2005 河原シュタイナー教室 ドラマ

自分という扉  (16期生達)



1 出会い 

母親に連れられてきたまだ小6のトモミが、唇を尖らせて笑うこと、横割れスカートからポッチャリした足が突き出ていたことは良く憶えている。しかし、まだ小さかったはずのタクヤもマサノリも、どうやって出会ったのか印象にない。
言い訳だが、この前後のクラスにとても気を遣わなくてはならない身体障害児、不登校児などがたくさんいたし、このクラスには「サッカーの大物」であるタンザニア人とのハーフがおり、入学前からこの子の生育歴の確認、今後の指導方針などをさかんに話し合ったりしていて、「普通の子達」のことはあまり憶えていないようだ。
毎年新中1を迎えるとき、私は「スズメの子」を思い浮かべる。まだ小ちゃくて、とことこ歩き、ピーピーとよくはしゃぐ。
しかしこのクラスはそう言うことが少なかった。はしゃぐこともなく、言われたことをやりはするが、どこか心はここにない。
「小5ショック」で算数が壊れている子ばかりなのは毎年のことだが、生命力そのものが弱く感じられ、「なんとかせねば」と思うばかりであった。
 そんな中、何も考えていないのかと思えるほど天真爛漫なトモミ、不器用にくそ真面目なマサノリ、コツコツと積み重ねるタクヤ達は、オール3であったとはいえ数学のおもしろさに気づき始め、「学ぶ方向」をほんの少しだけ理解した。それはその後のこの子達を思えば、とても大きな中1の1年間であった。


2 中2 波乱の幕開け 
 
中2になってすぐ、静かにタケシがやってきて、また、目も顔も丸いクミコがやってきた。二人ともまだ力も弱く、不器用ではあったが、きちんと教科に取り組もうとしていた。しかしその頃から学校が荒れ始めたのだ。
 いつの時代も中2は「中だるみの1年間」ではあるが、この学年の前後3年ほどは「全体的な甘ったれ」のピークの世代であった。
「イヤなこと(勉強など)は、やらなくていい」
「人生は好きに生きればいい」
「人に迷惑かけなければ、何をやってもいい」
「学校の先生は、何をやっても怒らないぜ」

そんな浅はかでわがままな価値観など通用するはずもなく、いたるところで衝突を起こすようになっていく。
 家庭では「プチ家出」、男女関係の乱れ、喫煙。
それはそのまま学校でも繰り返された。授業参観に行ってみると、ひとクラス40人ほどで、前の2〜3人は猛烈に勉強している。残りの半分は寝ている。起きている子は大声で好きな話をしたり、廊下でたばこを吸っていたり・・・それは異様な光景であった。
 
この教室でも毎回終了5分前に来て、宿題だけ写して帰る子までが出始めた。
こんな時指導者はひるんではならない。生徒達は巧みに大人の「値踏み」をしているのだ。少しでも隙を見せれば生徒は勝手に動き出し、授業にならなくなるだろう。強引だろうが、へりくつであろうが、頑固であろうが、私は私の価値観を生徒達にぶつけ続けた。


3 高校受験 
 
中3になる頃、どうしても授業をさぼる子は教室をやめさせた。私の力ではどうすることも出来なかった。
 タクヤは彼女を作ることを憶え、学校では勉強しなくなり、髪の毛が茶色くなっていった。
しかし教室にはきちんと来ており、数学に触れることでギリギリ踏みとどまっていた。遊んではいたが、甘ったれているだけで、その姿勢に「ずるさ」はなく、髪の毛の色など相手にせず無視していた。

 その頃に現れたのがナオキ。中学受験で京教に入学したという。
線の細い、のんきでおとなしい少年で、成績を見るとオール3に理科と社会だけが4と5。
「理科と社会だけで中学に合格しました。英語と数学は全然わかりません」
 おもしろい子であった。やらせてみると、ま、出来なくはない。
がんばらせれば相当に理解が進みそうに思えたが、ナオキは「がんばることが嫌いな子」であった。性に合わないのだろう。無理せずマイペースで進んで行く。ま、それも良い・・・

