2015  河原シュタイナー教室 ドラマ

娘と娘達    (2015 ドラマ)

1 誕生

 真子の誕生は10月31日。二人目の慣れか、私は病院にはいなかった。だから私が初めて真子を見たのは1週間後、女房の実家へ帰って来た時だった。まだ1週間なのに髪の毛が日本人形のように長く、黒々としているのにびっくり。康太はほとんど生えていなかったのに。
 髪の毛だけでなく、兄妹で性格の違いも大きかった。康太は引っ込み思案で親の後ろをついていく性格だったが、真子は自由に動いた。10ヶ月で歩いたが、2歳の頃には30センチ以上の段差のある裏庭に自分一人で降りた。腹ばいになって足の方からそろり、そろりと下がっていき、しっかりと足を着く。そして裏庭で一人で遊んだ。康太だとそんな危険なことはしなかったし、一人遊びもほとんどしなかった。当時から真子は独立心旺盛だったのだろう。
 3歳の時に小浜在住の卓球の教え子のところへ遊びに行き、一つ年下の娘と海で遊んだ。私は海に潜ってサザエをとり、康太と真子、そこの娘は浮き袋で泳ぐ。1泊して帰って来ると真子は、すぐに絵を描き始めた。画用紙の下半分を水色の色鉛筆で塗りたくる。
『何をしているんだろう?』
それは海だった。下に潜っている私を描き、水面には浮き輪をつけた自分達3人が泳いでいる。構図のうまさに驚かされた。
「○○ちゃんにあげる」
教え子の娘に送ったが、やはり絵のうまさに驚いたようだった。
 保育園には「2歳児クラス」から通っている。3歳で初めて行った康太は、初日は恐がってひどく泣いたが、真子は平気だった。
教師の言い付けにはよく従い、運動会の時には
「演技や競技中は、親が来ても話さないように」
と言われると、私や母が傍に来ても目も合わさない。康太はそういう言い付けはすぐに忘れたが、真子はくそ真面目であった。
ぽっちゃり体型の割にはマットや跳び箱などの運動は大好きで、得意でもあったようだ。その様子を見た他の母親たちが
「真子ちゃんの運動、すごいですねえ」
というのを何度か聞いたことがある。

2 小学生・中学生時代

 小学2年生になると康太について来て、私と卓球を始めた。
500円の出来合いラケットで康太と交代でボールを打つ。少しずつ上達し、小学5年の頃にはそこらの中学生では勝てないほどになっていた。運動はそれだけではなく、ソフトバレー、テニスも習った。小型バスで炭山まで行き、テニスをして帰って来る。ジュース代として150円を持たされた。おつりは30円。
 康太ならその30円を「握りしめて」帰って来るのだが、真子が御蔵山商店街で見つけたのは30円の揚げ物。消費税をどうしたのかは知らない。自転車で家へ帰って来ると、ビニール袋に入った揚げ物をその手に持っていた。
 点数に無関心だった康太とは違い、成績でも人に負けたがらなかった。私がびっくりするくらいに5のコレクターだ。しかし真子は
「成績とはそういうもの」と思っていたようで、いくら5を集めても、自分が人より賢いなどとは思ってもみなかった。
運動会では1度だけ「ぜひ見てくれ」と言ったことがある。走るのは速くもなかったのだが、組合せのメンバーを見て「これなら勝てる」と思ったようだ。本番では・・・思い通りに1位。真子が運動会で1番になったのはこの時だけだったと覚えている。
 教室へは康太と同じく小学5年からやって来た。兄と同じように勉強できるのが嬉しくて仕方ないようだった。何事にも真面目に取り組み、平和で穏やかな小学時代だった。
 中1の夏は圧巻。初めて参加した宇治市中学生卓球大会で決勝に進出した。相手は一緒に練習して来た同級生のリサコ。もう一人のナゴと共に、初参加の1年生が1・2・3位を独占してしまった。
ただ、それほど頭抜けて強いわけではなく、山城や京都ではそれほど勝てなかったが、宇治市ではこの3人で1度も負けなかった。
 真子はクラブの傍ら生徒会活動にも積極的に取り組み、伸び伸びとした中学生活を送っていたが、中3になると高校進学も考えねばならない。私は康太と同じく莵道でいいと思っていたが、真子は上昇志向だった。まだ自分の能力に自信のかけらもなかったが、
「国語と英語は人より少しは出来るみたいやから、嵯峨野高校の英語科で力いっぱい勉強できひんかなあ?」
それで母と一緒に何度か説明会に足を運んだ。しかし最後の説明会では女房が突然のぎっくり腰になり、私がついていくことになった。
 何人も生徒を送り込んだ嵯峨野高校だが、私が行くのは初めてだった。JR太秦駅から徒歩5分。たくさんの親と生徒が集まっていた。真子は文系志望だが、説明は自然科学の活動ばかり。誰が聞いても自然科学の方が楽しそうだ。案の定その帰り道、真子が言う。
「自然科学を受けたら、落とされるかなあ・・・?何とか合格できても、授業が始まると、やっぱり真子ではついて行かれへんかなあ」「いや、ついて行けへんこともないと思うけど・・・」
そこで初めて文系から理系へ方向転換が決まった。自分に自信のない真子は猛勉強し、適性検査で上位で合格したようだ。普通は合格が決まっても3月6日の試験をなぜか「形だけ」受けに行かなければならないが、上位の生徒はそれを「免除」されるらしい。私はそういう生徒を見たこともなく、その制度を知らなかった。真子が初めての生徒だった。


