2008 ドラマ

その後

「先生は食べませんか?」
鳥釜めしをのぞきながら、トモエが私に聞く。
「お腹いっぱいだ。食べ切れないなら食べてもいいけど」
「いいえ、食べられますよ」

 トモエとフサヨを連れて、笠取の蕎麦屋へ来ていた。
蕎麦と釜めしの取り合わせはおいしいが、量が多いかな?
余計な心配だった。二人とも、何とも幸せそうな顔をして、どんどんとたいらげていく。
 中学時代と比べると、フサヨはずいぶん体重が増えたが、トモエは中1の時とそれほど変わらないように見える。
そう、二人と出会ったのは、もう10年も前のことなのだ。

1 出会い


1997年3月、タカヒロやタカコら7人の中にトモエもいた。
色白で、ややぽっちゃりなのは当時からだ。数学の力はまだ弱かったが、にこにこと楽しそうに考えており、クラスの雰囲気を和ませてくれる存在だった。そう、このクラスはそれほど出来る子はおらず、皆が自信なさげだったのだ。後に京都大学へ進んだタカヒロですらそうだった。
何とかこの子達に「生きていく上での核」となるものを創り上げておきたい。強くそう思ったことは、なぜか覚えている。

中2に上がった頃、フサヨが入って来た。ひょろりとして、眼光鋭く、生意気そうな娘だった。この年齢では珍しく、たいていのことを自分で決定してゆく。ただ、まだ判断力は狭く、ミスだらけではあったろうが。
『まだまだ、皆これから鍛えて行かなくてはならない』
そう思っていた中2の半ばころ、トモエの母がやって来た。トモエの父は料理人なのだが、よくある話で、店と折り合いが悪くやめてしまったらしい。無収入になるので塾は続けられなくなったという。
性格や気立はいいのだが、まだ力が弱く、右も左もわからないトモエ・・・今この子を放す時ではない。そのまま話をした。
「1教科1000円ください。この子はもう少し鍛えなければなりません。どうか、もう少しあずからせてください」
母は恐縮されていたが、その条件でトモエを通わせてくれた。
 なぜ私は、そんな条件まで出してトモエを引きとめたのだろう?
たぶん、このクラスの誰もが、危うく思われたのだ。タカヒロやフサヨなど、放っておいたらどこへ行くかわからない。
まだ考える力も弱く、これからこの子達に降りかかってくるであろう諸問題に、正しく対処できるほどの強さがなかった。
どう育てればいいのか、私にも正解などわかるはずもなく、ただ感覚を頼りに、数学を通じて一つ一つ鍛えて行くしかなかった。

2 高校へ行く


フサヨは当時から海外に興味があり、
「高校からでも、海外に留学できひんかなあ?」
とにかく海外ならどこでもいいらしい。
「ばか。日本のこともろくに分かってないガキが、海外なぞへ行ってどうする?せめて大学からにして、近くの高校へ行け」
 フサヨは高校の心配はいらず、てっきり菟道へ行くものと思っていたら、西宇治を第一希望にしていた。
家から出て、菟道高校の前を通り、倍以上向こうまで行って通う。
『バカじゃないのか?』
そう思ったが、フサヨは当時からそう言う娘だった。「普通」は嫌なのだ。
 危なかったのはトモエだ。「勉強する」と言う感覚が今一つつかめておらず、菟道のT類があやしい。いざとなったら私学なのだろうが、学費も高いし・・・
それよりも、トモエは公立に上がれなければ、ついに「学ぶこと」がわからないままではないかと危惧していた。それはタカコも同じだった。「それなりに」ではあったが、出来るだけ勉強させて、何とかギリギリ、それぞれの高校へ進んだ。
タカヒロは・・・気が回らなかった。放ったらかしにしておいたら、勝手に理数科へ進んでいた。



3 大学受験


高校時代に「学ぶこと」を身につけて行ったのは、タカヒロだけだった。トモエもフサヨもタカコも、お尻をバンバン叩くのだが、何しろ高校が楽しい。語学などはボロボロなのだが、数学だけは校内で10番台だったりする。
「いいか、よ〜く聞け。お前達は決して数学は出来てないからな。勘違いするなよ、まわりがバカなだけだからな」
そんな私の説教など、全く耳には届いていなかった。
「懸命に学ぶ」
この子達がそのことに気付くのは、いつのことだろう?

 さすがに目の色が変わって来たのは、高3の夏が過ぎるころだった。進路を決定しなくてはならない。
タカヒロ、フサヨ、タカコは方向が決まっていたが、トモエがなかなか決まらない。相談に来た。
「先生、私・・・高校の数学教師になれへんかな?」
「バ・・・無理!生徒に教わった方が早い」
「中学の教師では?」
「数学の教師は無理だって。教師になりたいのか?」
「公務員になりたい。事務職でも何でもいいけど。ねえ先生、私に出来ることって、何?私に何が出来るやろ?」
「・・・どうしても教師にと言うなら・・・小学校の教師なら、可能性があるかもしれない。それにしても、今の勉強量ではだめだ。大学にも受からない。死に物狂いで勉強してみろ。佛教大学の教育学部をねらおう」

