2012  河原シュタイナー教室 ドラマ


ジュニア


1 誕生

 「陣痛から生まれるまでの時間・・・測定不能」
それが康太の記録だ。初めての子供で夫婦共におろおろするばかり。
「生まれるかも・・」女房がそう言うたびに、夜中の2時でも病院へ連れて行くのだが、「まだ生まれませんね」と言われ続けた。
結局予定日から1週間遅れで康太は産声を上げた。すぐにガラス容器の「保育器」に入れられる。少し体温が低かったようだ。
私がまず見たのは手足の「指の本数」だった。指が少なくても、多すぎても困る。・・・よかった、ちゃんと5本ずつだ。
それから顔を見た。すぐに泣きやみ、寝ているかのよう。
「後ろデコ」がやけに突き出し、「エイリアン」のように見えた。
「これが我が子か・・・」
何らかの「感慨」はあったのだが、物言わぬ小さな生き物に、「実感」はなかった。
 1週間で退院し、女房の実家に連れて行った。生まれて1週間なのに、康太は時々笑った。見ていると、周りを見るようなしぐさの後に笑うようだ。ばあちゃんに抱かれていると、首を動かして蛍光灯を見上げるようなしぐさをした。そして「フフン」と笑った。
それは「誕生1週間後の笑顔」としてカメラに収められている。

 2ヶ月半で寝返りが打てるようになった。ハイハイする間もなく、8ヶ月で歩いた。テーブルの下をかがむこともなく、そのままトコトコと歩いていく。そんなに動くのに「まだしゃべれない」というのが不思議に思えた。
 赤ん坊はしょっちゅう寝ているはずなのに、私が帰る夜10時ころにはいつも起きている。
「寝ささないとな」そのままではいつまでも寝ない康太を、私が抱きあげて町内を歩く。車などに乗せると康太は「振動」でよく寝た。
車が動き始めるとすぐに寝て、目的地に着いてエンジンが止まると
パッチリと起きる。ずいぶん「楽な」赤ちゃんだったが、それは抱っこされて歩いても同じだった。歩く「振動」ですぐに寝てしまう。
家に帰って布団に寝かせるときが大変。ヘタに下ろすとパッチリと起きてしまう。お尻から「そ〜っと・・・」それでようやくの「就寝」だった。
 よく親の言うことを聞き、すぐに真似のできる子だった。
「乳母車」は「押すもの」と思ったらしく、自分で押して歩くようになった。自分の足で「キック」出来るようになると「トーマスの4輪車」にまたがり、家の中でも外でも、いたるところへ出かけられるようになった。
 2歳の頃に片言を話すようになったが、「二階=あかい」
「チョコレート=コチョレート」、「へたくそ=いたすこ」は、どうやって覚えたのだろう?
「コウタする!コウタする!」何でも自分でやりたがり、大人がしないことはしなかった。だから家の障子やふすまを破ることはなかった。

 3歳から保育園に入れた。親と離れたことがなく初日はひどく泣いたが、すぐに慣れていった。しかし生来臆病な子で、自分から何かをする子ではなく、保育園で腹を蹴られるなど、いじめられたことがあった。私はすぐに保育園へ乗り込んだ。
「○○と××と△△が康太を蹴っているらしい」そう言うと保母は、
「庭で遊んでいますから、直接叱ってやってください」という。
私が庭で3人を見つけ呼びつけると、ほかの園児も「何事か?」と、周りを取り囲む。
「腹を蹴るとは何事か!今度やったら承知しないぞ!!」
効果てきめんだった。いじめはなくなり、康太は「守られている」ことを実感したのか、伸び伸びと遊ぶようになった。
 段ボールを何枚も切りぬいて張り合わせ恐竜を作るなど、工作的なことはよくやったが、「お勉強」は何もしなかった。字も、
「小学校で習うものだ」と教えなかった。しかし卒園間近になって、
「字が書けへんの、コウタだけやねん・・・」と悲しそうに言う。
私は心を鬼にして教えなかったが、ばあちゃんが「アンパンマンのあいうえお盤」を持ってきた。「あ」を押すと「あ」と声が出る。
知的好奇心がすさまじいから、康太はあっという間にひらがなすべてを覚えてしまった。不思議と「逆さ文字」は書くことがなかった。



