2014 河原シュタイナー教室 ドラマ
少年の頃 (2014 ドラマ)
1 出会い
卓球の練習場に両親に連れられてショウが現れた。まだ小学5年の冬だが、毎日行っている練習場では指導者の大人も負かすようになったらしい。腕試しの他流試合に来たのだ。こちらには中1の康太と小6のモトイがいる。康太は前回ショウに負かされていた。
「今度こそは・・・」康太も闘志をみなぎらせる。
はたして、試合は大激戦。1・3セットを鋭い攻撃でショウが取り、
2・4セットを康太が取り返したが、「つ、強い・・・」康太はプレッシャーを感じながら最終セットにもつれ込んだ。
ところがあまりの激戦に、まだ小5のショウの体力が尽きたのか、
その攻撃を康太がことごとく跳ね返すようになり、ついにショウは力尽き、敗れてしまった。ガックリ・・・・
しかし康太がショウに勝ったのはこれが最後だった。その後ショウはメキメキと強くなり、京都のトッププレーヤーへとなって行った。
この頃私は一人の若者を講師に育てようと、8人しかいない小5のクラスをあえて2クラスに分け、授業を進めていた。
サチエは当時からガリガリの少女であり、ミツハは我がままで生意気であり、ゲンキは目をぎょろりとさせたチビだった。
おや?記録を見るとショウとクニカズもいる。そうだったっけ?
第2クラスにいたのだろう、その記憶はほとんどない。
当時から「天然さ」で印象に残っているのはサチエだ。私立の小学校にいたのだが、そこは中学から女子校になる。それを小6になるまでサチエは知らなかった。「男の子もいた方が面白い」
そう言って中学受験し、教育大付属中学へ進んだ。いわば「才気煥発」な娘で、当時の学力はかなり高かったのを覚えている。
中学1年生となり、生徒の数は一気に増えた。私のクラスには
ミツハ・ミツヨシ・マスミ・ダイスケ・サチエ・カンタローがおり、ゲンキ・ショウのクラスにリョウも入って来ていた。
ダイスケはおとなしいチビで、授業を進めると、2桁の掛け算の答えが合わない。「おかしいな?もういっぺん、やってみ?」
やらせてみると、まず1の位の数をかけ、次に10の位の数を掛けるときには10の位から書くのに、やはり1の位から書いていたための失敗だった。・・・大笑いしたものだ。
マスミは元気な娘ですぐにサチエと打ち解け、当時プランターに植えてあったイチゴを、二人でこっそりと食べていた。ミツヨシとカンタローはまだ力も弱かったが、まっすぐに取り込むことはできそうだった。リョウはまだ学びの意味もわからず、色白でひょろりとした少年だった。
メイミはかつての塾生の妹で、6月からだった。母から電話を受け数日後、一人で教室にやってきた。職員室で作業していると、窓の向こうに小さなメイミが姿を現した。どこか兄に面影が似ており、初めて見る妹なのに、すぐにそれとわかった。懐かしい風が吹いて来たように感じたことは、はっきりと覚えている。
2 クラスを統合する
ショウは中1の夏から団体戦のレギュラーになった。康太達3年生も"そこそこ"強かったのだが、もうひとランク上を狙うなら
ショウの力が必要だった。しかしショウは期待されるほどは勝てなかった。この頃は無邪気に卓球と戯れ、自分の強さに態度も大きくなりがちで同級生から嫌がられることもあったのだが、それは見た目とちがい"自信のなさ"が原因だった。
試合で負けるのが恐い。怯えたらダメだ・・・相反する想いが少年の心に響いていた。まだ中1のショウはそのプレッシャーに押しつぶされ、その夏は活躍することが出来なかった。しかし中3の夏には近畿大会でシングルス3位となり、全国大会に出場している。
そこでは貴重な体験をしている。大会前日に練習させてもらおうと練習会場へ入ったその瞬間、
「ここは、俺なんかが来るところではない・・・」
全国レベルを肌を通して感じることが出来たのだ。とてもじゃないが、自分では練習相手にすらならない。それはどこか思い上がっていた自分をいさめ、冷静に自分を振り返ってみる、初めての経験であったろう。それ以後のショウの態度が、何事にも、変わって行くきっかけになった。
そろそろ学びを深めていくべき中2の9月、私は第2クラスが
妙なことになっているのに気がついた。出来る子も出来ない子も辞めていく。やらせるからには任せていたのだが、少し注意して見ていると、生徒が15分・30分、平気で遅刻するようになっていた。
それでも講師は「ワハハ」と受け入れている・・・。それ以前に中3第2クラスの偏差値が急激に下がるということもあったのだが、
ここへきてぼんやりしていた私にもその原因がはっきりとわかった。
その講師は数学の「技術」を教えることに興味はあったが、生徒を
"鍛える・育てる"ことには何の興味もなかった。事実、生徒の状況など目もくれず、自分の趣味に没頭していた。
「教えることは、ちゃんと教えてますよ。何が悪いの?
