2016 河原シュタイナー教室 ドラマ
取り戻した未来(2016 ドラマ)
1 治療の経緯
高3の2月に受験を終えた真子は発表後に、学校の友人数名と東京ディズニーランドへ1泊の旅行に出かけて行った。たくさんおしゃべりし、思い切りはしゃいだ。どうしようもなく無くしてしまった2年間への、ささやかな抵抗だった。
2年前の5月末、2ヶ月ほど体調の悪かった真子はついにダウンし、腹部が盛り上がる異常に気付いた私は夜遅くに病院へ連れて行った。血液検査の結果、ひと桁であるべき癌マーカーの数値は7万を越え、翌日に緊急手術をした。「若年性卵巣癌」それが病名だった。何が起こっているのか理解も出来ず、私や家族は真子の死の恐怖に怯え、恐れおののき、泣くばかりであった。
手術は神業のごとくうまく行った。出血量は少なく、輸血の必要もなかった。癌切除のあとは抗癌剤治療がある。若年性卵巣癌には3種混合抗癌剤が20年ほど前に開発され、治る癌になっていた。しかし「劇薬」であることに違いはなく、患者の体力次第で量は調整される。間違えば薬で死んでしまうこともありうるからだ。その治療期間に投与できる限界量も決まっている。
誰にも知らされなかったが、医者と薬剤師による真子への治療方針は決まっていた。
「限度量ギリギリを5回に分けて投与する。吐き気やだるさの副作用は激しいだろう。ものすごく苦しいだろう。しかしこの検査結果では、この患者は治る。治るのだから絶対に治す。限度量をすべて投与する。苦しさは、若さで耐えてもらう」
医療としては正しい判断であったと思う。
年頃の娘の髪はすべて抜けてしまった。吐き気やだるさは尋常ではなく、勉強しようと病室に持ち込んだ教科書やノートには手を触れることも出来なかった。
審査に合格すれば夏休みに行けるイギリスへの20日間の留学は病室で合格を知らされ、当然行くことは出来ず、「死んでもいいから行きたい」と泣きじゃくった。なくしたものは多くあった。
夏休みが終わる頃「出席日数が足りなくなる」と、学校から連絡が来た。英語と国語が切迫していて、進級できなくなりそうと。
「もう一度2年生をやろうか?」
真子の体調・精神面・勉強を考えればその方がよかったかもしれない。しかし真子は同級生と一緒に卒業したがった。
ふらつく身体でろくに歩けもせず、どうやって通学するのか?
授業中椅子に座っていられるのか?風邪でも引いて3回休んでしまうと留年する。無謀にも思えたが真子は買ってもらったウイッグをかぶり、10月末から通学し始めた。
京都駅は端から端まで乗り換えねばならず、それは無理だった。
地下鉄で二条駅まで行くとJRへはスロープがあり、少しずつ歩を進めれば行けた。太秦駅にも階段があるが、そこでは生徒がたくさんいるので身体を支えてもらえた。教室は校舎の3階だが、生徒は使えないエレベーターの特別許可をもらった。
学校へたどり着くだけで脂汗がにじむほど体力を消耗し、とても授業を受ける状態ではなかったが、出席日数だけのために仕方なかった。抗癌剤の副作用か日光に15分も当たると皮膚がみみずばれになる。かゆみがすごいがかくこともできない。むかつきや吐き気は一日に何度も襲ってきた。どうやって毎日通ったのか、いまだにわからない。気がつけば3学期が無事終わり、ギリギリ3年生に進級できた。
出席日数は年単位のもので、3年生になると加算はされずリセットされる。ホッとすると身体が動かなくなり、吐き気にも耐えられず、週に2日は学校へ行けなくなった。行けたとしてもすぐに保健室で寝ている状態だった。
勉強に対する不安や焦りはあったが、物理・化学・地理は出だしの1年分を受けていないも同然であり、自分で教科書を読んでも理解できず、どうしようもなかった。国語と英語は能力が高く、数学は私が教室でフォローできたが、それも気休め程度だった。
「顔色が良くなったか?髪の毛も増えたぞ」
