2011 ドラマ
座敷童子(ざしきわらし)

1 出会い

 土曜日の夜、小学校の体育館で卓球の練習をしていると、小さな少年が入って来た。イツロウである。中1の授業中の雑談で、
「康太は小6だけど、強くなってきたんだ」
というと、イツロウが声を上げた。
「僕も卓球部で、強いんですよ。康太と試合させてください」
そうして本当にやって来たのだ。まだ小さかった二人はコートで対峙した。試合前に少し打ちあう。
その時点で強いのは明らかにイツロウだった。打つボールの強さも動きの速さもイツロウの方が上。ところが試合結果は康太の勝ち。康太は嬉しそうに小5のモトイと何やら話しており、イツロウは大笑いして「照れくささ」をごまかすばかりだった。
それはもう「相性の差」と言うしかなかった。なぜだか康太にだけは勝てない。イツロウも後に宇治市ベスト8の選手になり、高校では康太が後輩になったが、何度試合してもイツロウはついに、康太だけにはほとんど勝てなかった。

 タカシはすごいチビで、歯の矯正のギプスを噛んでいたっけ。
シュウヘイ・ヒロユキ・シュウジ・シュンペイ・・・どの子もおとなしく、目立つ子はいなかった。ヒロユキが「ピアノ小僧」だったなんて6年後に知ったほどだ。
ユキは当時から背が高く、サツキが英語だけに来ていたから、数学ではただ一人の女子として男の子達と共に学び始めた。サツキは木曜の夜は市の体育館でバトミントンの練習があり、中1・中2は数学の授業には出られなかったのだ。
 中学の成績は基準があいまいで、あまりあてにならないが、中1から「5」を上手に取ったのはシュウヘイとサツキ、ヒロユキくらい。
ユキは「学び方」を育ててやらねばならなかったし、他の男の子達は「数学だけ面白い」状態。しかしどの子も「学ぶこと」を嫌がる子はおらず、クラブに勉強にと、楽しく学び始めていたように覚えている。



2 クラス分け

 皆よく学び、確実に力をつけて行き、中3になった。その頃講師を育てるためと、その仕事を作ってやるために、無理にクラスを二つに分けていた。第2クラスにサツキもユキもいた。
 模擬テストを3度ほど終えた夏の終わり、何とも第2クラスが伸びない。中学までの数学を整理・発展させ、まとめ上げる作業が出来ていないのだ。
「俺のクラスの子は・・・ここまで育てばもう、自分で出来るか・・」
私は思い切ってクラスを交換する。サツキやユキは真面目で賢い娘たちだ。少し修正してやるとメキメキ伸び始めた。
ところが・・・元のクラスの成績が落ち始め、冬になる頃には平均偏差値は逆転してしまう。シュウジは同系列の私立高校へ上がるからいいが、桃山自然科学を狙うシュウヘイと西京高校へ行きたいヒロユキは怪しくなり、イツロウは莵道へ進んで卓球も続けようとしていたのに、学校の教師からは「T類も無理」などと言われ始めた。
「勉強量を増やすしかない。家で出来ないのなら、毎日ここへ来て、フリースペースで勉強してみろ」
シュウヘイ・ヒロユキ・イツロウ達は本当にそうした。毎日毎日、何時間も並んで座り続けている。その姿は何かに似ていたのだが、当時の私はまだ、その名前を思い出せずにいた。