生徒の成績が下がるのは、生徒の責任でしょ?」
根本的に私の教育観とは"ずれ"があり、修復できそうにもなかった。それでも年度末まで責任は取るべきものなのに、その講師は
10月「今日でやめてもいいか?」と言って来た。受験直前の中3も知ったことではなかったのだろう。11月からその講師をやめさせ、2クラスあった中学クラスを一つにした。
もう何人もがやめていた第2クラスだったが、残っていた生徒でも私の「普通の授業」についてこようとしない生徒もいた。
「何で遅刻がいけないの?好きな時間に来て、授業の半分ほどは
おしゃべりしてれば楽しいのに」
もう、そういう風に育ってしまっていた。私の授業となり、そういう生徒の何人もがやめていった。教科を通して何を学ぶべきかがわからないのだから、それはそれで仕方なかった。
3 巻き返しの中3
私は学びの基本を強烈に建て直さねばならなかった。まずは時間の厳守と心構え。教師よりも先に教室に入り、教師を待つのは当たり前だ。たったそれだけのことを、リョウはずいぶん戸惑い、クニカズとその相棒はまだ守れなかった。5分、10分遅刻し
「わりい、わりい」と入ってきて、めんどくさげにノートを取る。
それは学びの姿勢が出来ておらず、成績が悪いのは当然のことなのだが、それを直すのにもかなりの時間を要する。
ゲンキは根が真面目なのか私の厳しさの方が合っていたようで、
猛然と勉強していた。それはもう「他に楽しいことはないのか?」
と思うほどに勉強する。それはいいのだが・・・
私は一つの懸念を感じていた。中学教科の性質上仕方のないことだが、その勉強は「暗記・模倣」に偏り過ぎる。高校以上では
「視点を変える」ことの方が重要になるのだが、「単純暗記」は
その妨げになることもよくあるからだ。ミツヨシもまた5のコレクターになっていたが、中学の5は不確定要素が多い。簡単に言えば、
「5の取り方」があるらしい。そればかりに気を取られねばいいが。
サチエとメイミは語学のセンスが良く、それさえあれば中学ではどの教科もこなしてしまい、勉強量の少なさはハンデにならなかった。これは・・・高校で思い切り叩くしかない。
カンタローとダイスケは少しずつしか伸ばせないが、物事に正面から対峙するところがあり、おおむね心配はなかった。リョウは戸惑いながらも、まだ訳がわからなくとも、本当の学びがどういうものか、知らず知らずのうちに探し求める方向へ動き始めていた。
ショウ・マスミ・ミツハは「クラブ命」だったがバシバシお尻を叩き、全15人の学習能力は比較的高いところまでは持って行けたのだろう。
4 新たな視野
高校の合格発表を見たショウが報告に来た。
「あのう・・・2年生から、僕なんかが、物理を取れますか?」
私はショウの意図がわからなかった。
「どうして?どうしても必要なら、取ればいいだろ?」
「取れますか!取ってもいいんですか!?」
変な奴だなあ、何を気にしているのだろう?