 受験年度のせいか、価値観を変えない私にあきらめたのか、教室内では波乱もなく授業は進んでいったのだが、「おもしろい、楽しい」というものでもなく、どこか「仕方なく」というものであり、私の中には焦りがあった。
『もう少しだ・・・もう少し理解が進めば、この子達の力は揺るがなくなるのに・・・』

 この子達にも焦りはあっただろう。勉強は出来ないし、学校の先生は相手にしてくれないし、クラブもやりたいし、好き勝手に生きてみたいし・・・
 それらはすべて甘えなのだが、好き勝手やってきた結果勉強でも、学校生活でも、友人関係、家庭でも摩擦を生じ、訳がわからなくなってタクヤはさらに荒れていった。
 髪の毛は茶髪から金髪に変わり、ピアスの穴を開けるために耳には太いボールペンが突き刺さり、学校の授業中は床に寝そべって妨害した。
たいていの場合それらは子どもが大人になるために必要な「荒れ」であり、はしかみたいなものだから私はうるさく言わないで受け止めているのだが、しかしその心の中に
「学校で勉強しなくても、河原先生が高校に入れてくれるだろう」
そんな甘えもあることを知り、私は切れた。説教をするのではない。こんな時私は猛烈に怒るのだ。
「たいがいにしやがれ!今までこの教室に『高校へ入れてやった』生徒などいない。みんな自分で駆け上がっていったんだ。お前達のことも『入れてやろう』なんて考えたこともないし、考えない。誰かに入れてもらいたいのなら、今すぐ塾を変われ!」

 タクヤを含めこの子達にはとても厳しい言葉であったが、それが私の本心だ。この子達は「自ら育つ」ことを憶えるべきで、楽をして誰かに運んでもらうことなど憶えるべきではない。

 数学はますます深みと広がりを持たせていった。
「出来ない子には基本を」
と人は言う。しかし私には「出来ない子」という発想がない。これくらいのこと、誰にでも出来る。理解できる。
基本?その深みと広がりこそが基本だ。公式を憶えることが、簡単な計算が出来ることが基本だ、という発想も私にはない。

 例年よりさらに厳しく鍛えていった。うるさく怒鳴っていった。
この子達にはただ厳しく難しいだけで、楽しくもうれしくもなかったであろう。
 内心ハラハラドキドキであったが、それぞれギリギリ、希望の高校へ進学することが出来た。


4 高校での再スタート 

 高校入学を決めて、クラスの半数が去った。その子達こそ、これから大きく伸びるためそれぞれが課題や障害を持ち、私がものすごく神経をすり減らし、手をかけなければならなかった、いわば中学時代の主役達ばかりであった。
「高校からはクラブをメインにする」
「やらされる勉強はたくさんだ。自分で勉強する」
そう言えるように育てたのは私だが、やはり少々淋しかった。
何人かの母親は言った。
「うちの子は迷っています。河原先生が『来い!』と言えば行きます。きっとうちの子も行きたいのです」

 私は意地になっていた。後3年間この子達と泥だらけになることなど、私にとっては当然のことなのだ。それを今更「来い」なんて・・・
また、私の本音の中には、この子にはサッカーの可能性を確かめさせたい、この子には自立の道を・・・そんな気持ちも確かにあった。まだ数学など出来もしないこの子達に私の高校の数学をぶつける自信がなかった。そう、私には勇気が足りなかったのだ。
その言葉はついに私の唇からもれることはなかった。
マサノリとタケシは東宇治文理系、クミコは英語科、トモミはT類、ナオキは京教の一般コースに・・・その5人だけが残った。
「自分の力で何かを」という自信も力もまだなくて、不器用でもコツコツやることだけが取り柄のこの子達だけが・・・

 残った子達も去った子達も、さあこれからという入学3日目のガイダンスで、「自分のやり方で勉強するから」と去っていったタクヤのタバコ所持が見つかり強制送還され、無期限停学。退学も視野に・・・自宅謹慎中のところを見舞いに行った。タクヤは自室で春の宿題をしていた。
「宿題してるのか?えらいな」
「・・・他にすることないし・・・」
「こたえたか?」
「・・・はい・・・」
「それが世の中だぞ。自分の好きなことでも、それがルール違反ならはじき出されるんだ。そう言うことをお前はたくさん学ばなくてはならない・・・今退学しちゃあいかん。嘘でも『もうしませんから』と、しっかり学校に謝れ。そして3年間、しっかり勉強させてもらえ・・・」
「はい・・・」
それを最後に、もうタクヤと会うこともないのだろうと、その時の私は思っていた。