2 小学校入学

 「チビ、チビ、チビ、チビ・・・・」
小学校入学記念の全員写真だ。皆小さくて、3月生まれの康太は
ずっとチビだったので、どこにいるのかわからない。真中に5倍ほどもある「お相撲さん」が写っている。大人ではなく、同級生の
「オッテ」だった。彼はのちに、一緒にソフトボールをやるようになった。
「おとなしいが、ぼんやりしていることが多い」
それが担任の康太への評価だった。算数は教えなかった。
「字はきちんと書けるように。工作をたくさんやろう」
康太への私の「教育方針」は、それだけだった。書道教室へは1年から通わせたと思う。なかなか器用で、すぐに有段者になった。
4年からは「そろばん」にも行かせた。指先を使うことは脳の発育にもいいと、昔に聞いていたから。これも10ヶ月ほど通わせたが、最後は「3段」だったと覚えている。
 それよりもスポーツをたくさんやらせた。タッチラグビー、サッカー、ソフトボール・・・・
「え〜?それ、面白いん?」引っ込み思案だったが、やらせてみるとどれも面白がった。ソフトボールは1年生から始めた。地域には5チームほどがあり、その夏の大会の初戦は優勝候補の六地蔵。
「1回表」の六地蔵の攻撃は「23点」で止まった。
「ありえへんし・・・」康太達はうんざりしていたが、6年後、6年生で優勝した時には「同じこと」を六地蔵にやり返していた。
 特に私が何かを教えることはなく、3度のご飯を一緒に食べ、家族であちこちへ出かけて行っては、よく歩き回り、よく話していた。
小学5年になる頃から毎週日曜の午後、私の卓球の練習に、妹の真子と一緒に連れていくようになった。初めて教えたのは卓球だった。
ボールをたくさん使う「多球練習」が出来ればよかったが、その設備もなく、康太と真子は交互に私と打ち合った。
「二つで1000円」のラケットを持たせ、毎週、飽きることなく
それが「当り前」のように打ち続けた。
「他人の子だけでなく、自分の息子にも算数を教えてやって!」
女房の「強い希望」で康太の算数も見ることになった。当時は小学生のクラスをやめており、「マンツーマン」で見るつもりだったが、
それを書いたブログをユウカの親が見つけ、
「どうか、うちの娘も見てやってください!」
そうしてユウカも一緒に見ることになった。当時からユウカはおとなしく、言われたことを素直にやる子だった。まだ「手抜き」の方法すら知らない。
すぐに目を「パチクリ」とさせたケンタが、可愛い顔立ちのハルカもやって来た。小5のクラスはにぎやかになった。
教科書に沿って授業を進め、「向き合い方」の指導をしていたと思うが、具体的な授業内容は忘れてしまった。どの子もおとなしく、
「しゃべるのかな?」と思ったほどだが、康太とケンタがマクドナルドへ行き、ハンバーグを買うと「割引券」をくれる期間だったが、康太には店員が渡し忘れたようだ。康太はそれを言うことが出来ない。そのまま帰ろうとするとケンタが"お姉さん"に、
「おばちゃ〜ん、券忘れてんでえ〜!」
大声で言ってくれたという。ケンタにそんな度胸があるとは想像したこともなく、びっくりしたのを覚えている。
小5・小6の2年間は、算数に関しては何事もなく、静かに過ぎていった。


