茜染め染色家/田中ゆきひと

「制作工程」の一部


椿の生木を燃やして媒染用の灰を作る。
   
 
灰汁に何回も漬けては干す事を繰り返して下染めをする。
     
 
左が日本茜、右が西洋茜。
     
 
茜根を煮出して染め液を取る。
     
 
更紗模様を付けて布を茜の染め液に漬ける。
     
 
熟成させては染める事を数ヶ月かけて繰り返す。
     
 
茜の染め液に漬けては干す事を繰り返す。
     
 
手彫りの木版で模様を付ける。(左上は、彫る前の木)
     
 
蝋で防染する。
     
 
黒更紗を染める。




植物で物を染めるという事は?


二十代後半に古渡り更紗の一片の布きれに出会い、日本の染色には無い、色調とデザインに魅せられて、何とかこれと同じものを染めてみたいと思うようになり、当時は友禅染めをしていましたので、酸性染料を使って何度も試し染をしてみましたが、化学染料では絶対に出せない赤が有り、試行錯誤の繰り返しの中、当時ブームになりかけていた(草木染め)という染色の存在を知ったのです、それからはその専門書を買いあさり、数十種類の植物の試し染を繰り返したのですが、そこそこの色が出せるのですが、( ンッ 何処かが違うぞ!)という疑問にぶつかってしまうのです、それがなんなのかは見えてこない時期が有りました。
そこで博物館などの古い衣装が保存されている所を廻り、まずは先人の染めた物をじっくりと見るところから出直したのです。
博物館には歴然と数百年の時を経てもなお、昨日染めたような美しさを保っている染色品がいっぱい残されている戦国時代の鎧、兜の組みひもの色などは全部が植物染料で染められていて、戦場の風雨にさらされていたはずなのに組みひもの色が今もなお美しく残っているのは何なのか?これが一番先に疑問として私の中で広がっていったのです。そんな頃ある著名な染色家の作品展を見に行ったのですが、(草木染めの色は儚いから良いのよ・・・)と作者がお客様に話しているのを聞いて、絶対にそれはおかしい!と思ったのです。
草木染と言う安易な言葉でブームになって、薬草染め、ハーブ染め、花びら染めなどなど・・・言葉遊びが先行して、如何にもそれが新しい発見のようにもてはやされたブームが続き、ある部分では植物で染める事を私物化した人達も現れて、先人が確立して数千年の時を経て伝承されて来た大切な技がそれによって軽薄なものに変わってしまったのです。
他の様々な事でも同じですが、次から次へとブームで移行して粗悪品が氾濫しては消えて行ってしまう。こんなに物事を単なるブームに振り回されて大切なものを経済行為先行にしてしまう国は他にはないでしょう、しっかりと文化として捉え、根づかせて守る事をしてこなかった結果ブームは消えて後には何も残らずに又消えていってしまったものがどれだけ有ったでしょう。
(手でしかできない物を機械で作る愚かさ!機械でも出来るものを手で作る愚かさ)ということばが有りますが、私の経験では、植物で染めたものは、絶対化学染料では出せない色があり、又、私が見て歩いた博物館の所蔵品は化学染料では絶対何百年も美しさを保つ事は出来ないと思います。
したがって、化学染料でも出せる色、ましては数年で色あせてしまうようでは、何も苦労をして植物で染めなくても簡単に化学染料で染める事が出来るのです。
植物で染めたからこその色に染まらないと意味が無い訳ですね。又、もうひとつには自然界だけで作るから天然染色であって、薬品を介在した段階でそれは化学染色になってしまうのです。これには環境問題も有るのですが、草木染めのブームの最中には、ハウツーと言われる出版物がいっぱい出回り、塩基性の薬品を媒染に使った染色法が氾濫して、みんな媒染に使った薬品を何のためらいも無く捨ててきたのです。
70年代のアメリカの科学者でレイチェルカーソンの(沈黙の春)という本には、塩基性の薬品が地球を汚染して(いずれアメリカは春になっても虫も鳴かない、鳥もさえずらない、サイレント・スプリング)と書いています。この事も先に言いました様に、なにも劇物扱いしている薬品を使ってまで植物で染めなくても化学染料で充分美しいものが出来るはずです。
植物で染めたから必ずしも良いものと言う訳ではないのです。人間が数千年の時を経て続けて来たものは改良と種分けをしてきたはずです。(良く染まる) (美しい) (堅牢である)この三つの条件を満たしたものを染料植物として種分して、自然界の中だけで作り出してきたものが植物染色として確立されてきたはずです。染まりにくいものを無理をして染めようとするから、薬品を介在しなくてはいけなくなってしまうのです。

