すべての
努力は 無駄な事である。
















































          気 

気は 生命の源であり、  体内の五臓六腑の全体とつながり、
体の内外を 統一させ、 全身の運動変化を促し、  生命の存在と発展を 維持してます。

気が不足し、 気の運行が不順になると、 機能は低下し、病気になります。
さらに、気が散乱すれば 死という不幸な結果にもなります。

気は  「衛気」 「栄気」 「真気」 に分けられ、 それぞれ特徴があります。

「衛気」は 人体を防衛する働きをもっています。 その中心は下丹田 
     衛気は意識に支配され、 意識的に コントロールする事も出来ます。


「栄気」は 経路の中を流れ、中丹田と密接な関係にあります。 経路の中を運行し
     一定の規律で全身の機能を正常化しているので 意識で勝手に調整してはいけません。

「真気」は 人間の元の気、生命力の気です。 人間の最も貴重な生体エネルギーであり、
       体のあらゆる部分に存在し、 各細胞とそれぞれの気の中にも浸透しており、
     体の一切を 統一します。  感じる事はできるが形がなく、  意識的に探す事はできません。

     真気の存在は 高度の入静状態で感じられ、 真気が現れるときは、 言葉で説明できない
    ほどの 充実感と満足感があります。  

    また、 この感じは、 意識すると、すぐ消えてしまうもので、 養う事は出来ますが 
    練ることができないものでもあります。












































     無極静功 で言う 静 とは (穏やかな意識の働き)
 
「意識」は 精神力を養う入静状態でなくてはなりません。
入静状態とは、 ぼんやりとした状態ではありません。 「静」とは 雑念を払い、外部に向ける
意識の働き、 つまり、 「心」を自分の体内でコントロールさせる 意識の働きである。「意」に

転化させて 精神の集中力を高める事です。  

これは、 「静」と「動」の高度なバランスで、 「静」の中に 「動」があり、 「動」の中に「静」が
ある 状態です。  自分の体をすべて把握することができ、 全面的なバランスと調整を
行う事が出来ます。

「静」の程度を深めれば深めるほど、内気は活発になり、形の調整も細かくでき、
自己の コントロールも出来ます。
「無極静功」の 「静」とは 、このことです。

練功する時、 「静」に注意すると、 精神の集中力が高まり、 
「円」 「松」 「展」 「合」の 四要訣が 調整できるようになり、 高度のバランスが
 とれるようになります。













太極拳系統図