3 中学入学

 「早く行こう。10分前には校門で先輩を待ってないと・・」
入学前の春休み、康太は卓球部の先輩に練習を誘われていた。
「先輩を待たせてはいけない」と、早くからそわそわしている。そんなところは私にそっくりだ。それから入学後は卓球に没頭するようになり、1年の夏から団体戦のレギュラーになった。
 ケンタは硬式テニスをやっており、学校のソフトテニス部には入らず、街のテニスサークルで続けていた。「運動神経がない」ユウカなのに、なぜかソフトボール部に入ったのにはびっくり。運動に
「触れること」にはあこがれていたのだろう。
 どの子もスポーツがメインであり、勉強は強制もしなかったが、基本的に4はとっており、いくつか5も見られた程度だった。
特に康太は小学校の時から成績自体に興味がなく、ましてや人と比べることなどまったくなかった。私がどこかで
「中学ではそんなに必死に勉強しなくても」
と言ったらしく、それを忠実に守ったのだと本人は言う。
それよりも卓球の方が断然面白く、卓球をするために学校へ行っている感があった。1年の秋の市民大会は3人でチームを作る「3人団体」。康太は2年生の先輩2人とチームを作り、3年生の先輩チームまで負かして優勝してしまう。しかし康太が無心で試合できたのはこの頃までだった。学年が上がるほどに「勝つこと」の責任がついて回り、生来小心者でびびりの康太にはプレッシャーがかかる。
練習試合では無類なほど強いのに、本番の試合では「ここぞ!」という時ほどことごとく負ける。後に「卓球でびびった分、勉強でびびったことはない」と言わしめたほどだ。
 3年の夏、最後の山城大会。団体は決勝の2チームが、個人は上位6人が京都大会へ進む。団体は順調に準決勝へ進み、京都大会をかけた準決勝。康太は3番で相手チームのエース、個人で決勝へ上がった選手と当たり、珍しく「練習モード」で粉砕し、京都大会を決めた。
翌日は個人戦。康太は第2シードの横、弱い選手が入る「パッキン」と呼ばれる位置にいた。宇治大会で「びびり」が出て、ギリギリのベスト16で通過していたからだ。びっくりしたのは第2シードの
「長岡チャンピオン」だ。
「何でこいつがここにいるんだ!?」
かつて練習試合で康太に負けたことがある。彼にとっては初戦の試合なのに決勝のような激しい試合は、セットオールでまたしても康太の勝ちだった。康太はそのまま勝ち上がりベスト16へ入ったが、準々決勝で優勝した選手にセットオールで敗れ、個人では京都大会へは行けなかった。しかし「満足のいく」最後の大会であった。

 卓球部の同僚であるユウスケは特例として中3からやって来た。
中1の頃から卓球の指導はしていたのだが、何をやらせても不器用な子だった。フォアもバックもへたくそ。それでも飽きることもくさることもなく練習にやってくる。
ある時ツッツキをやらせてみたら、他の子よりも回転を強くかけられることが分かった。「切れる」のだ。それからはその技術を中心にユウスケの卓球を組み立てていき、いくらかは勝てるようにもなっていった。
 勉強は進学塾の「中間・期末対策」で3日間だけ行くなど、自分なりにやっていた・・・と思い込んでいた。中3から教室にやってきて共に学んでみると、その甘さを思い知らされた。
「こんなに激しく、こんなにも深く勉強するんだ。
 これが・・・学ぶということか・・・・」
それまでの勉強とは「次元」が違った。それまでどれほど勉強に
「なっていなかったのか」が新鮮な驚きだった。ツッツキと同じように、数学を柱として「学び」に取り組み始めた。
その様子を見て、喜んだのは母親だった。ずっと自由にさせてきたのだが、これほど勉強する自分の息子を見たことがない。しかもそれは「強制されている」のではなく、自ら進んで勉強している。
「正直のところ、塾はどこも同じだと思っていました。
 こんなにも・・・違うんですねえ・・・」
ユウスケの学びは、そうやって始まっていった。

 私立中学へ通っていたコウヘイがやって来たのは中2の半ば。
おとなしくて真面目なのだが、「文脈がつながらない」という弱点をもっていた。例えば英語の単語自体はいくつも普通に覚えるのだが、それらをつなげて文章にしようとすると、まともな文章にならないというようなものだ。それは数学でも同じことだった。
覚えた「公式」にぴったりとはまれば答えは出せるが、少し外されると意味のない計算を延々と続けてしまう。特別な配慮が必要だった。基礎事項を多くし、膨大な量の判例の中で少しずつ「その意味」を理解させてゆかなくてはならなかった。
 母はコウヘイのそういうところを幼児の頃から知っており、中学・高校・大学と10年計画で育てようと私立中学へ通わせた。
それは「正解」だったと思う。この子もまた大人にまで育て上げ、共に生きていかなくてはならない。そのことは、どの子も変わりがなかった。