3 高校入学

 高校へ入学した真子には楽しい事ばかりだった。高校までは遠いがJRで通うのも新鮮であり、平気だった。理科系とはいえその年のこすもす科は女子が多く、たくさんの出会いもあった。
クラブでは卓球に見切りをつけサッカー部に入った。女子部員はいなかったが気にもしていない。学校が楽しくてしばらく勉強は放ったらかしになっていたようだ。
 教室のメンバーはがらりと変わった。中学からの子はメイ一人。
ユウカ・ミオ・ミユ・サキコ・カイの新人はメイも含めて全員莵道高校の生徒だ。女子ばかり。これもまた指導が難しい。
新人には普通にあることだが、真面目ではあっても穴が多かった。
その穴は中学まではあまり意識されないが、きちんと埋めていかないと高校の数学はすぐに目が見えなくなる。暗記が多い中学と、思考部分が問われ始める高校とでは質が変わるからだ。たいていの場合高校生はその質の変化に気づかない。
「高校から数学がダメになった」というのはそういうことだ。質の変化に気づかず、中学時代と同じように暗記中心の勉強法をとるせいだ。しかも女子の場合、高2終了時点で出来るだけレベルを上げておきたい。理科系であれば高3で男子と同じスタートラインだと、なぜか理屈ではなく力負けしてしまう。穴を埋めながらなるべく早く意識レベルも上げようとビシビシと勉強させた
 唯一の男子タイスケは高1の冬12月にやって来た。おとなしい子で真面目に勉強に取り組もうとするのだが、たくさんの穴に自分で気づくこともできず、まさに崩壊状態であった。数学の穴とはそういうものだ。自分で気づけるものではない。自分ではわからないから、なにをしていいかもわからず、ついには数学を全く触れなくなってしまう。
『やれやれ、これは大変だなあ』そう思った。その数学の構造を詳しく説明し、生徒は黒板で問題を解き練習する。女の子達はすぐに解き始めるレベルに達していたが、タイスケは黒板に数字を書く事も出来ない。そんな状態が一ヶ月は続いた。
『もう、やめちゃうかな?』
しかしタイスケはまるでわからなくても、私の説明を聞き、ノートに取ることがなぜか楽しかったようだ。
今までは数学をこのように解説してくれる人はいなかった。まだ全然理解はできないけれど、いつか自分にも数学の扉を開けられる日が来るかもしれない・・そういうものを感じていたのかもしれない。
 真子は夏まで勉強は後回しだったが秋になって数学がわからなくなり、慌てて勉強し始めた。冬にはずいぶん取り戻せ、この調子で行こうという頃になって、次第に体調が思わしくなくなっていくことにも気付いた。なぜか食欲がない。普通に歩くものしんどく、そろりそろりと歩いては一緒の友達に「ごめんな、ゆっくりしか歩けなくて」と謝っていたようだ。家でも時々そういうことを母と話してはいたが、「ま、明日にはよくなるかも」と、まさかそれが病気であることなど誰も夢想だにしなかった。3月に真子は高1最後の模試を三条まで、フラフラになりながらも受けに行って来た。


