河原シュタイナー教室 2018 ドラマ

自分への問いかけ    

1 出会い

 ヒカルの存在はたぶん、彼が小学生の頃から知っていた。兄のトモヒサが高1からうちへやってきて、私の授業を気に行ってくれたので、親から「弟も高校へ上がったら、お願いします」と聞いていたからだ。
 兄は田舎町の小学校から中学へ、そして高校から宇治まで通うことになった。ヒカルもそのコースに乗る予定だったが、ちょうどそのころ地元の中学は大荒れで学校崩壊の状態だった。両親は考えた末仕方なく、自分が勤める私立中学へヒカルを通わせることにした。
 ヒカルにはまだ野心も願望もなく、言われるがままにその中学へ通った。どこへ出かけるにしろバスと電車に乗らなくてはいけない田舎町で、父の車で一緒に「出勤」するのは楽でよかったのかもしれない。
 私立中学では普通に勉強したが、「○○へ入学」という勉強はしなかった。ごく自然に、流されて漂うように勉強し、高校からは兄と同じ府立高校へ通うつもりでいたが、「ま、受けてみようか」と、期待もしないで前期試験を受けたら嵯峨野高校・こすもすに合格してしまった。本人も両親もびっくりしたらしい。合格したなら仕方ない、家からはかなり遠くなるが、朝早く起きてけっこう遠いバス停まで歩き、JR宇治駅から京都駅へ行き、嵯峨野線に乗り換えて太秦駅へ行く。家から学校までは2時間ほどもかかるだろうに、ヒカルはそれもまた「ありふれた普通のこと」と思っていたようだ。
 かつての約束通り、高校を決めたヒカルはすぐに入塾のあいさつに来てくれた。ひょろりと背の高い、眼鏡をかけた、背中には藁でもついているんじゃないかと思えるような、田舎のまんまの少年だった。
「まぐれで合格しただけです」
そう言っていたが、数学の力もまだ、さほど強くもなかった。




2 かすかな想い

 進学校に合格するのだからある程度の力を持っていたが、それはまだ突出していたわけではなく、校内順位を見ても目立つ存在でもなかった。ただ、この子は一つの優れた才能を持っていた。
それは「考えることが好き」という才能だった。そのせいか話を聞くときも、メモを取るときも、黒板に立つときも考え続けなくてはならない私の授業を、兄と同じくらいに面白がった。
高校ではサッカー部へ入り、これにも熱中した。どこへ進んでもそこに楽しさや面白さを見つけることができる。それは人生を生き抜くうえで欠かせない能力だが、それはすでに持っていた。
 通学時間、クラブなどを考えれば、週2回とは言え、よく通ってくるものだ。学びを進めるうちに苦手な英語や物理・化学なども聞きたかったのだが、さすがにそれは無理だった。
数学はぐんぐんと伸びていったが、驚かされたのは、ヒカルには大学進学を絶対視するような願望はなかった。
「僕にその能力があれば進学しますが、能力がないのなら大学へは行かず、働こうかと思います。今のところは宮大工なんかに憧れますね。高校を卒業したらどこかへ弟子入りし、木を加工し、自分で組み立て、出来上がったものを眺める。まだ大工のことは何も知りませんが、そういうことがやりたいです」
 学ぶことが好きでその努力はするが、それが教科書である必要はないと思っていた。その意味も分からず、ただ点数を取るための、ただどこかへ進学するためだけの勉強などする気はさらさらなかったのだ。今どき珍しい青年だった。いろいろ聞いていると両親の考え方がそうであり、その息子3人もそのように育ってきたらしい。
そういう性質もあり、点数から離れて数学の構造そのものを問うていく私の数学をとても気に入ってくれたのだろう。当然のように学びは深まっていき、論理・構成・記述力も高まり、高2を終えるころには校内ではトップクラスにまで登ってきた。進学してもっと学んでみる資格は、その能力は、十分にあると言えるものだった。
「俺に勉強などできるのか?」
ヒカルの自分への問いかけに対する答えが出つつあった。


3 受験失敗

 京都のどの高校生にとっても京都大学は憧れであるが、その頂ははるかに高く、どこまで勉強すれば到達できるものかヒカルには想像ができなかった。数学がうまくいくとB判定が出ることもあり、そうすると逆に苦手教科が気になり始めた。もう少し低い山ならこのままでもいいが、その頂に登るなら、英語・化学そして物理ももう少し何とかしたい。国語はかなりいいのだが、総合点で自分なんかが通用するのだろうか。レベルの高い高校なのでそういう話をする仲間はいたから、冷静に自分の位置を考えられたのだろう。
 学科はなんとなく建築をと考えていたが、康太と教室で出会い、話を聞くうちに物理工学にひかれ始めた。ただし、物理工学は工学部の中でも最高峰だ。誰であってもビビってしまう。
 受験直前に真子に化学のコツを聞いてみたりして、それなりに腹を決めたようだが、私は十分可能性はあると思っていた。数学で得点は稼げるし、理科の失点はカバーでき、国語で英語の穴埋めもできる。ギリギリではあっても物理工学へ合格できるのではないか。
工学部は第1希望から第3希望までを書ける。工学部受験者の上位1000人を合格させ、その後希望順に各学科へ入れていく。それがいいのか悪いのかはわからないが、1000人の中にはいれば、どこかの学科へは入学できるのだ。ただ、それがヒカルの考えてもいない地球工学(旧土木工学)でも、素直に行くというだろうか?
「それはいいです。勉強すれば、何でも面白いでしょうから」
それなら大丈夫だ。この教室からはヒカルより力の弱い子でも合格しているから。
 センターテストは85%の得点だった。京大換算では80%。
しかし京大工学部は圧倒的に2次配点が高く、ここでは何も決まらない。
 2次も自分の力は出せた。数学はもっと解きたかったが、問題が難しすぎた。物理・英語・国語はまずまずだが、科学は少し失点しただろうか?
合格発表を見に行くと、ヒカルの番号は・・・なかった。
地球工学には3点とどいていなかったようだ。