 クラブを引退すると「受験」だが、康太の勉強ペースは変わらなかった。頑張らせればどこへでも行けそうだが、有名高校の「裏側」を知っている私は、そう言うところへ康太をやるつもりがなかった。
高校ではもう少し勉強もさせるが、卓球と勉強をバランスよくさせたい。そう考えると莵道高校が1番バランスがいいように思えた。
「莵道高校の卓球部から、現役で京大へ行った先輩が2人もいるぜ」
私はそう言ったつもりだが、康太は「莵道から京大へ行く」と聞いてしまったようだ。莵道高校なら無理せずに入学できる。クラブを引退しても毎週土曜の練習は1度も欠かさなかった。高校での卓球部の方が楽しみだったからだ。
 小学校の頃から母に「英語の指導」を受けていたユウカだが、次第に母の言い付けや宿題に「手を抜く」ようになっていた。
「英語はもう十分」と思ってもいたが、「目立ってしまう」ことが嫌だったようだ。英語よりも数学の方が面白く、数学だけは少しは勉強するが、基本的には学校生活そのものを楽しんでいた。
しかし京教大付属高校を受験しようと思った冬の頃からおしりに火がつき、懸命に「一夜漬け」の勉強を始めた。
ケンタは「近くで、テニスも勉強も出来る」東宇治高校を志望。
康太とユウスケは莵道理数科。ハルカは英文科を目指した。
コウヘイはそのまま上の高校へ進学するので、ずいぶん楽だ。

 最後の2ヶ月は私が指揮をとって国語・理科・社会のプリントを大量にやらせた。何の解説もない。2時間ひたすら問題を解く。
解説こそないが大量の知識を整理させるその作業は、高校からの学びに大きな「基礎」となったと思われる。
 康太は少しでも早く受験を終わらせ、卓球の練習を本格化させようと「特色選抜」を受けたが、内申と作文だけで筆記試験のないこの方式では副教科の持ち点が悪く、落されてしまった。
 付属高校を受けに行ったユウカは、自信があった英語が全く出来ず、「もう駄目だあ〜」と布団の中で泣いたが、なぜか合格。
ユウスケだけが理数科ではなくT類へまわされたが、後は全員志望するところへと進んでいった。


4 高校入学

 「さあ、卓球に燃えよう」「テニス命だ」
高校へ入学して康太も浮かれていた。中学と違い、やはり少し大人になった気分。そして迎えた7月の模擬テスト。康太の校内順位は数学が64位、数・国・英3教科で49位。
「これは・・・・」
康太は納得がいかなかった。中学時代と同じように"そこそこ"の勉強はしていたし、それで「上位」を維持するという「根拠のない自信」はあったのだ。その自信が崩れていった。
ふと見ると、テスト週間でもないのにクラスメートが、休み時間に数学のチャートをやっている
「お前さあ、それ、何回ぐらいやるん?」
「最低でも3回はやるで。難しいとこは5回やることもある」
康太は衝撃を受けた。人はこんなにもがんばっている!
『ありもしない"才能"だけど、少しの才能でも中学時代は何とか乗り切れた。けれど高校からは・・・それじゃあダメなんだ・・・』
康太が「学び」に目覚めた出来事であった。
それからは「自分の学び」を毎日1時間半は、やるようになった。
毎日毎日、土曜でも日曜でも。けれど「がり勉」のイメージはなかった。クラブを終え7時に帰ってくると、
「晩御飯はあとどれくらい?30分?それじゃあ30分勉強してくるわ」
そうやって時間を作っての1時間半であった。クラブもがんばり、友達と遊ぶ時間もとれば、それで精いっぱいだった。

