塾の窓から (求め続けたもの)

1 始まり


 なんとも幼い顔と身体が11人、 ちょこんと椅子に座っている。 今日は私が1年でもっとも緊張する日。そう、新中学1年の初授業の日だ。 これから数年、 この子達はそれぞれどんなドラマを見せてくれるのだろう。 その「正しい方向性」を、私は再び、ともに探してやれるのだろうか・・・

 「さあ、数学を始めよう。 今日はトランプを使って 『赤と黒』っていうゲームをしよう.。塾なのに勉強はしないのかって?いいや。これがおまえたちが初めて知る『負の数』の勉強の始まりだよ・・・」

 16年前、高校教師になる事をあきらめた私は、個人塾を開く事を決め、「河原シュタイナー教室」と看板をあげた。12畳の部屋に会議用のテーブルと丸イスを置いただけの塾だ。

 シュタイナーの名を冠しはしたが、私の精神的・技術的支柱はむしろ、数学者の故 遠山 啓 にあった。 「すべての子を健康で賢く育てる」という遠山 啓の教育観の根本にある理念の実践をやってみたい。 そしてそこにシュタイナーの卓抜した人間観から出ている「子の背景をじっと見詰め、その発達にそって育てる」という教育観を融合できないものかと願っていた。

 対象は中学と高校の数学・物理・英語。 小学生をやらないと、フォルメン、オイリュトミー、水彩画などによる大切な時期をともに過ごすきっかけを失うが、それはそれで良いと思った。私にも良く分からなかったという事もあるが、そもそもシュタイナー教育とは意図して作るものではなく、自然に「発生」するものと考えていた。日本では、日本のシュタイナー教育が「発生」しなくてはならない。 精神界の異なる日本でドイツとまったく同じ事をやっても、きっとうまく行かないだろうと思えた。 それよりも、生徒に数学の構造を語り聞かせ、それを生徒が自分の手で黒板やスケッチブックに絵や図にし、自らの考えを生き生きと動かすとき、そこにフォルメン・オイリュトミー的なものもあるだろう。 問題は、生徒からそれらを引き出すこちらの技量だが、それには遠山 啓の考えがとても役に立った。 「人間の魂に迫る」 そんなシュタイナー的な事を、数学により、日本で最初にやったのはこの人ではないかと考えていた。

2 触れ合い

@ 出会い

 私の教室の創生期は世がバブルに向かった時代。 どの子も熱病にでもかかったかのように「進学塾」へ行き、実際には教師にすらも何を教えているのかわからなくなるような知識を大量に取り入れんとしているように思われた。乗り切れる子はまだ良い。しかし、大半の子がずたずたにされているのが現状だった。しかも、親も子も、教師も、世の中も、そのことから顔を背けている。そのことが私には不思議だった。そんなとき、私の前にヒデキ(仮名)が現れた。

 もうすぐ中学1年になろうとするこの小柄な少年は、その「学力」を心配する母により、小学低学年から様々の塾を渡り歩かされたと言う。どうにも心が縮こまっており、その顔に表情は乏しく、うまく発声して話す事も出来ない。どうやら計算の四則は出来たが、文章題だとどんな場合でも、まず二つの数を掛けてしまう。答えがちがっていれば、割る、足す、引くの順に進める。計算とその手際自体はかなり速い。ようく見てみると、どうやら正解の確率の高いもの順にやっているらしい事がわかってきた。そしてそれらが、急き立てられ続けた結果生じたものであり、間違う事を叱られるのを回避しようとするものである事もわかってきた。問題の意味が分からないから、なるべく叱られるのを減らそうとした、掛ける、割る、足す、引くの順。その無表情な心の奥で、それでもこの子は自分の身を守ろうとしていたのだ。私はやるせなくなった。いったい進学塾で何を学んでいたのか?少なくとも私の方がまだましだろうと考え、この子と共に教科の中を歩いてみる事にした。しかし恐いもの知らずの私が、自分の力の無さを思い知る事になろうとは想像もしていなかった。