「小さな頃から卓球ばかりしてきて、ちょっと強くなったらいい気 になって、勉強は何もして来ませんでした。高校に入れたのも不思議なほどです。語学なんかまるでわからないし・・・・
大学でも卓球を続けたいのですが、僕は5人兄弟の4番目で、私立へ行くだけのお金がありません。しかし僕なんかが国立大なんて
・・・もし可能性があるとすれば、おかげで数学だけは少しはましなので、数学と物理で行ける地方の国立大があるのかも・・・
大学のことは何もわかりません。僕なんかに出来るでしょうか?」
確かに卓球は強くなって、そうすると「自分が一番偉い」と錯覚する選手は多い。そういうショウの態度を疎んじる仲間もいた。しかしショウは中3の全国大会へ行ったことで自分の錯覚に気づくことが出来た。全国には太刀打ちできない、ものすごい奴らがいる。
その事に気づいてみると、自分がいる位置、能力、環境・・すべてのものも一気に見え始めたようだ。
「お前の兄、ケンイチロウも同じようなものだったけど、京都大学へ進んだじゃないか」
ケンイチロウは11期生で、ショウの14歳上の兄だ。
「あまりに歳が離れすぎていて、兄が大学へ行った時は、僕はまだ3歳・・・何も覚えてません。父や母からその時のことを聞いたこともなくて、兄がどういう高校時代を過ごしたのか、どういう勉強をしていたのか、何も知らないのです。僕に同じことが出来るとは、とても思えません」
後にわかったのだがその時のショウは、島根や鳥取などの地方大学を本気で考えていたようだ。
「ケンが高校へ入った時は、卓球ではお前の足元にも及ばなかった。運動能力も優れてはいなかった。ケンに言ったことを教えてやろう。"もし卓球が強くなりたいのなら、お前は頭脳で勝負しなければならない。勉強しろ。それは点数を求める勉強ではない。そんなものでは卓球を強くしない。教科の底を流れる本当の流れを見に行くような学びだ。それが出来れば、卓球も強くなるだろう"
高校時代のケンは、卓球も勉強も良く頑張ったよ。
それは、お前にも出来るはずだ」
ショウは元気な顔で帰って行った。新たな一歩の始まりであった。
高校からの新顔は、ミヤビ・タクト・トモトの3人。ミヤビとトモトはまだ力も弱く、学ぶ方向性がわかっていなかった。この3年で少しずつ育てていかねばならない。
入学直後の府立高模試ではダイスケ・タクト・ショウ・リョウの4人は、そろって校内60番台であった。
「康太も確か、このテストで63番だったぜ」そう言うと、
「俺達も頑張れば、何とかなるのかな?」と、嬉しそうだった。
劇的に変化したのはクニカズ。最初に出した国語の宿題解答用紙にはびっしりとメモが書き込まれていた。単語や熟語の意味をことごとく調べたのだ。そういう学びにクニカズは初めて気づいた。
「言葉の意味を、こんなにも俺は、知らなかったんだ。中学時代の俺は何をしてたんだ?勉強もせず、気楽に遊んでばかりで・・・」
そのメモは端的にそう物語っていた。中学時代は何度叱ってもへらへら笑うばかりで、学ぶ方向性を見つけられなかったが、この国語をきっかけに、学びのスタイルはどんどん良くなっていった。
サチエ・ミツハ・マスミ・メイミ・ミツヨシは、とにかく学校が楽しく、勉強は中学時代と同様に、才能と暗記で乗り切れるという錯覚がどこかにあった。それを叩き直そうと、内容のレベルは高く保ったが、あまりうまくいかなかった。ミツヨシはテニスに集中するために、夏には数学をやめた。
カンタローは少しずつ学びを深めるが、マイペース。ゲンキは授業がとても速い高校へ進学したが、勉強が趣味みたいな奴だから、少しもそれを苦にしてはいなかった。それぞれの高校生活が、そうやって始まって行った。
5 座敷童子 再び
クラブと塾の両立で苦労したのはタクトだ。顧問が許さない。
「塾だあ?そんな中途半端でクラブは出来ない。塾なら塾、
クラブならクラブで、塾などの暇はない!」
何度か説明もお願いもしたが、顧問は頑として首を縦に振らず、タクトは先生の意見を無視して両立を続けた。
ようやく許しが出たのは1年後輩の女子が現れた時だ。その子も塾など許されなかったが、ある時廊下で呼び止められた。
「タクトやお前が通おうとしている塾って、ひょっとして・・・
シュタイナーとかいう・・・塾じゃないよな?」
「はい!河原シュタイナー教室です!」
「・・・それなら・・行ってもいいわ・・・」
