Tの悪さ
関わり
1 不純異性交遊
Tは散髪屋夫婦の長男で、妹一人の4人家族。小学低学年ではいじめられることで、高学年ではいじめる方へ回った事で、どちらにしても何度か母親は学校へ呼び出されたようだ。しかしそれは良くある事で、特に目立った子ではなかっただろう。
中1になる3月に私の元へやってきたTは、特に勉強が好きでも出来るわけでもなく、サッカーに興じる普通の子であった。
時間を守る、あいさつをきちんとする。それだけが私の教室の決まりであるが、きちんと守れ、数学の面白さにも触れて良く伸びてゆき、今までひとつもなかった自分への自信、数学での自信と私との信頼関係を創り上げていった1年間であった。私のTへの評価は、ちと気が小さいが硬派なところを持ち、数学の一つ一つをゆっくりではあっても確実に捉えられる。そんな自分に自身を深めれば、まっとうな青年に成長していくだろう・・・というものであった。
波乱の始まりは中2の夏。元々は気の小ささを隠すために硬派ぶっていたのだが、そのクールさが女子生徒の人気を集めており、ある日女の子と自室のベッドにいるところを母に目撃された。
たっぷりと叱られ、問い詰められると、初めこそ
「いけないとは思うけど、女の子の方から先に誘われると、俺、止まらない」
と言っていたが、彼女や仲間にも入れ智恵され
「何が悪い?誰に迷惑かけた?俺達が楽しんでるだけだ」
と言いはじめ、あっという間に、いわゆる悪グループに引きずり込まれ、校内での喫煙、お互いの首から胸にかけてキスマークだらけにしてシャツをはだけて見せびらかすまでになり、私の耳にも入る事となった。少し遅れて知ったのは、その頃はまだ教室へはきちんと来ており、特に変化も無く勉強していたからだ。まだTの中では、私生活と塾への信頼感を区別していたのだろう。
そのころの校内では、そんな「熱々ぶりを見せびらかす」事がはやっており、Tの母も毎日のように学校に呼び出され、Tと共にその「だらしなさ」を責められてはいたが、肉体関係まで進んでいる事は、学校側は知らなかったようだ。もしくは薄々知ってはいても、どうこう言う気力が無かったのかもしれない。
私は混乱しているTの母に、女の子の親と連絡を取り、状況を説明し、共に対策を考える事を進めた。相手の親が怒り、Tを振ってくれたらもうけものだ。しかし・・・
相手は母子家庭であった。しかも
「娘が男を部屋に引っ張り込むのはしょっちゅうで、もう私の言う事など聞かない。子どもが出来ようがどうしようが、娘の勝手にすればいい」
ガキにガキを作らせてどうする!と思ったが、その親を説得する事はとりあえずあきらめた。ことは急を要していた。とにかくTの行き過ぎを止めなくてはならない。すでに学校への遅刻、授業の抜け出し、夜中まで家に戻らないなどが始まっていた。10年ほど前から見られるが、仲間の中には子ども用の家(部屋ではない、家である)を与えられている子がおり、そんなところにたむろするのだ。
やれやれ私が説教するしかなさそうだが、裸でベッドにいる娘の魅力に、私はどう戦えばいいのだろう?かすかな望みは、この1年で築き上げたTと私の信頼関係であった。Tはまだ私が真実を語る大人(無論錯覚だが)と思っていたし、私はTの生真面目さを知っていたし、今回の事は、思春期・青春期に誰にでもあるちょっとした事件と思っている。・・・ちと強引な説教に出た。すなわち、かなり理不尽な、カミナリおやじの説教である。
「いい気になって遊んでるんじゃない。ここは日本だ、人前でべたべたするのはみっともないんだよ。お前という人間の信用がなくなるんだ。誰に迷惑かけてるだと?聞いた風な事ぬかすんじゃねえ!いっぱい迷惑かけてるんだよ!俺にも、両親にも、学校の先生にもだ。これでガキでも作ってみろ、ガキがガキ作ったって物笑いの種になって、とうちゃんこの町で散髪出来なくなるぜ。ちっとは回りの事も考えて、以後つつしめ!・・・ったく、あんな女のどこがいいんだよ。」
2時間ほどの説教は、どれほどのものかはわからなかった。ほどなく、しり込みする父親にも、父としての考えを息子につたえてもらった。その夜は話し込むうちに掴み合いとなり、ようやく組み伏せた父は、涙を流して自分の半生を息子に語ったらしい。