 高校からは父も再就職し、正規の料金を持ってきたトモエだが、そう言う不安定さが嫌なようだった。「堅い仕事に」という思いが強かった。ただ、それにしては子供すぎ、自分の位置も、なすべきことも分かっていなかった。
『大切なことを、この子に伝えきれていない・・・』

 受験までの3ヶ月、トモエは良く勉強した。それこそ寝る間を惜しんで勉強していたと言っていいだろう。
しかしそれは、私が提示したものをこなすだけのもので、自ら探し出してやったものではなかった。仕方なかった。それでも懸命にこなすことしかできなかった。

4 卒業


 受験を終えて、鞍馬へ温泉に入りに来ていた。
山門前の料理屋で精進料理を食べる。受験の垢落としだ。
タカヒロ、フサヨ、タカコは希望のところへ進路が決まったが、トモエは失敗し、ほとんど無試験の短大に進むことになった。
一応、教員免許は取れる。
しかし私の中では、自分に対する怒りにも似た気持ちが渦巻いていた。
『私は「自ら学ぶ」ということを、この子達に教えることが出来たのか?出来なかったぞ。かわいそうに。この子達は右も左もわからぬまま、未知の世界に踏み出さなければならないぞ』

思わずトモエをつかまえて言っていた。
「トモエ、教師になりたいか?なら、この3ヶ月お前は良く勉強したけど、それを2年、続ける覚悟が出来るか?短大の中だぞ。皆、遊ぶからな。誰も勉強なんかしないと思え。そんな中で、その勉強を続けられるか?それが出来ないなら、教師になれもしないし、なれたとしても、使い物にはならん」
「勉強・・・します」
「それが出来れば、2年後、教員採用と4年制大学編入の二股をかけよう・・・死ぬほど勉強してみろ。今まで見えなかったものが見えてくるから」
「はい」

そうは言ったものの、出来っこないと思っていた。誰が出来る?1日中の勉強を、2年も続けるなんて・・・
私は「きれい事」を言っただけなのではないか?
でも、このままでは、トモエがあまりにも不憫で・・・
京阪電車で帰って来て、木幡で降りた。
 「じゃあな」
 それぞれの未来は、それぞれに託すしかなかった。

5 その後


タカコは看護学校へ進んだが、半数いる「社会人組み」の真剣な
学びに度肝を抜かれた。社会人から看護学校へやって来る人たちは、その意気込みが違った。自分の親くらいの年齢の人もいる。
高校では見られなかった「自分から進んで学ぶ」姿は、驚きでもあり、新鮮でもあったようだ。少しずつ自分の学びも深めていけた。

 タカヒロはテニスにどっぷりとはまる。大学の解放感もあり、勉強は少しもしなかった。
「かなりやばい」
と気が付いたのは2年生の半ば。単位はほとんど取れていないし、授業を聴いても全くわからない。
これは理科系の大学生にはよくあることだ。初めこそ、それほど難しくもなく、高校の復習みたいなことをやっているのでなめていると、急に難易度が上がる。突然にだ。
大学は、親切なことは何もしてくれない。それでいいと思う。自分で学ばなければ前には進めないのだ。
 タカヒロは毎日マクドへ通い、コーヒー1杯で何時間もの勉強を始めた。わからないテキストは、わかるまで読み返すしか方法がない。そのうち胃が荒れて、穴まで開いた。
「いやあ〜、きついっすわ」
放っておいた。それこそが本当の学びだ。

 トモエは2年間音信不通。たまにフサヨに聞くと、学校だけでも10時間は勉強しており、自分たちが誘っても出てこないらしい。
たまの休みは自分のこずかいのためにアルバイト。アクトパルなんかでも働いていたようだ。それ以外は死に物狂いの勉強・・・
『トモエが?どこまで続く?』
2年続いた。後に聞くと、京都教育大教授の話を聞く機会があり、感銘を受け、どうしてもその教授のもとで学びたくなったようだ。
結果的に高校を卒業する時、私に言われたことが実行できた。
 教員採用試験の1次に合格した時、ようやく報告に現れた。
「これから2次試験ですけど、教育大の2年へ編入試験も受けるんです」
びっくりした。編入と言っても、私は仏教大あたりをイメージしていたから。
「そうか、よく頑張ったな。もうひと踏ん張りだな」
高校時代にはぼんやりしていた目線がすっきりしている。内面の成長が顔つきを変えていた。
 結局採用試験には落ちたが、教育大への編入には合格した。もちろんトモエの短大からは空前の出来事であり、たぶん絶後であろう。
その年の木幡小学校の運動会。娘の応援に来てみると、後ろから声をかけられた。トモエだった。大学の授業の一環だろうが、週に一度ボランティア教員として教えに来ていて、運動会も手伝っているようだ。娘のこともよく知っていた。手にはボランティアの報酬だろう、もらった弁当を持ち、ボランティア仲間とテントまでいき、談笑しながら食べている。
『もう、放っておいても、大丈夫だな』
心が軽くなった。