毎日のように言い、実際そう思っていたのだが、この頃の真子はほとんど雑談ができず、テレビを見ても何を見ても笑うことが1日もなかったのだが、私も家族もそのことには気付いていなかった。
2 浪人する
夏の終わり頃から過去問などで基礎を飛ばして受験勉強を始めたが、それではどうしても無理がある。病気で失われた時間が多過ぎ、それを補うことは物理的に無理だった。
国語と英語で点数を稼げるのでマークテストでは「C」判定は出ても、記述テストでは数学と理科で得点出来ず「D]判定。2次の数学や物理は思考力を問われるが、基礎を整備する時間もなく、思考の幅を持たせるには至っていなかった。化学は知識量そのものが足りていない。地理は手を回す余裕がなかった。その状態でセンターテストを受けたが、それでも8割を越え「C]判定。
それが気休めであり、形だけのものであることは、私にも真子にもわかっていた。
「2次試験で簡単に潰される・・・」
考えてみれば真子は高校の2年分を正味奪われており、ひいき目に見ても高2終了時点と同じ勉強量しかなかった。
その気になりさえすれば行ける国立大学はいくつもあった。しかし真子はその気になれなかった。真子が奪われてしまった多くのことを思えば、それが真子のせいではなく不可抗力であるだけに、私にもそれを勧めることは出来なかった。
合格発表は母と二人で見に行った。覚悟ができていたので真子はそれほど落ち込んではいなかった。ディズニーランドで友達と思い切りはしゃぎ、ゆっくりと予備校を探し始めた。
色々見たようだが、やはり駿台予備校の京大理系コースへ行くことに決めた。そこは寮も完備されており、全国からその志をもった生徒が集まるため極めてレベルが高かった。成績順にA・B・Cの3クラスに分けられるが、入学テストの結果真子は一番下のCクラスとなった。
「全然勉強してなかったしな」
負け惜しみを言っていたが、私には順当な位置だと思われた。しかも私にもよくわかっていなかったが、このクラスになったことが真子には一番良かったと思われる。
AとCでは最初からテキストが違う。Aはすでに応用題から入るが、Cは基本問題の復習・確認から入る。実質1年遅れの真子にはそれが一番適していた。特に理科などはどれほど助かったことだろう。
地方からやって来た生徒達は立場上からかやる気に満ちており、それが真子には心地よかった。また、これが東京だと3日もすれば全員が「標準語」になるものだが、京都という土地柄か誰も方言を直そうともせず、それも楽しかった。
講師の先生は元京大教授もいて、授業は適格で高校よりも数段良かった。入試のためのテクニックをやるのではなく、それを題材に
「どう学び、何を学ぶべきか」という、普段私が話すようなことばかりだったのは真子も驚かされたようだ。ここまでレベルの高い生徒ばかりになると、ようやくそういう授業ができるようになるのかもしれない。
3 本当の回復
予備校ではしょっちゅう模擬テストや校内テストがあり、真子は少しずつ成績を上げて行った。ただしまだ力は整っておらず、5教科のうち毎回2教科は「読み間違い・勘違い」をやり、2字型記述模試では得意の英語・国語でも得点を伸ばすことが出来なかった。
それでも確実に力はつき始めており、7月までのトータルの成績で一度だけクラス替えが行われる。クラス担任と面接があった。
「へえ〜この成績だとゆうにAクラスのはずだけど、どうしてCにいるの?」
「入学テストが悪かったからです。病気してたので」
高2での病気のこと、それによる時間の制限などを話すと担任はひっくり返りそうになるくらいに驚いた。
「そんな大病をして、理科は全部自分でやった?それでここまでの成績を?すごい!そんな生徒は初めてだ。そんな事できるもんかねえ?後期はAクラスに上がれるから、頑張りなさい」
そんな夏の頃からふと、真子がよく笑うようになっているのに気づいた。テレビを見ては笑う。母とじゃれあっては、また笑う。