 ユウカは学校が楽しくて仕方がなかった。「自由な校風」が売りの京教で、強制的な勉強はほとんどない。野球部のマネージャーとなり、野球を見たり、部員の世話をするのも面白い。ますます勉強はしなくなっていた。
 コウヘイは受験のストレスもなかったが、変化もなかった。真面目に、ある程度の勉強はこなし、数学は校内では上位にあった。しかしこの時期に「文章を書く」練習をたくさんやらせておけばよかったのかもしれない。
 ケンタと高校からやって来たミクは同じ学校で、硬式と軟式の違いはあっても、それぞれのテニス部に没頭し、勉強はしていなかった。それでもケンタは中学時代の貯金で上位にいた。
ある時、ミクが血相を変えて教室に来て、模試データを私に見せた。
「数学・校内1位」
見たこともない自分の順位であった。そこで「ここぞ!」と、もっとお尻を叩いておけばよかったかもしれない。それ以後1位はなかった。
 ユウスケが1番「勉強しよう」としていたと思う。
『俺は不器用だから・・・たくさんは出来ないけれど、少しずつでも勉強しよう』
そう思っていたようだが、やはり、すぐには結果にはならなかった。


5 準備

 高2になると受験に必要となる理科と社会が登場してくる。理科系の康太の場合、物理・化学・地理だ。それがわかっているので、どの子にも「1年のうちに国語と英語をやっておけ!」と言う。
康太は化学の出だしがよく理解できなかった。
教室で先輩のトモキに聞くと、
「そこはなあ、順番がおかしいんや。そこは先に進んでようやくわかる。気にせんでいいわ」
しかし康太は少なくとも「警戒」はした。それも良かった。
家での勉強は1時間半から2時間と、自然に増えていった。そういう学びの姿勢が良かったのか、この頃から康太は数・国・英の3教科総合で校内1位になっていった。
 そういう康太に刺激されたのか、秋の頃からケンタが「座敷童子」になる。毎日夜の12時まで教室に居残って勉強を始めたのだ。
そのことで父とけんかになった。父は言う。
「いくら勉強といっても、高2が12時過ぎに家に帰るのはおかしい!せめて10時か11時は帰ってこい」
もっともな話だ。私は何も言えなかった。
ケンタには想いがあったのだ。ケンタには障害をもった兄がおり、
「お兄ちゃんは僕が治す」という想いを子供のころから持っていた。
出来ることなら、そうさせてやりたい・・・しかし医学部は具体的に大変だ。その主たる原因は「お金」だ。
公立大学は学部に関係なく、医学部も年額60万円ほど。これが私立だと年額1千万円は覚悟しなくてはならない。それがそのまま
「難易度」につながってしまう。さらにそれをステータスにする人間も出てくるので、「勉強したから」と言って通過できるものではないほどにまでレベルを上げてしまっている。しかしそんなことは、高2のケンタにはまだわかるはずもなかった。
 康太にも世の中のことなど、まだ何もわからなかった。
「やりたい仕事もないし、何をやっていいかもわからん」
それは正直な感想だと思う。それが秋の頃に、「宇宙工学が面白そう」
と言うようになった。それは京都大学の物理工学科で学べる。
「物工・・・・・」
そこもまた「勉強したから」といって行けるところではない。
しかし目標を定めた康太は学びの精度を上げていった。
 同じ3時間を勉強に当てても、その集中力と整理・理解の仕方によって「積み上げられるもの」は全く違ってくる。康太はそれらを見事なまでに処理し始めた。
「暗記モノ」と思われる地理なども、ことごとく「理解」していったのだ。
「このグラフは鉄鉱石。なぜそこで鉄鉱石が取れるのか?地球の内  部構造がこうなっていて、表面の構造がこうだから採取もしやすい。
これはオレンジのグラフ。それは当然のことで、その国の気候風土と条件が・・・・・」
どの教科もそのような理解で進めていく。
数学の復習も抜かりがなかった。教室にある「赤チャート」を勝手に持ち帰り、足りないところを徹底的に復習した。化学は教室の
「大本棚」で「化学100題」という先輩が残した問題集を見つけ、自分でやり始めた。その最初のページには、
「この100題を解けば、"思考系の問題"で、解けない問題などないだろう」とある。相当の基礎力があっても1題にかなりの時間がかかる代物だった。物理も、国語の問題集も本棚にある。
「本当に必要なものは、何でもある・・・」
康太は改めて舌を巻いた。
難儀したのは国語だった。同じ出版社でも、解説者が違うと答えが正反対になることがある。
「これはどうしたらいいの?」
「たぶんそれは・・・どちらでもいいんだな。AでもBでもどちらでも良くて、要はその根拠をきちんと書けるかどうか・・・を試されてるんじゃないかな?」
「ふ〜〜ん・・・」
そんな準備を始めて半年、康太の得点は校内2位をはるかに引き離すまでになっていき、最後の「京大模試」の物理工学科では全国で9位となる成績も叩き出した。
横山は毎週康太の英作文を添削していた。我々の意見は、
「もう康太の力は、我々を超えているかもしれない」
であった。