A 中学での戦い

 中・高校生が数学をやる意味とは何だろう。数学はよく、やたら難しいだけで何の役にも立たない教科の代表にされるが、そんなことはない。数学はある出来事に対し、余分な飾りを取り払い、そのものが持つ本来の姿・像・構造などを浮かび上がらせる力を持っている。目の前にいる生徒がやがて出て行く大海を思う時、多少なりとも、せめて持たせたい力のひとつだと考える。また、その理解に必要な能力は意外に少ない。量の大小の判定能力(どっちが大きい小さい)と、簡単な作図能力(いわば簡単な像)だけで良いと私は考えている。それは誰にでも出来る事だ。 また、この教室の四方は大きな黒板だらけになっており、生徒が問いを考える時には、チョークを持って自らの手ですべて黒板に書く。これは私にとって強力な手助けになる。そこに描かれる文字や図、手の動き、肩の表情などは、驚くほど雄弁に生徒の考えや戸惑いを,時には本人が自覚していない事まで語ってくれる。それらは私の説明のまずさや生徒の誤解などのフィードバックもしてくれるし、考え方の方向性を求めてのコミュニケーションのもととなる。チョークの色は何種類もあり、生徒がきれいな図を描いた時には、みんなで眺めて「ほう」とため息も吐く。この黒板が生徒を育ててくれると言ってもいいくらいだ。 ところがヒデキには、それらのことがなかなか身に染みていかなかった。とくに分数の意味が良く分からないようだ。折り紙でそれぞれの分数の量をその都度作るのだが、首をかしげるばかりだ。黒板に立つ背中も、何も語ってくれない。心の動かし方すら、良く分からないのかもしれない。 色鉛筆を持たせてフォルメン的なものをやってみもしたが、よけい何をやっているのかわからなくなった。非常に良く出来ている 遠山 啓 のテキストすら、そのまま提示するだけではこの子の心の中には、なんの像も結ばぬようだった。 八方ふさがりの焦りの中、私は自分の教育観と技術を全て洗い直さなくてはならなかった。 私は理論派ではなく、感覚的な職人タイプの教師だ。それゆえ、シュタイナーや遠山 啓の理論の奥深くを求めているつもりではいても、実は漠然としか捉えてはおらず、その表面でしか動いていなかったのではないか? また仮にその理論を正確に捉えていたとしても、それがひとりひとりの心の中でどのように作用するかは別のものであり、もうあとひと押しする「何か」が必要なのではないか? この子との出会いは、そのようなものを探せという意味なのかもしれない・・・。 私は、いつも利用している折り紙をいつものように取り出し、いつものようにヒデキに語りかけた。 「さあヒデキ、3分の1をつくってみよう」 しかし私の気持ちははっきり違っていた。「教える」や「共に学ぶ」ではなく、「共に探そう」であった。

 変革は、いつのまにか静かに進行していた。それが時の流れによるものなのか、毎回考え工夫した(それが工夫といえるかどうかは自信が無い)教材によるものなのかはわからないが、どこかの時点でヒデキは数学の構造を少し身につけ、何故それを足すのか、掛けるのかなどの区別が理解された。そうすると今まで冷たく動かなかった図や数式が、自分の意志で少し動かせるようになる。それはヒデキにとって驚きであった。それまでは一方的に押し付けられ、無理矢理食べさせられていたものが、自分の意志で動かせた・・・おもしろくないわけがない。まるで寝ていた子が目を覚ますかのように、その手や肩の動きも意志を示し、その頃から自分の身の回りの生活にも目が行くようになった。 しかしそれは同時に、むしろ気づかずにいた方がよかったものに気づく事でもある。その頃私は何度か「お前の塾はアホしか行っとらんな!」と言われた事がある。それはテストの点数が取れない事を言っているのだが、中学のテストの点とその子の人間性や人生とは無関係だと知っている私は平気だが、子供たちの何人かは、そのような言葉に平気でいられない。自分の中に何らかの力を感じはじめたヒデキもまた、時としてかんしゃくを起こし、した事もなかった親子げんかもするようになった。 家出騒動も起こした。「バイバイ」という置き手紙を見つけた母から連絡を受けた私は、すぐに授業を中止し探してみると、近くにいた。肩を抱き、手にした布のカバンの中を見ると、明日の塾で使う私の教材だけが入っている。夜の雨の中、泣き出しそうになったのは私の方だ。それでもこの子は明日、私の教室に来ようとしてくれている・・・。