4 癌

 5月末の夜10時前、私が家に帰って来ると、真子はぐったりと横になっていた。もう一ヶ月ほどろくに食事も取れていない。見ると右腹部が盛り上がっている。
「おかしい!おい、病院へ行くぞ!」
すぐに車に乗せ医療センターの救急外来へ連れて行った。エコーで調べると、腹部に大きな腫瘍らしきものがあった。詳しい検査は明日になるから、今からすぐ入院するか、一度帰って明日また来るかと言われた。何の用意もしていなかったので一度帰ることにした。
まだ誰も事の重大さには気付いていなかった。
「少し動いたら楽になった」と、真子は平静を装っていた。
 翌朝は女房が真子を病院へ連れて行き、私はいつも通り教室で授業の準備をしていた。女房からの電話は昼前だった。
「真子、癌!夜に緊急手術する!」 叫び声だった。
「ガ・・ン・・・?」
 女房がなにを言っているのかわからなかった。衝撃が大きすぎるとそうなるのだろう。親戚の年寄りが癌になることはあっても、真子のような高校生がなることはないし、あってもそれはテレビ画面の向こう側の話で、現実に起こるとは思えなかった。いったい何を言っているのだろう?
 病院へ行ってみると医師の説明があった。ほとんど覚えていないが通常は「3」とかひと桁であるはずの腫瘍マーカーの数値が7万であること。片方の卵巣が直径10センチ以上の腫瘍になっている事。普通は良性・悪性の検査などをしてからの手術になるが、生命の危険があり緊急を要すること。「若年性卵巣癌」それが真子の病名だった。
 切除手術はぶっつけ本番だった。腫瘍は血管がどこへ回るかわからず、慎重に調べてからメスを入れるが、その暇もなかった。生命を考えてとにかく切り取ることが最優先だったらしい。医師が目で見て血管を避けるが万が一の大出血の場合、輸血の承諾書にも署名させられた。
 3時間予定の手術はしかし、1時間半ほどで終わった。医師に呼ばれて行くと、透明なビニール袋に入った腫瘍を見せられた。通常ウズラ卵大の卵巣が、信じられない大きさだった。
「これから検査に回しますが、間違いなく悪性です。手術はうまくいきました。少し癒着した部分は焼き切りましたし、出血は200CCほどで済み、もう片方の卵巣も含めて他の部分はきれいでした」
すぐに真子が台座に乗って出て来て、麻酔が切れると猛烈な痛みを訴えた。
「痛い、痛い、我慢できない、痛い!」
「おお・・おお・・看護師!もっと痛み止めはないのか!何とかしろ!おお・・・おお・・・」
真子の身体をさすり、私もただ泣くばかりだった・・・・・
 それから1ヶ月の授業は記憶にない。考えないようにしようとしていたが、ふぃに言いようのない恐怖に襲われ、ボロボロと涙を流す。翌日から歩くように言われた真子は下腹を手で押さえ、支えてもらいながら、そろり、そろりと歩いた。その姿にもまた、ボロボロと泣かされた。医師からの説明はまだない。たまりかねた康太が大学の図書館へ通い、インターネットでの調べ、1週間でまとめ上げた。
「若年性の場合成年と違うのは、卵子の一つ一つが腫瘍化するところらしい。非常に珍しい癌だけど、たいていは良性の腫瘍で、稀に真子のように悪性化することもある。20年ほど前までは不治の病だったが、画期的な抗癌剤が開発され、今ではそれで死ぬことはほとんどないらしい」
素人が調べたものだが、家族は藁にすがる思いだった。
「そうか!助かるのか!ははは!」
女房はひどく自分を責めていた。毎日一緒に風呂へ入り、一緒に寝ているのに、こんなになるまで気づいてやれなかった。もう少しでも早く気付いてやれていれば・・・
「千葉の辺りに日本最大の癌治療センターがあるらしい。真子をそこへ連れて行こうか・・・」
 ほとんど錯乱状態であったと言っていい。きっと私もそうだったのだろう。車を電柱にぶつけたり、ガードレールにこすったりを繰り返した。「子供の代わりに私の命を!」というのはテレビの話で、それを信じていなかったのに、それが本当であることを思い知らされた。真子を生き延びさせるためなら何でもできたように思う。
 しばらくして検査結果が出てきた。確かに悪性ではあったが、その内容は康太の報告とほぼ同じだった。
「そうか!では、助かるのですね!?」
「抗癌剤の作用は個人で違いますから断定はできませんが、基本的には治る癌です」
「そうか、そうかあ・・・」「しかし・・」「しかし?」
「内臓を検査してほとんど転移は認められませんが、肝臓に薄い影が認められます。これが何なのか・・さらに詳しく検査しましょう」
肝臓癌・・・もしそれがそうなら、転移していれば、それが死刑判決と同じことは、素人の私達にもわかった。