6 受験

 「座敷童子」を1年も続けたケンタは医学部をあきらめ、工学部に転じた。同じく「父の跡が継ぎたい」と歯学部を目指したユウスケだったが、父に、
「今の時代、歯医者が食っていける補償などない。自由にやれ」
と言われ、やはり工学部に転じた。
ユウカとミクも「最後の追い上げ」に死に物狂いだ。
コウヘイは・・・狙う学部が問題であった。
『変化の激しい職場は無理だ。営業などとてもできない・・・』
出来れば農作物や魚の「品種改良・研究職」がいい。
研究結果が「10年スパン」とゆっくりな業種だからだ。そういう職場だと、この子の力が生かされる。
それぞれの想いを秘めて、センターテストが始まった。

 京都大学ではセンターは英語と国語は4分の1に圧縮し、それぞれ50点満点、社会が素点の100点で200点満点。
2次が数学・物理・化学・国語で800点満点だから「圧倒的2次型」だが、センターでも取りこぼしはしたくない。ところが康太は初めて地理で75点と失敗し、予備校予想ではボーダーから14点マイナスの「D判定」であった。気にすることはないが、康太にはショックだった。模擬テストではことごとく「A判定」だっただけに、「落ちるわけにはいかない」という壮絶なプレッシャーがかかった。
ケンタは神戸大にピッタシの「プラス・マイナス0」であり、
ユウスケ「ピタリ0」の滋賀県立大に絞った。しかしユウカは国語と理科・社会が伸びず、軒並み「マイナス40点のD」であった。
2次では京教は「数学と理科」、奈良教が「数学のみ」となる。
母親は「地方の国立でも」というが、私にその考えはなかった。
『何としても逆転させる』
それには苦手の理科を外し、苦しくとも数学で逆転しなくてはならない。もう、奈良教しか受けるところはなかった。
ミクは国立をあきらめ、私立大に絞り、いち早く合格を決めた。
コウヘイは私立の1次受験では落とされてしまった。


 地理で「思わぬ失敗」をした康太だが、動揺はそれほどなかった。「どの道元々2次勝負」と思っており、残り1ヶ月の調整に入った。
しかし自分でも意識しない重圧はかなりのもので、風邪をひいたりし、食欲が落ちてゆき、体重も減っていった。それはまるで、目だけをギラギラさせて肉をそぎ落としていく、試合前のボクサーのようだった。2次前日は、
『どんな問題でも平常心を保とう。必ず基本に戻って考えよう』
翌朝もそればかりを考えていたら、京大構内へ入ってから、自分がどこを歩いているのかわからなくなったらしい。
初日は午前が国語で、午後から数学だった。国語はいつもどおりに解けたが、数学が恐ろしく難しくなっていた。問題の意味を「翻訳」しなければ1行も解答できず、「部分点」すら取れない。
帰ってきてすぐに私に「計算ミスがないかチェックして」という。
計算ミスはなかった。驚くほどよく答えており、6問中4問を答えていた。この難しさならば2問を答えれば「ボーダー」だし、3問も答えれば「合格」であろうに。
康太はホッとはしたようだが、緊張はとけなかった。翌朝母が用意する朝食も、何も食べられず、お茶をすすっただけで出かけていった。
2日目の午前は英語。これも順当に答えられた。午後は物理と化学。
化学が康太にはとても易しく感じられ、すぐにほとんどを答え、難しくなっていた物理に時間を割くことが出来、じっくりと考えられ、
これもほとんどに答えられた。
すべての教科で、思っていた以上に答えられた・・・・
帰ってきて木幡駅を出た康太の足は軽く、自然に走り出していた。
『解けた・・解けた・・・全力を出すことが出来た・・・』
その想いを私や母に、早く伝えたかったのだろう・・・・・・