この顧問の先生、かつて康太を3年間担任してくれた先生で、うちの教室のことはよくご存じだったのだ。初めてタクトと後輩はクラブと塾の両立を許された。
1年の秋になった頃、先輩を真似て毎日フリースペースに座り
「座敷童子」し始めたのはダイスケだ。来る日も来る日も顔を出し、2〜3時間も勉強する。
先輩と同じように、大晦日も、正月三が日も・・・・
きっとダイスケは決心したに違いない。中1の「掛け算事件」以来、不器用な自分だ。人と同じことをしていたのでは何も見つけることも、気付くこともない。少しずつでも、毎日勉強しよう。自分なんかがどこまで出来るかはわからないが、出来る限り勉強してみよう。
そう決心したに違いない。
その姿は同じ莵道高校のショウ・タクト・リョウ達も動かした。
クラブも楽しいし、友達と遊びにも行きたい。けれど残りの時間は
・・・出来るだけ勉強しよう。それはもう学校のテストのためでも、大学進学のためでもなかった。ひたすら自分を高みへ登らせる。
そういう種類の学びの始まりであったろう。
学びを高めさせるためには「1教科だけ」では難しい。大変ではあっても多数の教科の理解を進めた方がいい。それぞれの理解がお互いを高め合うものだ。ただ、いっぺんにやろうとしても大変で、クラブや遊びの時間もバランスよく取りたい。だから1年生ではまず国語に出来るだけ触れさせた。京大理系の国語過去問をそのつど宿題にし、取り組ませた。国語は「放っておかれる教科」の代表だが、やれば必ず伸びる。クニカズなどはこれに取り組むことで学びの方向性に気付き、それを力として数学の扉を開き始めた。
2年生になれば理科と社会が登場する。それに時間を使わねばならない。しかしこの二つは3年になるまで模試には登場せず、後回しにされることが多い。それが盲点だ。実は2年生のうちにある程度の力をつけておかないと、3年でいくら勉強しても全く伸びず、得点も出来ないということを私は、経験で知っている。うるさく言って学校の授業に集中させた。物理だけは導入と発展が難しく、学校だけでは不十分で、必要ならば康太の授業に参加させた。
ショウ・タクト・リョウ・カンタローなどはいつの間にか、2年生としては十分な力を備え、3年生となって行った。急がず、たゆまず、少しずつ進めていった結果だったと思う。
6 2次力
高校のスタートでは目立たなかったこの子達も、コツコツとしたたゆまぬ勉強を続け、かなりの力をつけて3年生になった。
3年生は忙しい。教科書を終えるのを急ぎながら受験もにらむ。
国立大学を受けるのならば、センターテストを越えなくてはならない。5教科7科目のこの試験はなかなかに厄介だ。ここで失敗すれば2次試験を受けることさえかなわなくなる。
中堅校あたりでは「せめてそこまでは」と、センター対策で精一杯になることが多い。しかしそこに落とし穴もある。
センターテストとは「今までどれだけ覚えたか?」と、「過去」を問う傾向が強い。そして2次試験は「分類や応用」を問い、これから先に伸びるかどうかの「未来」を問う傾向が強い。その差は大きい。
センターばかりに目を奪われると2次で粉砕されてしまう。
また、大学や学科によって配点率も違う。看護学科では筆記試験はセンターだけのところが多く、他の学科ではセンターと2次「半々」
のところも多い。京都大学工学部ではセンターが200点に対し、2次は800点もあり、「圧倒的2次型」である。
私はこのクラスには「2次対策」ばかりを行うことに決めた。
国語や英語は苦手な子ばかりだが、何とか失点しない程度には力をつけて来た。それに対し、理科と社会は十分な力になっていた。
2年生の時から意識して積み上げてきた成果であった。もうそれだけでセンターは乗り切れるだろう。
たゆまぬ努力はこの子達に「学びのフォーム」を身につけさせていた。ならばもう、この子達の「未来を問う」能力を徹底的に伸ばしておこう。出来る限り視野を広げさせておこう。そう思えた。
京都大学や神戸大学の過去問を全員に、同じように考えさせた。
「そこまでは必要のない子には、やらせない」が一般常識だろう。
しかし私は「受験テクニック」には走りたくなかった。
少し難しくても「良問」には、数学そのものの姿が問われている。
本当の数学とは、こういうものだよ。このようにとらえて、いくらでも可能性が広がっていくものだよ・・そういうものが見える。
