目の前の男の唇が動くのを眺めながら、急激に駆り立てられていく自分を感じた。しかしその一方で。ピクリと動いた左拳の甲の筋が可笑しくて堪らない私がいる。骨ばった色気のない私の手に相応しい表情だ。
この双方向の視点こそが、私たちを今の私たちたるものにしたと思わないか? 憎憎しいこの面にそう問うてやりたかったけれどしなかった。尚も男の唇は動き続ける。
『だから、アイツが嫌いとかそういうんじゃないんなら、友達でもいいから側に居てやれよ』
『それは残酷なだけだろう? 私がアイツの望む形で、アイツを想うことはないんだから』
『それでもいいんだ。それだって、一緒に居られるなら良いんだ』
『私もアイツも。あった言葉をなかったことには出来ない。もう、友達には戻れない』
『そうだろう。けれど、それだけで割り切れるものじゃないだろう』
この男の唇は、私を苛立たせるためだけに動いているようだ。
もう散々繰り返された台詞は細部を変え、倒置をなし、グルグルと迷宮を描いていく。迷宮。それは惑わすためのものではない。何時だってそれは怪しくおぞましいものを封じるためのものだった。
馬鹿げている。何が封印だ。お互い手の内はとうに読まれているじゃないか。ジョーカーなど、すでに存在しなくなっているのと同じだ。
あまりに腹が立って、それがやはり滑稽で。この男が哀れに思えたから、もう終わりにしないか、という直接的な台詞を選んでやった。勿論、この迷宮ではそれは違うかたちを纏う。
「何故彼がそう思ってると? 聞いた? それとも男ってみんなそう思うもの?」
中心を一気に切り崩されて瓦解した生垣の合間から、辛うじて踏み堪えた男の苦い顔が見えた。どうだ、効いただろう? もう終わりにしたくならないか?
アンタの手札も、もう残りはない。
単に女にフラれただけ。
二年も思い続けていた女にフラれた。それでも好きだ、変われない。
ただそれだけのことを何故言えない? アンタは同じ境遇に落ちようとしているアイツに、必要以上に感情移入しているだけだろう? いや、言葉が綺麗過ぎる。アイツを擁護するフリをしつつ、女にぶつけられなかった想いをここで吐き出してるだけじゃないか。
白状しちまえ。私はとうに知ってるんだから。
しかし、哀れな男はそれでも最後の一枚を抱え込む。そんなにそのカードが大切か。ゲームの続行を信じているのか、それとも。
それとも。――――― 私に同情しているのか?
「お前、アイツが嫌いか?」
最後に近い一撃と引き換えに、私は刺し違えを狙われた。
そう、私がこの男の手札を知っているように。この男もまた、私の手札を知っているはずなのだから。
アイツが嫌い? そんなワケはない。彼は本当に気の良い奴だ。
それでも。私が欲しいのは。
疲労感と実に不本意な錯覚が私を襲い、盤上に全ての手札を投げつけたくなる。いや会話を始めたときから、そのつもりだったはずだ。
何故そうしない? 何故、相手を先に降ろそうとする?
結局私もこの男と同じように、ゲームの続行を痛いほど願い、またこの手札への愛着を捨てられず、最後のコールもフォールトも告げられないでいるのだ。捨てられない。誰が捨てられる? 私も大概卑怯だという自覚はある。
不毛だ。誰も彼も。
誰もがたった一枚のカードを捨てられず、ゲームを降りられず。手札が全部曝け出されていると分ってもなお、ゲームの終わりを信じようとしないでいる。
テーブルに着いているこの時間だけが、相手と共有できるものなのだと知っているから。もう、これしか相手と自分を繋ぐものがないのだと知っているから。
大切な。唾棄すべき。輝かしく。恨めしい。幸せで。悲痛な。
そんな最後の一枚を切る瞬間を恐れて、私たちは迷宮を紡いでいた。もうずっと、長い間。 そうして最後のターンを迷宮の奥深くに封じ、この均衡こそが平穏だと縋るように祈っていた。それぞれが持っている、同じカードを胸に。
そう、ずっとずっと長い間。
それで何が楽になっただろう。心は常に、出口を求める破壊の鼓動を刻む燃焼機関だ。
長い沈黙を享受するお互いから、同時に私たちは視線を外した。
時間を忘れたフリを続ける迷宮に最初の一槌を与えたアイツを。ただ一言、私を好きだと言って引き金を引いたアイツを、心から尊敬できると思った。その行為ゆえに、彼は次の真新しい手札を、真新しいテーブルを手に入れるだろう。その先で、どうか今度はこんなくだらない迷路遊びに捉まらないようにと願う。
照れくさそうに鼻の頭に皺を寄せて笑う彼をボンヤリ思い浮かべていると、くぐもった声が流れてきたが捕らえ逃した。え、何? そんな視線を読み取ったのだろう。男は一度唇を噛み締めてから俯いた。俯いても、今度は聞こえた。
私の沈黙をこの男はどう受け取ったのだ?
「俺は、お前らだけは。うまくいって欲しかったんだ」
あまりに卑怯な台詞に眩暈がした。呼吸の仕方を忘れた喉がググッと鳴る。
やっとの思いで開いた目の前には、諦めたように淡く苦笑する男の顔があった。
そして。
反吐が出るほど温かく大きな手の甲が、私の頬をスッと撫で。
去っていった。
こんなろくでもないカードを最悪な場面できったこの男を、私は決して許さないだろう。
男が立ち去った後もなお、一人空を睨みながら私は思った。
決して許さない。忘れない。惨めで穏やかなその微笑がどんなだったか、少しかさついた手がどんな風に私に触れ。拭われた頬に残った体温がどんなに残酷だったかを。眩暈がするほどの怒りと共に。
決して忘れず、ずっと変わらず愛してやろうと思った。
こうして私は。壊すことを抜け出ることを決心したはずの朽ち果てた迷宮に、一人、留まることになった。以前と違い、まどろむほど穏やかな場所とはなったが、それも大して意味はない。
ただ思うのは。今までもこれからも。
私の迷宮にはもう、出口へ誘うアリアドネなど居て欲しくは、ない。それだけだ。
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