3 高校進学

 その生徒をどの高校へ進学させるかは、かなり難しい。「自分で選ばせて、好きなところへ」が聞こえはいいが、たいていそれは「親の責任放棄」か、実は子供を誘導して「親が行かせたいところへ行かせる」ことが多い。
 シュウヘイ・タカシ・サツキは桃山自然科学へ行きたがった。
ヒロユキは西京高校。しかしそれには「桃山や西京の数学の進度が速過ぎる」という問題があった。それに耐えうるのはシュウヘイだけだろう。ヒロユキとサツキはもう少しゆっくりと育てる必要があり、莵道高校の方がいいように私には思えた。タカシは笠取から出て来ると言う問題があった。莵道なら木幡中への送迎バスに便乗すると言う方法がある。桃山だとJR黄檗駅でバスから降りて、それからJRに乗って・・大変だ。イツロウには
「来年康太が菟道の卓球部へ行くぜ。お前はそこで先輩として待ってないといけない。絶対に受かれ!」
とはっぱをかける。ユキの莵道文系とシュンペイの東宇治文理はたぶん大丈夫だろう。
 シュウヘイ・ヒロユキ・イツロウはあまりに毎日フリースペースに座っているので、先輩達と顔見知りになった。タクヤなどには何かと話し相手になってもらう。そしてその姿は後輩たちも見詰めていた。「学びを学ぶ」そんな雰囲気が教室に浸透し始めていた。この子達の「学び」はもう、受験だけのものではなくなっていたのだ。
 シュウヘイはみごとに桃山に合格した。イツロウはT類を飛び越して菟道の理数科に合格した。ヒロユキとサツキは適性検査に失敗し莵道に回ったが、私はそれでよかったと思っていた。他の生徒はそれぞれに第一志望に合格し、ほとんどが菟道のU類となった。
しかしクラスが2クラスに分かれていたこともあり、中学時代の
この子達の様子は、あまり鮮明ではない・・・・。



4 新人

 高校受験前からタイチの相談を受けていた。タイチは進学塾へ通っており、菟道の理数科へ行きたかったのだが、塾側からは堀川への受験を強く勧められた。
「適性検査を受けてダメなら莵道を受ければいいんだし、受けろよ」
「けど、僕なんかが受かるはずもないし・・・」
「いや!君ならきっと受かるから!」
母からそんな相談を受けるが、私はタイチをまったく知らず、
「そもそも合格が難しいし、合格しても堀川の授業スピードについて行けるんですかね?本人が莵道へ行きたいなら、そうさせてやった方がいいのでは?莵道でも十分に勉強は出来ますよ」
そうアドバイスしたが、塾に押し切られ無理に受験し、落ちてしまった。塾の態度が一変する。母は電話の向こうで泣いていた。
「突然『お前が受かる公立高校なんてどこにもない!行ける私立を探せ!』って怒鳴られたんですよ。菟道の受験前なのに、タイチはショックで勉強が手につかないし、塾って、こんな仕打ちをするんですか・・・・本当にうちの子、公立には行けませんか?」
私にも訳がわからなかった。それまで面倒を見てきた生徒だろうに、なぜそんなことを言うのだろう?
「まずは塾に『何を言うか!最後まで面倒を見ろ!』と文句を言いなさい。毎月10万円ほども取っていながら、その言い草は何だ!
って。大丈夫。聞いた範囲の成績だと、きっと莵道は受かりますよ」
母が勇気を出して文句を言うと、後に塾長が謝りに来たと言う。
タイチは莵道理数科へ進学する。やれやれ良かった。これで私との関わりは終わるのだろう。謝ってくれたんだし、そのままその塾へ通い続ければいい。私はそう思っていた。ところが・・・
「当然」とばかりに母は、タイチをうちに送り込んできた。

 シュンペイが連れて来たのが、同じ東宇治文理のコウヘイ。背は高いがおとなしく、数学力はさらにおとなしかった。
『こ、こりゃあ・・・直してやれるのだろうか・・?』
 
その前に本人が電話をかけて来たのがマミ。
「そちらの塾に入りたいのですが、入れますか?」
そんな可愛い声で言われたら、受け入れざるを得ないじゃあないか。
桃山自然科学に受かったようで、優秀なのだろう。一つ上のシンイチローの紹介のようだ。
 少し遅れて同じ桃山からシュウヘイが連れて来たのがケンタだ。
マミと同じく桃山に合格したのだから、さぞや優秀なのだろう。
ところが授業をしてみると・・・・
マミは「言われたことをそのまま覚える」だけで、同じ問題を数字を変えるだけでわからなくなるようなところがあった。思考を広げていくと言うことがどういうことかもわかっていなかった。
ケンタは、後に知ったのだが、塾へ通ったことはなく、
「勉強は自分でするものだ」と言いつつ、ろくに勉強もしていなかったと両親は言った。なるほど・・・今ならよくわかる。
その姿勢はいいが、当然のように基礎力が穴だらけであった。それゆえ思考が先へ進められず、すぐに止まってしまう。
『この2人が合格して、何でサツキが落とされるんだ?
あり得ないぞ。適性検査って、何なんだ?いったい・・・』
あきれるだけであった。まぎれもなくこの段階ではうちの子達の数学力が数段上であった。
 