東北の食文化にエゾニョウ(ニョウサク)という山菜が有ります。これは生で食すと毒が有るのですが、春採って塩漬けにして置くと冬には毒が抜けて、美味しい食材になる。又、ヌキウチ(エゾハリ茸)と言うキノコもそのまま食べると硬くてアクが強く、お腹を壊すのですが味噌漬けにして置くとアクが抜けて柔らかくなり珍味として昔から幻のキノコとして珍重されてきた。先人は初めにその食材に出会ったときは毒のまま食べてしまい命を落としたかも知れない。でもその後に塩漬けにしたら毒成分が抜けて食べられる事を発見して行くのです。
工芸の素材もそのとおりで永い時間の中で多くの犠牲を払って選別して来たのです。漆などは初めて使った人は全身かぶれた事でしょう。しかしそれでも諦めずに漆の良さを求めて永い(何百年、何千年)時間をかけて、物にしてきたのです。 結局、今私たちがしている仕事は、先人が数百、数千年かけて確立してきた技の謎解きで有って、ブームの中で一律なデータでハウツーと言うようには簡単に出来るものでは有りません。染める素材が変わっただけでデータはまったく違ってきます。先人の成したものに何処まで迫れるかと言う事と、どれだけの経験で素材の違いに合わせて技を使い分けられるかが天職としての課題ではないでしょうか。

下の写真は私が22年前に染めた茜染め更紗ですが、私の初期の頃の作品で永い間手元に置き、延べ日数で数百日、展示で照明を当てた後に妻がステージで何回もスポットライトを浴びながら着たものです。10年前にあまりにステージで汚れたので、昔の方法で張り板に張ってマルセル石鹸を使って、タワシでゴシゴシ洗い張りをし、仕立て直して着てますが、未だに色は褪せていません。染めた22年前よりも遙かに色が冴えて美しく発色しています。
博物館に残るものに匹敵するかどうかは私が死んでしまった後でなければ答えは見えませんが、少なくとも今の段階で私は自信を持っていえるのは、草木染めは色が弱いと言う事は間違いです。
先人の謎解きをして学んだ染をしたものは、科学に勝ちます。前にも言いましたが植物染色の歴史は、いったん化学染料に押されて消えてしまったものを、もう一度謎解きをする仕事ですので、これで正解と言うことはないのですが今日まで私がして来た事の過程で感じた事を書いてみました。

 

私たちのHPのリンクの中にある(順子の着物大好き)橋順子さんが、私の個展を見に来て頂いた時の感想をご自身のHPにお書きになった文章をご了解頂いてここにご紹介します。


染色家 田中ゆきひとさんの個展

個展の会場である銀座4丁目の「ギャラリーおかりや」のエレベーターを降りた途端、思わず「わ〜〜っ!」と声をあげてしまいました。そこは圧倒されるような茜色の世界、古渡更紗の赤を追い求めて、自然の染料と媒染だけの染色をつづける田中ゆきひとさんの世界が目の前にありました。
茜の赤、やまももの芥子色、茜にロッグウッドを重ねた独特の深みのある黒、たった3色だけ、しかも模様は手製の版木の更紗模様だけなのに、素人目にも本物だけがもつ迫力を感じました。
茜の赤の中に、やまももの芥子色が、光線の加減で黄金色に輝きます。それだけ染料が糸深くまで浸透しているのです。茜の赤と深い黒の対照もすてきです。素朴な玉糸紬の地に茜色と更紗模様の黒を配した帯に思わず見とれてしまいました。 ほんとうにすばらしいものを見せていただき、ありがとうございました。
作品を見せていただいた後、田中さんと奥様と、染色のこと、着物のこと、日本の文化のこと、その他いろいろおしゃべりして、気が付いたら4時間以上も話し込んでしまいました。いろいろ勉強になったし、考えさせられるお話で、楽しかったです。
お話をうかがって、着物文化の問題にとどまらず、根本的には、日本人の近代化のあり方、砕いて言えば、何を得て、何を捨ててきたかが、やはりどこか大きく間違っていたのではないかと、改めて思いました。
それに気が付いている人は、そこそこ増えてきていると思うのですが、あまりにも遅すぎたというか、出来上がってしまった巨大で醜悪なものを突き崩す術がないというのが現状なのだと思います。
田舎育ちのはずの私も、何時の間にか都会暮らしの時間の方が長くなってしまいました。しかも、東京という大都市の中でも一番非自然的な街である夜の新宿で女になった私は、何時の間にか自然の大切さを忘れていたように思います。それを思い出させてくれたのが、着物との縁でした。
蚕という生き物が作る糸、それを自然の草や木で染めて織る、そうした昔からの営みを支えてきた自然環境が、いまどんどん失われつつあることに、やっと気が付きました。違う言い方をすれば、私が子供のころに見た「織物の里」の景色が何時の間にか失われていたのです。単なる郷愁からではなく、もっと大事なものの存在を、田中さんの染めた真っ赤な布は教えてくれたように思います。
正直な話、田中さんにも私にも、もうそんなにたくさんの時間は残されていないわけで、できる範囲で何を後世に伝えるか、それに時間を使うしかないのかなと思いました。
これからも、どうか、人の心を打つ色を染めていっていただきたいと思います。

(三橋 順子 2003年9月記。2004年5月改稿)