4 突然の陽光

 3点差、それは微妙な差だった。大差なら進学をやめて大工に見習いに行ってもいいのだが、諦められる得点差ではなかった。私もまた、まさか1000人の中にはいれないとは思わなかったが、中途半端に希望もしない地球工学に合格しなくてよかったのではとも思った。最高峰を目指してヒカルの浪人は始まった。
 難関大学コースと言っても予備校ではA・B・Cに分かれたクラスになる。そこはシビアなもので、予備校が本気で鍛えるのはAクラスだけだ。成績により9月に1度だけクラス替えがある。かつて真子はCからAに替わったのでその違いがよく分かった。
ヒカルはBからのスタートだったが、それは気にしなかった。名物となっている化学講師の授業は受けられて、それが面白い。
「私は受験のための化学なんか教えない。化学がどういうものか、
 化学そのものを教える。それでよければ聞きなさい」
それは私と同じ発想であり、ヒカルは目のうろこが取れるようにその話に聞き入った。そういう話が大好きな子だ。
 6月にはまだ少し余裕があったのか、読書会での建築家・畝の話も聞きに来た。先輩がどのように学びの道を進んだのか、さらにそれをどう深めようとしているのかを聞き、自分の学びの姿勢を確認したかったのだろう。その後は勉強に没頭したのか、まったく顔を見ることはなかった。
 次に顔を見せたのは京大2次試験直後。センターテストは無事通過したのだが、2次の数学でとんでもないミスをしたのだという。
最後に不等号の大小を見間違えて答えが逆になってしまった。しかも同じような単純ミスが他に二ヶ所もあった。ヒカルはしょげ返り、絶望の淵にいて、身の置き所なくやってきたのだ。しかし・・・
よく聞いてみると、ほかの教科はほぼ完ぺきにこなしていた。
英語と国語は力のすべてを出し切れていたし、物理と科学はほぼ満点の出来だった。それで落ちるのだろうか?それが受験生の心理だ。
自分ができた教科はきっと簡単であって、誰もができているであろうし、自分がミスった数学は自分だけがミスったのだと思ってしまう。実際にはそんなことはないのだが、どんなに私が言っても、どうしようもなくそう思ってしまう。
 試験の話の後は後期試験とその後の進路のことばかりを話した。
後期はトヨタ大学を受けるという。私はびっくりした。
通常は神戸大の工学部などに置くものだが、トヨタ自動車の人材を育てる大学へ行くというのだ。ヒカルらしい考えだった。
最高峰に登れないのなら、実践的に学びたい。それで工員の腕を磨くもよし、自分に能力があれば研究職へ進めるかもしれない。
トヨタ大学は目的がはっきりしているせいか、会社が費用を受け持っており、学費は国立大学と同じだった。食事つきの寮もあり、それも信じられないくらいに安い。
「もう、親に負担を掛けたくない」
そういう想いで、京大・物理工学は諦め、腹は決まっていた。
すべての人に申し訳なく思っていたのだろう。私や予備校の名物講師など、多くの人に学んだ。先輩の畝や康太にもあこがれ、そういう学びをしたかった。浪人までさせてもらった。それを、自分の単純ミスですべてをふいにしてしまった。発表までの2週間、ヒカルはどれほど自分を責めていただろうか。
 発表は3月10日、12時ちょうど。去年は見に行ったのだが、今年は諦めていたのでインターネットで見ることにした。恐る恐るページを開いてみる。自分の番号は・・・・あった!しかもその後ろにあるCの文字は物理工学科合格の文字だ。信じられなかったようだ。何度も、何度も見返すばかりで、歓声を上げることもできない。本当の喜びとは、そういうものだろう。不安の暗闇の中に突然陽の光が差し、まぶしくて目が開けられない状態だ。
「なぜだか・・・なぜだか、僕の番号があるんですよ」
私に電話してきたときは戸惑い声だったが、母と一緒に大学まで確認に行き、帰りに教室へ寄ってくれた時には喜びを爆発させていた。
世話になったすべての人に報告できる、恩返しできる。康太に聞いてワクワクした学びの場に、自分が入っていくことができる。これからそういう学びができることが、たまらなく嬉しい。
トヨタは惜しい人材を逃してしまった。トヨタに限らずどの大学でも、こういう生徒がほしいのだろう。だから京大がとってしまった。
たまたま来ていた他の卒業生とともに、買っておいたアイスクリームでお祝いの乾杯をした。やはり、極上の味がした。ヒカルには、
自分への問いかけに対する、答えの味だったろう。

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