トモヒサの母が初めて教室に現れた時、私は入塾を断っている。
自宅が宇治田原だからだ。
「近所の塾に行ってください。どうやって通うのですか?車で送り迎えするのなら、そんな親の努力に、私は応える自信なんてありませんよ。私は名人でもカリスマでもない、ただの在野の教師です。ただの職人なんです。職人なりのこだわりで生徒を育てようとはしてますが、何人かの方が言ってくださるほどの自信すら私にはない。
私の元へ通ってきても、点数なんか取れませんよ。どうか、地元で、近くの塾へ通わせてやりなさい」
私は無愛想であったろう。これが電話での依頼なら名前すら聞かない。しかしこの親子のことを知らなかったのは私の方だった。
「宇治田原ですからどこへ出かけるのも不便です。けれど、それでも最寄りの高校は莵道でした。高校へはバスで通わせます。高校からここへは歩いてくればいいでしょう。うちの子、歩くことを苦にしません。帰りは電車で宇治へ戻って、バスで帰らせます。
それに・・・先生のお考えは知っています。ブログを読ませていただいてます。たくさん読んで、その上で息子をここへ通わせたいのです。どうか、お願いします・・・」
反論のしようもなかった。そうか、バスで通って、バスで帰るのか。
歩いてうちに来るのか・・・そうか、それなら引き受けようか・・
 やって来たトモヒサは、田舎の風と草の香りを感じさせた。語学は苦手であり、数学と理科だけを独力でやり、何とか莵道の理数科にもぐり込んだことを聞いた。
数学は・・・やはり「いびつ」であった。英語は「三単現のS」がよくわかっていない。
「やっぱ、断ったほうがよかった?」
なぜだかトモヒサは、初めからこの教室が「尻になじんだ」ようであった。



5 鍛え 育てる

 さあ、本格的に鍛え始めよう。まずはシュウジを何とかしなくてはならない。シュウジが中1か中2の頃、「将棋部にいる」と言うので指してやったことがある。私の「二枚落ち」飛車・角抜きだ。
指し始めるとシュウジは、驚くほど正確に「定石」通りに駒を組み上げていく。ただし・・私の陣形を見ていない。相手を見ずに
「本に書いてあった通りに」進めていく。駒組みが頂点に達し
「いざ、開戦」となった時に初めて、私の陣形が「本の通り」になっていないことに気づいた。・・・どうしていいかわからない。戦いが始まるとあっけなく私に「ボロボロ」にされた。
 シュウジの数学にも同じところがあった。公式はよく覚えるが、応用性と思考の広がりがまったくなかった。問題を解き進めるうちに、どこかで間違えば式がおかしくなり気づくものだが、そこに疑問を持つことが出来ない。何をやっているのかわからない、意味が完全に外れてしまった計算を延々と続けてしまう。それはもはや数学ではない。この子を中3で私から離したことを、私は悔いていた。
「シュウジ、的外れだ。しっかり問題文を読め!」
教えてもいない「公式」で答えだけを出すこともある。
「では、なぜここはそうしたんだ?何?公式だから?
 ・・・全部やり直せ!!」
もはや「いじめ」であった。シュウジは、良くわからないからせめて「公式で」と必死なのだろうが、「答えを出すこと」だけに捕らわれていた。その問題を手に取り、じっと考えてみることが出来ないのだ。私はシュウジの公式をことごとく否定していった。この子を育てなければならなかった。

 イツロウ・タカシ・シュンペイ・ヒロユキ達の数学力もまだまだ育ててやらなくてはならなかった。シュウヘイも、ユキやサツキにも、「数学によって何を学ぶのか」を学ばせたかった。教科とは、その子を育てるための「材料・道具」にすぎない。それを学び、使いこなしてみることで自分の特性を知り、自分で自分を育てることを学ばせなくてはならない。そのためには、さて?何をどうすればいいのだろう?私もまた共に学ばねばならなかった。



6 座敷童子

 座敷童子――家にとりつく妖怪で、子供の姿をしている。
       時々家人に悪さをすることもあるが、福の神であり
       家を繁栄させる。いなくなると家はすたれる。