5 奪われたもの

 3月に辛い思いをして受けた模試の結果が届いた。京大医学部にA判定がついていた。それには真子は冷静だった。
「ふ〜ん、ま、また頑張ればいいわ」
 抗癌剤治療は3種混合剤で、3週間かけて1回が終わる。腫瘍マーカーが一ケタになって「念のためもう1回」だと聞いていた。
吐き気止めもよくなっているだろうし、真子も治療中に病室で勉強すべく、教科書や問題集を大量に持ち込んでいた。しかし・・・
その吐き気と身体のだるさは想像を超えていた。
吐き気・頭痛・倦怠感・食欲不振、とても耐えきれるものではなく、真子の勉強計画はあっさりと崩れていった。
 1回目の治療を終えた頃、留学の審査結果が届いた。府立の生徒限定で40人を夏休みにイギリス・エジンバラへ送り、大学で講義を受けたりもするらしい。選考は作文による審査で、得意な真子は張り切って書いたという。入院した頃からそれを気にかけていた。
「落ちた方が気が楽。受かってたらどうしよう・・・」
結果は・・合格していた。真子は何とか行けないかと医師に言った。
「夏休みだと3回目あたりだねえ、無理ですよ」
真子は我慢できず、ひどく泣いた。
「何とか、なんとか行きたい。向こうで抗癌剤治療を受ける。死んでもいい、なんとか行きたい、うわ〜〜ん、ああ〜〜」
勉強の時間も留学も、勝ち取ったはずのものがすべて奪われて行った。やがては頭髪も抜けていった。
抗癌剤だけは驚異的に効いた。7万のマーカーが2000、50、7と、3回で平常値に落ちた。
「お!4回で終われるな。9月から学校へ行けるかな?」
しかし主治医の判断はあと2回だった。すると学校へは行けても10月以降になる。すぐに復学できるのだろうか?出席日数も気になり、学校まで問い合わせに行った。
「そこまで休むとなると・・・危ないのは国語と英語のリーダーですねえ。あと2回で不足になります」
それは真子なりに考えたものだった。体調が悪くなっても理数科だけは休めなかったが、得意の英語と国語なら・・・今日の午後は早退しようか・・・それでその2教科の休みが多くなっていたのだ。私は留年させようと思っていた。ここで無理をさせるより、残り半年をゆっくり静養させた方が真子の身体にはいいだろう。しかし真子はギリギリなら行くと言った。
「病気で留学まで奪われたのに、同級生と一緒の卒業まで奪われるのは嫌。何とかして行く」
胃も腸も荒れて食事も満足にとれなくなっているのに、ぐったりとベッドに横たわりながらも、そう言い張った。