それ以後彼女との付き合いこそ続いていたが、表面上は沈静化したこともあり、しばらくほうっておいた。親はまだ動揺していたが
「今、仲を裂こうったって、裂けるものじゃない。どうせすぐ別れるから、眺めていよう。長い目で見れば、これもやつの経験・・・」
と、変な慰めをしておいた。
2 怠学
彼女との仲は半年ほど続き、中3になる頃別れたが、新しい彼女がすぐ出来るため、あまり状況に変わりはなかった。しかし内面では、悪仲間内でのうらぎり、けんか、抗争など、かなり危ない橋も渡り、悪にもなりきれない自分に疑問も感じていたようだ。それは自分でも説明できない、訳のわからない焦りを生み、それはそりの合わない中3の担任と学校に向けられた。
髪の毛は茶髪から金髪に変わっていった。ピアスの穴を固定するため、耳には太いボールペンが突き刺さっている。
この二つに関しては、私は「似合わないぜ」くらいしか言わなかった。もう少しの間好きにするがいいさ・・・。しかし、学校へ遅刻し、授業に出ても机の上には何も出さず、すぐに教室を出てしまうという態度には厳しく叱った。
「お前は高校の自動車科へ行きたいんだろ?今の状態では点数も足りなくなるし、そもそもそれが物を学ぶ態度か?高校へ行ったら急にその態度が直るものじゃないだろう。今から少しずつ直せ。・・・この教室では勉強するのに、なんで学校ではしない?」
「学校の授業は全然分からんし・・・俺ら、相手にもされとらんし・・・」
その状況を私は知っていた。確かにTの生活態度に非はあるのだが、何度も担任とぶつかるうち、もう対等なガキのけんかレベルになっており、何度も呼び出される母親も含めて、「・・・いや、それはTが悪い。・・・それは担任が言い過ぎだ」などと整理してやらなくてはならなかった。
悪循環であった。Tも、もう3年だから「今日から勉強しよう」とも思う。しかし今一つ身体がついていかなくなる。その繰り返しだが、ひどく勉強が出来ないわけでなく(数学は4であった)、まだ1学期だから・・・と思うのは、Tを良く知る私だからだろう。荒れた中学で、札付きの中の1人を任された担任に余裕を持てと言っても、それは超人になれと言われるのと同じ事だ。ただそれにしても教師の方も、あまりにも一般的な圧倒的正論をTにぶつけすぎていた。それでは生徒もいじけてしまう・・・。
「だからって、すぐ教室から出て行くのはお前が悪い。わからなくても、聞いているうちにわかって来る。勉強なんてそんなもんだぜ。学ぶ態度ってあるぞ。ど〜してもつまらなかったら、机で他の教科の内職でもしてろ!」
Tはまだまだ甘くても時々がんばろうとしたが、期末テスト1週間前、教師との関係もあるが、多くは仲間内のもめごとなどに精神的につぶされ、学校に行けなくなり、テストも受けなかった。内申は半分ほどが1にされていた。
それでも私はTの学力に余裕を感じていたこともあり、これをひとつのチャンスと捉えていた。全てはTのまいた種であり、好き放題の結果なのだから、自分で受け止めなくてはならない事を悟らせなくてはならない。
そんなことを夏休みの間少しずつ語り聞かせ、Tが不安を感じはじめた受験も、「何とかなるから」と、自分ですべき出来るだけ易しい問題集も決め(私の教室は英・数・理しかなく、Tは数・理だけ来ていた)9月を迎えた。
3 最後の手段とその後
ピアスも金髪もそのままであったがTは少し元気になり、遅刻する事も無く学校へ行った。問題集も進めており、わからないところなどは教室のスタッフに聞いたりしていたのだが、やはり10月頃鈍りはじめた。そして10月末、学校の教室から出ない代わりに、床に寝そべって教師の話を聞かないという事をやりはじめた。しかもその腹は
「学校で話を聞かなくても、河原先生達が俺を高校へ入れてくれる・・・」
ということらしい。
私はここであきらめた。もう私がバックアップする意味が無い。逆効果になっている。Tに最後通告した。
「俺はお前を高校へ入れてやろうなどと思った事は一度もない。学ぶ態度に気づかせようと願ってきた。・・・お前はそれを学ぼうとせず、都合よく渡ろうとするばかりだ。もうこの教室はやめろ。どこか俺の知らないところで生きていくがいい。」
Tは震えていた。