 最初に教室に「住み着き」始めたのはサツキだった。両親は共働きであり、学校から早く帰っても誰もいない。適性検査に落ちてしまった悔しさもあったのだろう。「出来るだけ勉強しよう」そんな想いが読み取れた。
 学校から直接やって来て、フリースペースではなく、職員室の畳の間に上がり込む。テーブルの上に本やノートをどっさりと並べ、晩御飯の時間になるまで勉強する。疲れたら横になって居眠りをする。ほとんど毎日。サツキの「方向性」は明らかによくなっていた。
 イツロウもまたフリースペースでの学びを持続していた。あこがれの莵道高校理数科に入学し、卓球にも力いっぱい励む。しかし
「第一に、勉強はするんだ」と、心に決めたようだった。
 シュウヘイはそもそも「勉強とサッカーの両立」を目指して桃山高校を選んでいる。2人ともその方向へ走り始めた。しかし時が経つほどに他の部員との軋轢が生じて来る。
「クラブを真剣にやるわけでもなく、勉強するわけでもなく・・・
 なんだ!あいつらは!こんなクラブなら辞めてやろうか!」
私にはあまり言わなかったが、悩みは深かったようだ。
「クラブは辞めるな。悩むだけ悩めばいい。成長できるだろう」
その程度のアドバイスだけで、好きにさせておいた。

 莵道のブラスバンドはその厳しさが有名であったが、ユキは数学と英語の週3日の授業を受けられた。クラブに手を抜いたわけではない。それでも出来る限り教室も利用し、畳の間でサツキと共に学ぶ姿が見られた。ユキにとってはそれが特別なことではなかった。
「え?勉強も音楽も、私には大切なもの・・普通でしょ?」
何の「力み」もなかった。
 ケンタ、コウヘイは信じられないほど力が弱かった。タイチは子供の頃から何をやらせてもそうであったようだが、手が人の3倍ほども遅い。なぜそんなに遅いのかはわからないが、とにかく遅い。
マミは言われたことを覚えることはしたが、その意味を考えることが出来なかった。丸暗記してしまう。高校受験まではそれでも通用したが、これから先はそれではダメだ。どの子も修正してやり、育ててやらねばならなかった。
 この子達は私の方針と、この教室の在り方・雰囲気を気に入ったようだ。いつも誰かが教室におり、学ぶようになった。
「まるで座敷童子だな」
いつしか私はそう呼ぶようになっていた。

 力の弱かったコウヘイだが、私の数学を本当に楽しそうに聞いてくれた。トモヒサの「我流」は修正され、タイチの手も少しずつ速くなっていった。皆が「学び方を学ぶ」姿勢に納得し、それを身に付け始め、確実に力をつけていき、3年生になった。
 3年生の数学はセンターテスト対策の「センター数学」と「数V」の2教科。13名全員が二つとも登録しようとする。どうしよう?
数学だけを考えるのならそれでもいいが、私は1人1人のバランスを考えた。数Vは取らねばならないが、センター数学は・・・
「タカシ、お前は英語を補強しろ。シュンペイとサツキは物理をやった方がいい・・・」
センター数学を取らせたのは文系のユキと、もう少し見てやる必要のあるタイチとコウヘイの3人だけだ。あとの10人には取らせなかった。それで良かったかどうかは、よくわからない。しかしどの子も「教わるところ、自分で学ぶところ」を見極めようとする姿勢に変わって行ったのは確かだ。
 夏になる頃から「座敷童子」に拍車がかかって行く。ケンタは毎日教室で「夜12時まで」勉強しようと決めたようで、最後までそれを、大晦日も元旦も関係なく貫いた。シュウヘイ・イツロウ・ユキ・トモヒサ・サツキ・タカシも毎日座っている。晩御飯はカップ麺ばかり食べているので、時々食事に連れて行き、栄養補給をしてやらねばならなかった。フリースペースや空き部屋の使い方など、
「教室の利用の仕方」は私の想像以上にうまくなっていった。
電子レンジ・電子調理器・冷蔵庫を上手に利用する。問題をコピーするコピー機は使い放題。おかげで「コピー代」は通常月の4倍にもなったが、なに、それは「必要経費」だ。
フリースペースには問題集をたくさん並べ「指定席」としている。
それでも飽き足らずにケンタは、2階の一部屋を「個室」にしてしまった。夜遅くまでは付き合い切れず、
「最後になる奴!電気とエアコンを切ってから帰るように!」
「さようならあ〜」
いつも誰かがいるのだから、泥棒だって入りにくいだろう。
私も生徒もこの雰囲気が、学びの充満するこの教室が大好きになっていた。