それを見ていてまたしても気がついた。そう言えば真子はこの2年間、こういう風に笑うことがなかった。元々よくしゃべり、よく笑う娘なのに、思い切り笑うことが一度もなかった。抗癌剤治療から2年、ようやく笑えるだけの体力が戻ってきたのだろう。
体力の回復と共に、勉強にも力を入れることができるようになった。予備校後半の半年が実質の勉強期間だった。
4 受験
センターテストは気合を入れて臨んだ。苦手な社会でも74点を取り、全体では88%の得点率。1年間の模擬テストと比べても最高得点だった。これをもとにどの大学を受験するのか、予備校で面談を受けた。
薬学部は扱う大学が極端に少なく、京大・阪大・名古屋市立大学しか近くにはない。京大は前期試験のみ、名古屋市立は中期試験のみであり、阪大だけが前期・後期試験の2回受験だった。
真子は京大受験しか考えていなかった。癌で入院する前に受けた模試では「A判定」だったという想いを長く持ち続けていたのだ。
病気に奪われてしまった2年を、何とか取り戻せる位置にまで這い上がって来たのだ。
前期・京大、中期・名古屋市立、後期・阪大。
真子の希望にしかし、予備校担任はビビった。
「全部第一志望で受ける大学ですよ。浪人してるしねえ・・・
後期阪大はある意味前期京大より難しいし、名古屋市立も
絶対とは言えないし・・・強気過ぎない?」
去年の阪大後期薬学は5人募集に6人が受験していた。その人数だけで真子も、後で聞いた私も楽観視していた。その6人がどういう6人かを聞いていれば、阪大受験はなかったかもしれない。
「前期で合格すれば問題ないし、これで行きます」
真子はそれを押し通してしまった。
京大の数学はとても難しく、1問を完答し、3問は半分ほど答え、2問は手がつかなかった。真子から問題を手渡された私は3番の立体図形の問題を真子が解き切れなかったことに首をかしげた。
それは4年前に出された問題と実質は同じものであり、その問題は私の手書きの解答と共に何度か真子に教えた問題だったからだ。
しかし予備校の速報でも「2問解ければ合格圏内」という判定でもあり、まさかそれが敗因になるとは思っていなかった。
残りの英語・国語・物理・化学は今までにない手ごたえであり、自己採点では去年の合格点も越え、真子は合格した気分になった。
「もう一度やれと言われても、もうこれ以上は出来ない。
これで落とされたら、もうどこへでも行く」
私は数学が気になりながらも、合格するかもしれないと思えた。
合格発表前に名古屋市立の入試があり、母親と出かけて行った真子は物見遊山気分で受けてきた。試験は十分できたらしい。
翌日に京大の発表。小雨の降る中、そこは私も責任を取らなければと、真子と二人で見に行った。私が先に掲示板へ行った。
はたして・・・真子の受験番号は・・・なかった・・・
後ろの真子に首を振ると、「もう、帰ろう」とだけ真子は言った。
駅まで二人で黙って歩く間、私にはあらゆる後悔ばかりが渦巻いていた。あの図形問題をもう一度確認しておくべきだった。もっと数学の面倒を見れさえすれば。もっと、もっと・・・・・・
電車の座席に座ってしばらくすると、真子は無言だが身体を震わせて涙をぬぐった。それを見てこの3年が走馬灯のように駆け巡った。
癌はこの子から楽しい高校生活のすべてを奪ってしまった。思い切り学べる授業、楽しいはずだったラボ、体育祭、文化祭、イギリスへの短期留学、そして髪の毛・・・あんまりじゃないか。
勉強は・・・週に2度はある吐き気などで十分は出来なかった。
けれど出来るだけの準備をしてここまで来たんだ。試験もこれまでにないくらいうまくできたんだ。それでもまだ、この娘から進学まで奪うか・・・どこまでこの娘に試練を与えるんだ。これ以上何をしろというんだ、もう・・できないよ・・・
「後期の阪大、頑張ろうな」 「うん」
「中期試験は出来たよな」 「うん」
「2浪してもいいよ」 「うん」
どうやって家へ帰ったのか、その後の記憶はない。
5 取り戻した未来