「続けるなら条件がある。学校での授業妨害は二度としないこと。それと、休みの日に髪の毛を何色に染めようと勝手だが、学校やこの教室に来るときには黒く染め、ピアスもしないこと。それを守れるなら、もう少し様子を見よう」
私の力で押え込むこと、それが最後の手段であった。どうにも割り切れなかったが、結局Tは言い付けを守り、おとなしくしたまま公立高校の普通科へ進学していった。
高校からは、Tは教室をやめた。母には「アルバイトをメインにして自分を鍛えたい。クラブや塾は、暇がない」と言っていたらしい。母からは強く 「先生が来いと言えば、あの子は行くから」 と求められたが、何もしなかった。
4月。入学式の翌日の水曜日、一泊でオリエンテーションに行ったTは、その日の抜き打ち検査でたばこの所持が見つかり、ただちに帰された。無期限停学、場合によっては退学と、厳しく言われたようだ。とりあえず月曜まで自宅を一歩も出てはいけない。月曜からは職員室登校するらしい。
私はいい薬だと思っていた。「こんな生徒は前代未聞」とも言われたそうで、母は動転していたが、「前代未聞な生徒」が毎年何人もいることを私は知っていたし、退学の心配もしていなかった。土曜日にTの部屋へ行ってみると、春休みの間金髪だと聞いていた髪は黒くなっており、さすがに打ちひしがれた様子で“春休みの宿題”をしていた。
「ほう、宿題をやっているのか。えらいな」
「いや・・・暇やし・・・本当は春休みにしとかなあかんねんけど・・・」
「さすがに堪えたか?」
「・・・・はい・・・・」
「そりゃそうだな。2日目にして退学勧告だものな。・・・けどな、これが世の中だぞ。中学時代はなんでも出来たけど、高校以上は、すぐ出て行けといわれる。まだまだお前は学ばなくてはならない。学びの場から追い出されないように、立ち振る舞いを考えないとな・・・・」
「はい・・・・」
それ以後Tとは会っていない。近頃 「クラブやってみようかな・・・塾も・・・」などと言っているらしい。
関わりの考察
よくそこまでやるなと言われるのはわかっている。これは中学へ入るときの、この子達の顔を見ている事が大きい。ちいちゃくて、期待と不安に満ちた様子を見ると、育ててみたくなる。また、1年生の間にTに「ずるさ」がないこともわかっていた。不器用に正直であった。これはこの先 「割を食う」 正直さであり、しばらくそばにいようと感じていた。
彼女問題は正直あわてた。実際にはもっと押したり、引いたりもしたのだが、「とにかく子どもを作ることだけは・・・」で、精いっぱいであった。「付き合うのはいいが、セックスはダメ」とする根拠が世の中にも薄過ぎる。無論 「好きにしろ」はいけない。
怠学に関しては、Tは甘えすぎで自分勝手だ。しかし少年時代とは“こんなもの”とも思う。3年間をトータルで考えれば、教師にも大人にも、もう少し「ゆとり」が出ないものか?いや、出ないかも知れない。
「プロ教師の会」による最新の悲痛な現場の声を聞けば、「子どもは教師に対してよりも、子ども同士の小さなグループ内において学ぶし、悩みもする」とも、「すでに消費社会の主体として育っているので、何に置いても自らの都合だけで行動し、よって『立ち歩き』も自分の都合によるもので、悪い事とすら感じていない。皆を学校で教育する事は不可能」ともいう。 「教師は超人ではないのだ!」という叫びである。
なるほど今の学校現場の一側面であろうが、Tを見ていて、うなずけるところも、そうではないところもある。
仲間の方が大切で、教師と対立していたのは、そのとおりだ。しかしTは卒業文集に、こう書いている。
「こんな俺でも学校の先生が叱ってくれたから、今の俺がいる。ありがとう」
この文を見て、担任と母親は肩を抱き合って泣いた。Tは 「教育」 されていたのだ。
私とTには初めに信頼が出来、担任とTは最後に信頼を確認した。その結果は高校生活2日目の停学であるが、それはこれからTが出会う様々な困難のひとつであろうし、無論威張れはしないが、自信を無くすほどの事ではないだろう。
よりその子らしくあれと願うほど、生徒と言う修業時代に、たたかれる事も必要ではないだろうか。とはいえ、私もまた散々Tをたたいたのだが、それがどれほど 「教育的」 であったかなど、まったく自信はない。