河原シュタイナー教室 2009 夏
農夫
長野の3つ手前、今井という駅に降り立つと、小柄な藤井さんが出迎えてくださった。子供の頃から虫が大好きで、「昆虫の写真家」として生きてこられ、70を超えた今でも現役として活躍されている。以前に出会った私をなぜだか気に入ってくださり、「仲間に紹介するから、長野へ来ませんか」と誘ってくださったのだ。
駅から歩いて10分ほどの「ひとミュージアム」という小さな美術館へ行った。そこにはその村出身の版画家・上野誠の作品ばかりを展示してある。村の人も知る人が少なくなった上野を「忘れさせたくない」と、館長が私財を投げうって建てた美術館だ。今は有志の人の「年会費3千円」で細々と運営されている。
中庭で宴会が始まった。美術館を設計した建築家が肉を焼いている。設計のコンセプトは「金がない」だったそうだ。楽器の演奏がとてもうまいアイヌの血を引く大工さんがいる。「大工が出来なくなったら楽器で食べていけないかな?」と楽しそうだ。サラリーマンもいる。元大学教授もいる。皆、藤井さんから聞いていた"愉快な仲間"で、素朴に、しかし懸命に大地に根ざして生きる人達である。
「今日は何の集まりでしたっけ?ま、飲めれば何でもいいけれど♪」
無理やり私が自己紹介させられると、
「げ!あなたが河原先生?藤井さんからよく聞かされてますよ♪」
すぐに打ち解けて飲んでいると、頭にタオルを巻き、日焼けした精悍な顔に口ひげを蓄えた農夫がやって来た。私にはすぐにわかった。この人が「ひげタツ」こと、鈴木さんだと。会いたかった人だ。
43歳の鈴木さんは「少しでもうまい米を」と、5年前からは合鴨を田んぼに入れ、"無農薬米"を作り、自ら立ち上げた「バジルクラブ」を通して希望者に年間販売している。評判が良くなってきていくらでも作付を増やしたいところだが、毎日死に物狂いで働いても、一人で維持管理をするには限界があり、もうこれ以上増やせないという。
雛で田んぼに入れた合鴨も、秋にはとても大きくなり、普通は鍋にして食べてしまうのだろう。しかし初めて合鴨を入れた時の鈴木さんは、キツネに殺された合鴨ですら食べることが出来ず、住職を呼んで葬式を上げた。朗々と唱えられるお経。泣きださんばかりに神妙な顔でうつむく鈴木さん。祭壇には合鴨の剥製が・・・仲間はその様子に「笑いをこらえるので必死」だったという。
「鈴木さん、うちの高校生に将来は百姓をやりたいという子がいる。けど、今の日本の農業ってひどいでしょ?食べていけるのかな?」
「それは"腹の据え方"によるんじゃあないですか。さっき先生も言われたように、今の日本は贅沢すぎます。たとえば僕なら年収が百万円もあれば十分に生きていける。決して生活保護には頼らない。何を保護しようってんだあれは?生きていくことくらいは自分でする。そう腹をくくれば、妥協することなく、自分の目指す農業が出来ますよ」
これほどの"正解"を最近私は聞いたことがない。
「けれど、子供が大きくなったら教育費もかかるよ」
「皆知らないだけで、やる気があれば教育は無償で受けられますよ。僕はそうやって大学へ行きました。僕の子供達も、学びたければ、そうさせますよ」
大地に根ざし、まっすぐに前を見て、懸命に生きている。そう思った。これほど"すがすがしい人"に出会うのはいつ以来だろう?毎日毎日田んぼや畑に出て作物の状態を観察し、必要なだけの水や肥料をやる。決して甘やかすことはないが、愛情に満ちて育てている。生きて行くにはそれほど多くの金は要らないから・・・
その中庭に集まった人達は、皆そう言う人達だった。うれしくて泣きそうになってしまった。まだ、こういう人達だっているんだ。
私もそうやって生きてきたつもりだが、どこかに妥協が出てきていないだろうか・・・頑張ろう、頑張って鈴木さんのような人間が出てくるような教育に挑戦し続けよう・・・・
「うちで採れた酒米で造った日本酒です。僕に酒を造る技術はないので、信頼のおける酒蔵で造ってもらいました。味を見てください」
その酒は果物のような香りがした。少しも雑味はなく、とても美味しい本物の酒である。それは鈴木さん"その人"の味なのだろう。
この酒に負けないような生徒を、私はいったい何人育てられたのだろう?酒は心の奥までしみとおっていった・・・・
まだまだ至らぬ教室ですが、少し中を見てください。
( 塾長 河原 博)