6 さらに先へ


 まっ先に就職を決めたのはタカコ。もう1年勉強して、保健師の資格も取るのかと思ったが、
「それには成績上位に残らないといけないけど、社会人の人に勝てない。もういいんです、先生。将来必要に思ったら、その時は頑張るから。今は早く働きたい」
正月に、出来たばかりの新教室のテラスでそう話したタカコは、青谷にある病院へ、4月から赴任していった。
 その2年後の正月、家族で稲荷神社へ参拝し、駅へ帰ってくると、タカコとバッタリと会った。夜勤明けで友達とやって来たが、体力が続かず、稲荷山の頂上へは行けず、途中で引き返して来たらしい。
年末年始はほとんど休みを取れず、大変だけど、それなりに楽しく働いているようだ。あの、ちいちゃかったタカコがねえ・・・

 夏の終わり、ずいぶん太ったフサヨが教室に現れた。1年間フィンランドでボランティア活動をしてきたという。念願の海外だ。
英語も話せないフサヨだから、分厚いフィンランド語の本を買ってきたが、2ページで挫折。
「ま、行ったら、何とかなるさ」
昔からそう言う娘である。
フィンランドでは幼児から中学生まで、日本語を教えたり、遊びの相手をしたり、色々と仕事はあったようだ。福祉を専攻しているので、肌で感じる勉強になっただろう。
 ホームステイで宿泊費を抑えるのだが、食事は全般的に質素であった。向こうの一般家庭では普通のことで、パンとスープだけ。
たまに焼き魚でも出ると、
「うわあ〜、今日は豪華だねえ」
食事のことなど意に反さない。昔からそう言う強さを持っていた。
ボランティアに向いているのだろう。だからフィンランドでは細いままだったが、フサヨも人の子、日本へ帰ってきたら甘いものをたらふく食べ、一気に太ったらしい。この1年の経験を生かして、大学院で研究を深めるようだ。
 滋賀大に残って院へ進むつもりだったが、教授に言われた。
「お前みたいに優秀な奴が、うちに残ってもいいのかな?前期募集は終わったけど、阪大の後期募集を受けてみないか?あまり取ってくれないけどな」
フサヨもそれならと、フリースペースで毎日勉強し、受験した。
たくさん受けに来ていたが、たった二人だけが合格した。そのうちの一人がフサヨであった。

「トモエはどうしてるかな?卒業のはずだけど」
「私も気になるから、誘ってみますね」
フサヨが連絡を取ると、すぐに出てきた。10月のことだ。
伏見の料理屋へ向かう車の中で、恐る恐る聞く。
「教員採用はどうだった?」
ここのところ正規採用は抑えられており、3年ほどはたいてい取ってもらえない。
トモエは小さく笑った。
「合格しましたよ」
「へ?一発で合格か?すごいじゃあないか!」
運も良かったらしい。今年から始まった「大学推薦」。それをもらうと、採用試験を免除されて合格となる。小学校教諭希望は教育大学だけでも20人はいるが、二人だけの推薦だったようだ。かなり厳しい中、トモエはそれを勝ち取っていたのだ。
「高校を出る時、先生から『2年間、死ぬほど勉強しろ』って言われて、その通り必死になってよかった。私なんかが教育大までこられて、採用試験の推薦までしてもらえて・・・私なんかが・・・
けど、先生、3年ほど小学校で勤めたら私、養護学校へ行こうと思う。今まで色々活動して来て、それの方が私に向いているし、私の務めだと思えるようになって・・・」

5年前「堅い公務員になりたい」としか言えなかったトモエが、そういうことを言うようになっている。私は感動していた。
タカヒロもトモエもタカコもフサヨも、それぞれに、懸命に学ぶ時期が必要であった。高校時代とは違う、真の学び。皆が高校時代より、はるかに勉強している。
では、高校の勉強は必要ないかと言えば、そうではない。
ものすごく必要だ。
ただそれは、その後に現れる「真に学ぶ」ことを支えられるものでなくてはならない。
それは「○○大合格」の学びとは、残念ながら、少し違う。それはいつになるかもわからない、ひょっとしたらないかもしれない
「自分が本当に学ぶ時」を支える学びだ。常にそれを目指してはいるが、いつ現れるかもわからないから、私も不安だ。「その時」が来てくれることを願い、懸命に鍛え、毎年送り出す。

 タカヒロは院2回生となり、ドクターへ行くか、民間で就職するか揺れている。
大学の研究職で残りたいのだが、それは5年ごとの契約制であり、実績が出なければいつでも首になるという。
「40歳で、妻も子供もいて、首になったら・・・」
誰でもがそうだが、自分に自信があるわけでもない。どうするか?
民間でも働きが悪ければ首になる。先は・・わからないなあ。
しかしこの子達は、そのつど自分の方向性どおりに進んで行くのだろう。「真に学ぶこと」を経験したのだから。

 「雀の子」みたいに小さかった中1の頃。その頃から人生のほんのひと時を私と共に歩き、いまや大人になったこの子達。もう私の「手」など必要はない。そうなってもらわないと困る。こういう卒業生を見る時、少しだけ「自分は、ひどく間違ったことはしなかった」とほっとする。
お前達、人生をしっかりと歩いて行っておくれ。願うばかりだ。