「で、その三叉路…で。…若者は夢、を、みて、る」
暗い部屋の中、たった一つ点けられたスタンドの明かりに照らされた、デスクに置かれた本の表紙を見ながら声を繋いだ。
「一人は『徳』。ひ、とりは『快楽』…を示す、女。夢の中で、若者は、それ、ぞれの道の行く末を、みる」
字も読み取れないささやかな暗さは、けれど、消してしまいたいほど明るすぎる。
続けて言葉を紡ごうとして、乱暴な掌で口を覆われた。ごつごつした手が鼻まで塞いで、不規則な呼吸が余計に乱され、酸欠状態を加速させる。
指の隙間から何とか息をつこうと首を振って抵抗すると、足をつかまれ裏返された。強制的にうつ伏せをせまられ。後を追ってきた男の手は私の後頭部を押さえつけ、顔が枕に埋められた。
「煩い。もう、黙れ」
低く押し殺した声と共に、背中に再びのしかかる体。明かりはただ私の身体をなぞる男の顔に影を落とすばかりで、何もみせてはくれない。
だから私も口をつぐんだ。
感情を示す言葉も、甘ったるい嬌声も。
何一つ、この男にくれてやろうとは思わない。
―― 『徳』を象徴する女は厳しい顔で。手には剣と本つまり『武技と智慧』。
一方は優しげに花…快楽の象徴…を差し出す。
―― 苦難と栄光か、喜びと快楽か。眠る彼は夢の中で決断を迫られ。
否が応でも歩みはじめねばならない、目覚めの時は近づいている。
ベッドから手を伸ばし、指先に硬質な感触を感じて引き寄せた。そのまま掌におさまった安っぽいライターで、咥えた煙草に火をつけた。
だるい身体を投げ出し、1/3だけ身を起こしてヘッドレストに背を預けた。服を着るのもうんざりだ。
私のむき出しの腹の上で突っ伏して眠る男も、終わったそのまま背中をむき出しにしているんだから、おたがいさまだろう。
シュッと火をおこす掠れた音がやけに響く。
顎をあげて、中空に死への煙を深く吐き出す。
初めて煙草を吸ったのは何時だったろう。ああ、そうだ。あの日だ。
真夏の一際暑い午後、誰も彼もが黒い服を纏っていた。誰かは泣き。誰かは項垂れ。まったく芝居じみた一日だった。
私はその舞台の端で、脚本にも演出にも見放され、ただ突っ立っていた。途方にくれて視線を水平にスライドさせた先に、同じように取り残された男を見つけた。
『幼馴染の親友』と『最愛の彼氏』。
私たちの肩書きは、それぞれこうだった。ここにいる一群はすべからくこうやって祭壇上の白黒写真に位置づけられる。
そう、けれど。
私たちは同じだった。
『追求も弁解も。許しを請うことすらなくなった、裏切り者』
『告白や懺悔もできないままの、罪人』
トラックがガードレールに突っ込んだ。
それだけのために、私たちは泣くことも叫ぶこともできず。台本を失った舞台俳優となり、馬鹿みたいにひたすら突っ立つ羽目になった。その場に、私たち以上に滑稽な人間はいなかったろう。
結局私たちはとうとう視線を合わせぬまま、一日をやり過ごした。
湿気を帯びた陰気なベットの上でも、なお。
再び宙に吐き出した煙は、音も無く上っていき、天井に張り付くように広がった。
あの日。彼女もこんな風に昇って言ったのだろうか。そして薄っぺらい一色塗りの空に張り付いて、私たちを睨んでいるのだろうか。
腹の上、男の頭は私の呼吸に合わせてひそかに上下している。
攻め立て、追い詰め、打ち据えるような男の行為に、私は決して声を上げない。何も言わない。
「言えよ」というその行為に、「言わない」と無言でかえす。
より、愛している。より、愛していた。
それを今更唱えてどうなる。私たちはすでに烙印を押された穢れた身だ。
ぷつりと糸が切れたように眠るこの男は、どんな夢を見ているのだろう。お前の『徳』は誰の顔をしている? 『快楽』の女は優しげか?
けれど。
私たちの道はそれほど分り易い分岐ではない。分りすぎているほど、お互いわかっていることだ。ここまで辿ってきた道は既に荒れて、歪んだ獣の道だった。
このY字路でどちらを選んでも、苦難と快楽と罪と罰と挫折と幸福と憎しみと。そんなものがごちゃ混ぜに投げ出してあるはずだ。
目に映るこの先、似通った二つの道に少しでも相違を見出そうと。単純さを持たせよう。
声をくれてやらない理由は、そんなところなのだろう。
若者は眠る。
そして私もまた三叉路で夢を見る者。いつかは目覚めねばならない。
ならばせめてこの男の傍らで、一緒に悪夢を見続けよう。
それが同じ悪夢であることを願いつつ。
違う悪夢であるようにと、祈りつつ。
いつか目覚めるその時まで。
いつか立ち去るその時まで。
おやすみ。
立ち上る煙が目に沁みて。私はたまらず冷たくなった掌で目を覆った。
夜が明けるまで、ずっと。そうしていた。
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