 シュタイナー教育を進めてゆけば、時として、高校生になっても掛け算がろくに出来ない事もありえる。それくらい覚悟しなくてはならないと聞く。その意味は私も理解しているつもりだ。しかし私は、それに真っ向からぶつからざるをえなくなった。 ヒデキの方向性はとても良くなっている。数学の構造を捉えはじめ、楽しみながら自らその形を創り上げようとしている。あと数年そんな作業を続けてゆけば、そこで得たものはきっと、この子を支えてくれる大きな力のひとつとなるだろう。しかしそこに、高校進学という問題が割り込んで来る。その是非は置くとして、京都の子が公立高校へ進学する事は、それほど難しい事でも、贅沢な事でもない。おそらくヒデキは高校半ばには、点数でも他に見劣りしなくなるだろう。しかしその入り口で、今のままでははねられてしまいそうなのだ。 「僕はみんなと同じように高校へ行けないの?こんな勉強は続けられなくなるの?」 ヒデキは言葉もずいぶん出せるようになり、直接あるいは黒板を通して、そんな不安やいらだちもまたどんどん私にぶつけてきた。私は最低限の点取り作業をヒデキとの数学の学びの中に織り込んでいかざるを得なかった。しかしそれは私にとって屈辱であった。私の数学観の中にも、点取り作業などなかったからだ。シュタイナーや遠山啓の影が薄くなってゆき、どんどん離れていくようにも思えた。そのようなものをどのようにうまく融合するかなど、当然のことなのだが、誰も教えてはくれない。そんなことはどうでもいいというバブルの時代だったのだ。精神的支柱はゆらぎ、相談できる人も見つけられず、ものすごく孤独で不安ではあっても、それまでの概念や思想を何度も壊してはつなぎ合わせ、子供たちとともにそれぞれの方向性を求めて現実の中を進んでいかなくてはならなかった。

B 高校にて

 ぎりぎりで冷や汗を流したとはいえ、何とかヒデキは進学できた。そして私との、数学の中へ入っていく作業はまだ続いていたが、2人ともそれなりに落ち着いており、むしろ楽しんでもいた。しかし、やはりタイムリミットはある。今度は、どのように社会へ送り出すかも考えなくてはならない。それも大切な現実だ。2年生の半ばにヒデキから切り出した。

「卒業したら、働こうと思います」
「いいのか?いったい何をやるんだ」
「それは・・・良く分かりません。これから色々当たってみます。少なくとも僕の人生に、大学はいらないように思えます。この教室は別にして、学校の、ああいう勉強は好きでもないし・・・」
「きっと母さんは、進学を望んでいるはず・・・」
「それが一番の問題です・・・」

 結局3ヶ月かかったが母を説得し、やがて理容師の道を進む事を決めた。

C 求めていたもの

 それから4年が過ぎ去っていた。私の家へやってきたヒデキは、私の4歳の息子をいすに座らせ、その頭を刈っている。去年、千葉から東京へ店を変わったが、人間関係がつらく「やめたい・・・」と泣き付いてきた事など、忘れたようだ。昔に比べると驚くほど雄弁になっている。 「先生知ってました?昔の散髪はカミソリしかなかったんですよ。○○という人が有名で、近代になって△△と言う人がハサミを広めたんです。そして現代はというと・・・」

 9年前には、ヒデキの身体は今椅子に座っている息子よりも小さく見えた。そのヒデキの熟練した動作に、私はただ見とれており・・・。 中学・高校と6年間、数学を通してヒデキと私が何をしていたのか、少しは見えてきたような気がした。自分の在り方を求めて、必死になって理想と現実をつなごうとしていたのだ。あるいは、世の中と自分のつながりかたを求めていたと言えるかもしれない。ヒデキはうまくつながったのかというと、さて、それはわからない。自分の人生の中で答えを出して行くことだろう。

 私の中には何が残ったのだろう?シュタイナーや遠山 啓とは、ずいぶん離れてしまったようでもあるし、逆に、人と、生徒と密に接すると言う意味ではうんと近づいたような気もする。壊してはつなぎ、また壊してはつなぐ。そこには確かに、それまでより少しだけ輪郭のはっきりした自分がいる。私の目指すもの、その方向性が私自身に、より明快になった事は確かだ。

「さあ数学を始めよう。今日は赤と黒っていうゲームをしよう・・・」

 理想と現実をつなぐ教育を求めての旅が、また始まる。