「肝臓に関しての所見があります」ついに判決の時が来た。
「あんたが聞いて来て・・・」「お前、行ってこいよ」
夫婦二人とも恐ろしくて聞きに行きたくなかった。しかし、判決は聞かねばならない。検査室で待つと、医師がやって来た。
「この影は血流が映っているようです。癌ではありません」
「はあ〜〜〜!」それまで止まっていたかのように、夫婦で息を大きく吐いた。床へ崩れ落ちそうになった。
助かった、助かった、真子は助かった・・・全身の力が抜けて、その言葉だけが頭を駆け巡っていたように覚えている。

 5回目の抗癌剤治療を終えた後、ゆっくりする間もなく通学計画を立てねばならなかった。階段はおろか上り坂すらきつかったので京都駅経由は無理だった。ホームが端から端だから。色々調べて地下鉄で二条へ行き、そこからJRで太秦駅へ行くのが一番負担が少ないようだ。しばらくは母がついて行ったがその後は、友達の手を借りたりして階段をこなしたようだ。
もう休めないから仕方なかったとはいえ、なぜ休まずに通えたのか、後になるほど不思議に思えた。とても通える状態ではなかった。
 抗癌剤の影響は2年経った今でもはっきりと残り、週に2回は起き上がることすら思い通りにならない。その当時なら意識朦朧として通い、授業を受けていたことになる。勉強どころではなかった。
 一ケタだった成績の校内順位も100番台に落ちていた。何よりも、進学に必要な物理と化学は2年生からスタートする。その出だしを半年間すっぽりと抜かれてしまっている。これは後半の半年とはその意味が全く違う。これから扱う事の基本を全部やってしまう半年を聞けなかったのだ。これは全部「自分でやる」ことと同じことだ。それは無理だ・・・私にもどうしていいかわからなかった。

 教室では「真子の分も」と、娘達は心新たに勉強していた。ユウカの数学は日に日に力強さを増していたし、ミオ・ミユも後に続いていた。タイスケ・カイ・サキコ・メイも形は整ってきたが、それだけでは受験に対抗できない。まだまだ頑張らせなければならなかった。