もう、この子達には最後まで、そういうものを追いかける学びだけを見せておこう。本人達に自覚はないが、それだけのものを見る基礎力はすでに持っていると確信していた。
ならばもう「受験のテクニック」などいらないではないか。
「学びのスタイル」だけを追求しておこう・・・・
最初は全員が目を回した。
「こんなものが、俺に、考えられるようになるのだろうか?」
カンタローやリョウなどは、一時的な絶望感を味わったようだ。
クニカズはその問題に対しては、まだ力不足だった。けれど絶望はしなかった。ろくに解けもしないのに、口元には笑みがあった。
そういう問題に触れることが、まだ見えもしない未来を見ようとすることが、楽しくて仕方ない様子だ。それこそがクニカズが高校から本気になり、求め続けた「学びのフォーム」だったろう。
ショウ・ゲンキ・タクト・ダイスケの4人は順調に伸びていった。問いの意味を捉える洞察力、演算力、表現力、どれも申し分ない。
もう、どの大学へ進もうとも、自分の目指す方向へ歩いて行けるだけの力はついたと感じられた。
7 受験そして卒業
大学受験に真剣になればなるほど、センターテストに対する重圧は想像を絶するものになる。眠れない、頭痛、腹痛、その他の体調不良は、ごく普通のことになる。頬はこけ始め、目だけがギラギラとする「試合前のボクサー」のような顔になるものだ。
センターテスト対策はすべて自分でやらせ、ほぼ全員が「ボーダーライン」の予備校判定になった。受験生は基本的にその判定の大学を受けに行く。
ゲンキとショウは京都大学だと「−23点、E判定」だった。しかしこれも「ボーダーライン」に変わりはない。センターでは英語と国語が50点ずつ、社会が100点の200点満点だ。それに対し2次は数・理・国・英で800点もあり、数・理の配点が高い。
「圧倒的2次型」であり、センターの得点はほとんど気にする必要はない。しかし「受験心理」としては重圧にはなる。二人とも高校からは強烈に大阪大学を薦められ、ショウは安全策を取った。
ゲンキは私に相談に来た。
「僕は受けたいのですが、これだと落ちるのでしょうか?」
「あくまで2次勝負だ。俺は、お前なら負けないと思う」
これが結果的に明暗を分けてしまった。京大の数学は取り組みやすく、ゲンキは存分に力を出せ、その時点でセンターのハンデは取り返せていただろう。阪大は誰もが解けないほどの難問ばかりだった。それならそれで数学では差がつかず、他の教科の勝負になるのだが、事前に全員にそういうことも覚悟させていたのだが、ショウは意気消沈し、重圧に押しつぶされてしまった。
阪大以外の大学では全員が数学で得点を稼ぎ、次々に合格を決めていった。誰も落ちない。予想以上の出来だった。座敷童子のごとく頑張った成果がこれほど現れるとは・・・・・
ショウだけが後期に回ってしまった。センターのハンデは−35点で、しかも2次は数学1教科のみで、250点しかなかった。
これは配点が少なすぎて、基本的には「絶望」の状態だ。
ショウもあきらめていたのだが、肩の力が抜けていたのか、自分でも驚くほど解けた。全部解けた。やることはやった・・・
後期神戸大には浪人していたモトイも受けに行っていた。前期は京大を受けに行き、数学で思わぬ失敗をしたようだ。
二人は卓球部の先輩・後輩で、子供の頃から卓球を競い合う、私の30年来の友人の息子だ。思い入れも違う。
新聞に問題が発表された。バランスのとれた良問で、これだと解けた子と解けない子の得点差が出るだろう。
『ショウなら全部解けたかな?モトイは、失敗してないかな?』
言いようのない不安にさいなまれる日々。しかしそれも終わりが来た。ショウは午前中に教室に来て、合格を伝えてくれた。
しかしモトイからの連絡がない。『落ちたのだろうか?』
午後3時過ぎに現れた。「受かってました」・・・・・
私の全身から力が抜けていった。すごい虚脱感があった。
その日の授業は、覚えていない。気がつくと家への夜道を歩いていた。「よかった・・・よかったあ・・・」涙がこぼれた・・・
あんなに小さかった子供たちが、気がつくと、すっかりと青年になっている。共に学び、教え、教えられた日々。
もう、自分の足でしっかり歩いて行ける。私の力など必要はない。
長く苦しい受験勉強、ご苦労様でした。しかしそれらの日々は確かにお前達を鍛えてくれ、確かな大人にしてくれた。
今後は、さらに高みへと登っていくお前たちの姿を、楽しく見させてもらおう。
本当にご苦労様でした。「満開」の受験でした。