その日の午後に真子は泣きながら予備校へ報告すると、後期試験は2日後なのに、「明日、面接の練習をしましょう」と言ってもらえた。阪大薬学後期試験は和文・英文を読む論文が2題と、2度の面接だった。過去の合格者のデータも調べてもらったが、現役で合格した一人のものしかなかった。その理由も初めて知った。
「後期薬学は実質、京大医学部を落ちた子の受け皿になっている」
真子も私もそれとは知らずに願書を出していた。それでも出した以上、後戻りは出来ない。
翌日、面接官役をしてくれたのは担任の男性教師と、もう一人は女性教師だった。
「では・・・志望動機は?」
癌を患ったこと、抗癌剤の苦しさを味わい、薬を勉強したくなったこと、その後の経緯を真子は淡々と男性教師に話した。
泣き声がする・・・目を横へ向けると、女性教師は号泣していた。
同情してもらう気はないが、これだけの経緯を持ち、ここまで這い上がって来たことを伝えれば、あるいは有利になるかもしれない。
その一点にだけ望みを持って試験会場へ向かった。
後期薬学は5人しか取らないが、去年は6人だけが受験しに来ていた。しかし今回はざっと20人ほどもいて、それだけで真子は自信がなくなっていったという。
論文は英語では医学用語が多く、しかもその言葉の説明もなく、とても読みづらかったが、それでも懸命に書いた。和文はきちんとできたという。午後は2度の面接だ・・・
面接方法が変わっていた。志望動機などありふれたことを聞くのではなかった。部屋へ入ると一枚の紙が置いてあり、裏に5個ほどの項目が書かれてあった。
「どれでも一つ選んで、自分の思うところを話してください」
面接官の質問などに答えて行くのだ。真子は2度の面接で、
「原発について」と「留学生が減っていることについて」を選んだ。
癌と戦った自分のことは一つも話せなかったが、真子は精いっぱい答えた。原発に反対か賛成かと聞かれ、「推進派です」と答えた。
「廃棄物はどうする?」
「今はまだわかりませんが、処理方法を見つけるのが、私達若い世代の役割だと思っています。責任を持って勉強しなくてはと思っています」
うまく答えていると思うが、そういうことは我が家でもよく話していて、私や康太、技術屋としての意見を真子はよく聞いていて、それがとても役に立ったという。
試験はすべて終わった。結果はわからないが、やれることはすべてやったという実感はあった。
「京大しか知らなかったけど、阪大の雰囲気はとてもよかった。できれば阪大に行きたいなあ」
発表まで真子はそう言い続けていた。
発表は中期・後期とも同じ22日。阪大が午前9時で、名古屋市立は10時からだった。待ちかねて見そうなものだが、真子は自信がなくなり、恐ろしくて見ることが出来なかった。
「両方いっぺんに見る」とか理由をつけて布団から出てこない。
教室で待つ私はそれを知らず、9時15分を回って「ダメだったか」と諦めた。その時自宅の電話が鳴り、女房が取った。
「予備校担任の○○ですが、真子さんは?」
「恐ろしくてまだ寝てます」
「お母さん、発表を見てないんですか?」
「はい・・・どうでしたか」
「僕が言っていいんですか?・・・合格してます!!」
その瞬間女房は大声で泣き始めた。康太と真子が驚いて二階から駆け降りてきた。真子が受話器を取ると、担任の声も、泣かんばかりに震えていたという・・・・・・
重くて暗くて、絶望という言葉も思いつけないほど苦しい3年間だったが、最後に真子は自力で未来の道を切り開いた。家族全員がそれを考える余裕もなかったのだが、無意識に「未来まで奪われてたまるか!」という気持ちがどこかにあったのだろう。
テレビドラマにあるような、カッコいいところなど何もない。真っ暗闇の中を、這いつくばって進んできただけだった。
突然明るくなった。見上げると青空のもと、桜が満開だった。
しかしその経験故に真子は、誰よりも元気に大学へ、その研究へ、自分の未来へと歩を進められるだろう。
心よりの拍手を、我が娘に贈る。