6 受験

 出席日数は1年間のもので、学年が変わるとリセットされる。何とか進級すると真子は、緊張の糸が切れたように週に2日は学校へ行けなくなった。けれどその程度では卒業に影響はない。家族で図太くなったのか、その面ではずいぶん気楽になった。
 さあ、1年分ほどの遅れを取り戻さねばならない。女子ばかりのクラスでは数Vの進度も遅れていた。この学年から新課程に切り替わるのだが、数Vがどのように変わるのかがよくわからなかった。問題集が出されれば内容がわかるが、その出版も遅れている。ようやくテキストが出され、その内容にびっくり。数C(選択)がなくなり、数V(必修)に組み込まれている。しかも行列が無くなり、複素数平面が復活している。全体的に1.5倍ほどの量になった印象だった。どの学校もどんどん先へ進むためバタバタと生徒が討ち死にして行く中、出来る限り修復して行くしかなかった。
 数学ではっきりと頭角を現してきたのはユウカ。2年間コツコツと積み上げてきたものがしっかりと定着し、理解が深まって来ていた。少々複雑で面倒な問いにも腕力でねじ伏せるような解答は凄味を感じさせた。真子もグイグイと遅れを挽回してくる様は力強さを感じたし、ミオ、ミユの力も安定して来ていた。タイスケ、カイ、メイ、サキコも標準は突破してはいるが、まだ安定しているとは言えず、本番にギリギリ間に合うかどうかの状況が続いた。
 国立大学を受験しようとすれば、勉強しなくてはならない教科が増える。真子は物理と化学が、ユウカは語学がと、苦手な教科も失点しないように底上げをしつつ、得意教科をさらに伸ばさねばならない。どの子も自宅で、または教室のフリースペースでじっと座り続ける「座敷童子」にならざるを得なかった。
 そんな秋にミオが看護科の学校推薦をもらえたと言って来た。指定校推薦は2人で、その一人に選ばれたのだ。選考は論文と面接で2倍ほどの倍率となり、合格の保証はない。しかし私には「きっと合格する」という確信が持てた。山奥の村に生まれ、1学年2〜3人の小学校で育ったミオは「あるがままに受け止める」と言う素直さと、努力を積み重ねることが出来る強さがあった。育まれた学力も不足はない。はたして、12月に合格を決めた。
 他の子は全員センターテストを受けた。数学がとんでもなく難しくなっており、日本中の高校生が潰されるなか、うちの生徒のほとんどは踏ん張れており、ユウカとタイスケは高得点となった。
 タイスケは2年間ず〜っと、ず〜っと数学がよくわからなかった。
しかし逃げ出さずにいれた。「これはどういうことだろう?」と探り続けていた。今の日本の高校生のほとんどは知らず、教師もすっかり忘れている。「探り続けること」こそが学びそのものだという事を。
 タイスケは直前になって高得点を出し始めていた。
「あれ?93点・・・?嘘だ、まぐれだろう」
嘘ではなかった。タイスケは得点を気にせず、数学そのものを面白がるようになっていたのだ。
「生物の勉強は暗記ばかりで全然おもろない。どうやったら数学みたいに面白くなるんやろう?」
口もきかなくなっていた父とも、そういう話までするようになっていた。その高得点はまぐれではなかったのだ。
 ユウカは志望校には「断然有利」になっていたが、他はボーダーラインか「やや不利」になっていた。しかしセンターはあくまで目安で、合否のほとんどは2次テストで決まる。ユウカも安心など出来ないし、他の子も落ち込む暇もない。
 真子が最少失点のボーダーラインまでこぎつけたのは、ほとんど奇跡的に思えた。高校でしっかり勉強できたのは1年生の時だけで、入院だけでも半年に及び、その後は薬の影響か日光に当たるだけで皮膚は「みみず腫れ」になるし、吐き気に襲われるしで、少しずつしか勉強できなかった。それでもボーダーラインまで来たのだから浪人する気もさらさらなかったが、不安を口にはした。
「やっぱり・・・無理かなあ・・・?落とされるかなあ・・?」
「なあ真子・・・2年前に死んでいたかもしれないんだ。そうなっていたら受験もなかった。命を拾い、少しずつでも勉強も出来て、
志望校を受験できるだけでも、幸せなことだと思わないか?」
 私はもう、合否など問題ではなくなっていた。娘達は学び続けることが出来るし、その大切さ、面白さを学びとっていた。それ以上に私に出来ることはなく、それだけで十分に思えた・・・
 ユウカは2次の数学が思ったようにできず、真っ青になったが逃げ切っていた。真子は数学は思ったより考えられて、化学は全部解けたが物理が解けず、今年は届かなかった。カイと共に来年、もう一度チャレンジすることになる。タイスケは後期試験で合格を決め、ミユ・メイ・サキコもそれぞれに未来の扉をこじ開けた。
 受験後真子は、高校の友達4人とディズニーランドへ卒業旅行に行って来た。行きも帰りも夜行バスという、1日だけの強行軍だ。
それが出来るまでに体力も戻ってきた。精神的にも解放されたのか、吐き気に悩まされることもめっきり減り、ようやく薬の影響力が薄れてきた感がある。この1年こそ存分に準備ができそうだ。
「この大学で学んできます」
タイスケ・ミユ・サキコ・メイは嬉しそうに、あるいはすっきりした顔で報告に来てくれた。カイは教室の掃除に来てくれて、
「今は遊んでま〜す♪もう一度頑張りま〜す♪」
と、元気に笑ってくれた。
どの子も学びそのものを学んでくれたように思う。まだまだ力の弱い「ひよっこ」ではあるが、その方向で学び続ければ、きっと次の扉も開く時が必ず来るだろう。そんな姿を見せてくれたこの子達に感謝しつつ、これからもそっと、見守り続けようと思う。