7 受験

 どの生徒の受験も「ギリギリのもの」にはなる。それぞれが思いのままに学べるほどに力をつけ、サツキとユキはいち早く国立大学の推薦入試を受けに行った。私はユキの方に「分があるか?」と思っていたが、ふたを開ければサツキだけが合格をした。
『1人でも決めてくれたか、やれやれだな・・・』
私よりユキの方がショックと悔しさが大きかったはずだが、ユキは気丈に耐えていた。まだまだ試験は続く、泣いている暇はない。

 重苦しい時間を過ごし、センターテストを迎えた。多少の上下はあっても大崩れする者はおらず、シュウヘイとケンタは「狙い通り」の得点を取り、タイチとユキは「上出来」であった。
さあ、「2次出願」が難しい。
 ケンタはこの10ヶ月、京大一本であった。獣医志望のシュウヘイであったが、前期は京大に置いた。可能性を広げたようだ。
どの子もそのようにして、それぞれの出願を決めた。最後まで迷ったのがタカシ。前期に神戸大を置けば後期まで潰される恐れがあり、前期に京都工芸を置けば、合格しても悔いが残る。とても難しいが、ここは私が鬼と化し「神戸は諦めろ!」と強く言ってやるべきだった。つぶさに単科ごとの得点率を見れば、やはり苦しかったことがわかった。

 前期前の私大入試は「練習モード」。お気楽に受けに行ったのがよかったのか、立命館や関大はホイホイと合格してきた。ただし半数ほどは行く気もなく、トモヒサは本当に手付も支払わなかった。
ケンタにいたっては同志社大学の1時限目が苦手の英語。それを終えた後、父に電話を入れた。
「あかん。やる気もないし、受かりもせんわ。このままあとの教科は放棄して、帰ってもええか?」
父に怒鳴られて最後まで受けはしたが不合格。他の私立は受けていないので、ケンタも「国立だけ」になってしまった。

「覚悟を決めた国立前期試験」を迎える。この子達の学びの方向性の良さ、「座敷童子」のごとき学びの量の多さは、誰よりも私が知っている。全員合格させてやりたい・・・
2日間の試験を終えて、イツロウは激しい疲れで泥のように眠ってしまった。逆にケンタはシュウヘイや仲間とそのままゲームセンターやカラオケへ行き、30時間も遊んだと言う。試験に向けて解き放ったエネルギーの止め方もわからなかったのだろう。

 後期試験の発表こそまだであったが、すべての試験を終えた皆と鞍馬の露天風呂へ遊びに行った。入試は・・修羅場であった。
その喜びも落胆も激し過ぎ、私は言葉に出来ない。例えば後期試験は、シュウヘイのとこで50倍ほど、イツロウとユキで10倍超の倍率だったのだ。押し寄せる津波を押し返してゆくような、この子達の激しさ・強さを表現する言葉がない。私とこの子達だけが知っているだけで十分なのだろう。
その割にその時の皆は「あっけらかん」としていた。
『やれることはすべてやった。もう、これ以上は出来ない』
皆がそう思っていたのだ。
ランチの精進料理に感動し、何杯もお代わりをする。露天風呂では2時間も、子供のように遊ぶ。
いや・・・・その横顔は子供ではなかった。はっきりと青年の顔つきになっている。
「先生、長い間・・ありがとうございました」
バカ言うな!・・・泣いてしまうじゃないか。
感謝するのは、私の方だ。こんなに逞しく成長してくれた。
その「学び方」は、きっとお前達の人生を支えてくれる。
お前達と集い、共に学び、最も幸せだったのは私であった。
その幸せな場面を100分の1もここに表現できないのが悔しい。

進学おめでとう。幸せな時間を、ありがとう。
             ( 塾長  河原 博)