 センターで大きなハンデを抱えてしまったユウカは必死の思いで2次試験に向かった。数学だけの試験で300点満点。逆転するには満点近くを取らねばならないが、その自信はなかっただろう。
ところが・・・数学4問は、ユウカにはとても易しかった。すべての問題に答え、翌日私にその解答を見せに来た。
3問はきれいに完答していた。三角比の証明だけが少し論旨を外していたが、ひどい間違いをしたわけではない。はたしてどれほどの減点をされるのか?それが合否を決定すると思われた。
勉強でも卓球でも、なかなか結果を残せなかったユウスケ。
センターでも英語をひどく失敗し、思うようにはいかなかった。
一度もうまくいったことがない・・・そんなことが許されていいのだろうか?フリースペースで一人黙々と勉強し続けた年月は、それでも無駄だったというのだろうか?
彦根まで2次試験を受けに行ったユウスケは、問題を解きながら興奮している自分を感じた。
『わかる・・答えられる・・・解ける!』
数学だけでなく、英語も物理も化学も・・・面白いように解ける。
そんなことは初めての経験だった。すべてを解き終えたときには、合格を確信したという。

 「きっと合格するはず」そう思っていたケンタは、無意識の緊張に縛られたようだ。試験中にはひらめかず、帰ってきて見直すとすべて解けてしまうという最悪のパターンになってしまった。
残念だが・・・仕方ない。「一発勝負」の受験では、そういうことも起こるのだ。「一度で終わり」のはずの入試は、中期と後期試験へと持ち越された。



7 新たな扉を開けて

 ミクは早々と合格を決めてバイトに励んでいる頃・・・
 
悠花が電話をかけてきたのは、発表と同時だった。
「せ、先生!?うか、うか、受かった・・かも・・・」
"かも"じゃあなくて、はっきりと合格したんだろう?

 ユウスケは教室までやって来た
「先生、合格しました・・・」
顔が真っ赤になっていて、泣き出すかと思った。

 ケンタも嬉しそうに電話をかけてきた。
「ありがとうございました・・・・」

 コウヘイは第2志望に合格していた。これまで言われるままに勉強に励み、何一つ文句を言ったこともない。第1志望にはわずかにとどかなかった。自宅のこたつで温まりながら、ぽつりと言った。
「お母さん、俺、浪人していいかな?俺・・悔しい・・・」

 私と康太は細かな雨の中、発表を見に行った。やはり緊張しているのか、会話はほとんどない。
「9割が他府県の生徒だから、たいていはネットで見て、発表には来ないだろう」
そう思って40分前に大学に着き、レストランでカレーを食べながら12時の発表を待った。外にはテレビカメラも見えた。
5分前に掲示板に向かった。・・・甘かった。ものすごい数の人であふれており、掲示板すらどこにあるのかもわからない。
12時ちょうど、前の方で歓声が上がるが、それがどこかもわからない。しばらくすると人が帰りだし、ようやく前へ進むことが出来た。発表掲示板は胸の高さと低く、半円状に張り出されていた。
一番手前が工業化学、次は情報工学だった。
「これや!これや!これが私の番号や!」
女の子が泣きながらバンバンと掲示板を叩いている。
「物理工学はどこなんだ?」
私と康太は人を押しのけ押しのけ進んだが、ようやく最後のところで「物理工学」を見つけた。私は掲示板に飛びかかっていった。
「4264・・4264・・・あった!康太!あったぞ!!」
「ほんま!見つけた?・・ほんまや、これや!これや!!
 ようやく・・ようやく確定したなあ!」
康太もまた、自分の番号を2度3度と叩いていた。

気がつけばどの子にも、それぞれの新たな扉が開いていた。