 残った5人は気持ちを新たにしていた。ノー天気なトモミだが「もう少ししっかり勉強する」・・・とは言え、なかなか実行できなかったが。
クミコは英・国・社に全力を向けようとし始めた。
タケシとマサノリはそれぞれ弓道部、陸上部へと入り、勉強と運動両方を力一杯やろうと決意している。
ナオキは・・・こいつだけは・・・相変わらず力みも何もなかった。まったくの自然体。家でファミコンには熱中するが、勉強に熱中することはない。それを見る母は、たまに「キィ〜〜!」となって私にメールする。
「私の言うことなど聞きもしない。先生からきつく言って下さい!」
私だって何度もきつく言ってるんだけどねえ・・・しかしナオキは自分なりに勉強しているつもりだし、理解力も悪くはないし・・・
これがこの子のスタイルなのだから、これでいいのだろう。ナオキを見る私の目までもが、中学時代から何も変わってはいなかった。


5 意識、価値観のぶつかり合い 

 高校からの新しい顔もいる。中学時代は他塾へ行ったり、家庭教師をつけてもらったりしていた子達だが、他塾から移ってくる生徒に共通する弱点を持っている。
「解き方」ばかりを気にし、「数学の構造」は何も知らないままなのだ。その結果どういうことが起こるかというと、同じ問題でも数字を変えただけでわからなくなる。例えば「円周角は中心角の半分の大きさ」だと教え、中心角が60度の場合円周角は30度になる。
では、中心角が50度の時は?・・・わからない・・・
簡単に言えば、その様な状態だ。他塾からやってくる子のことごとくがそうであった。

 恐ろしいことはこの子達の担当者達が、問題の数字が変わるごとに、徹底的に、何時間でも説明したと言うことだ。
丁寧に教えた?ちがう・・・それはこの子達から「思考力」を奪うだけだったのだ。教科とは暗記をするものであり、考えるものではないのである。しかもその暗記すら出来ておらず、「わかった気に」されているだけであった。
 説明を聞くだけの「まったく受け身な」教育は、「話のきき方」にも支障をきたした。「理解を進めながらメモを取る」ということが出来ず、意味を考えもせず、ただノートに書き写すだけなのだ。
これは・・・頭脳を働かせるところがなく、この教室の高校の部でのスタートにはかなりのハンデになる。

新しいテーマに取り組むとき、たぶんこの教室ほど詳しくその構造に迫ろうとする塾は他にはない。解説し、図を描き、例題を示し、なぜそうしなくてはならないのか、その先でどう発展して行くのか、じっくりと説明する。聞くばかりでは良く分からないから、その都度黒板で実際に問題も解いて、自分の指先でも触れさせる。
ところが・・・その解説が聞けていない。黒板に立つとすぐ、
「どうやって解くの?」
初めはこちらが信じられなかった。たった今説明したばかりなのに、例題と同じ問題で、数字がちがうだけなのに・・・

そんなとまどいは私だけではなかった。タクヤ達、去っていった生徒達もそれぞれの高校で、まわりの生徒達の「わからん」という声に、
「え?何がわからんの?今説明してもらったじゃあないか。え?
ここがわからん?だって・・・それは中学時代から当たり前のことじゃないか?」

何がわからないのか・・・それがわからない・・・去っていった生徒の何人かからそう言う声を聞いた。
「俺もバカだけどさ、あいつら・・・何なんだい?」

話を聞くこと、理解しようと自ずから動くこと・・・すなわち自立。
私も十分には手助けできなかったが、去っていった子達も、まわりの生徒とはすでに次元が違っていたと言えよう。

 高校から来る生徒の多くは1年近く、私の指導に不満たらたらであることが多い。
「考え方なんてどうでもいいのに。解き方を教えてくれたらいいのに、『それはお前の仕事だ』なんて、全然教えてくれん」
それで母親から抗議も受けたが、その子の生命力を弱める指導なんて私には出来ない。気に入らなければいつでもやめてくれ。
 ほとんどの子はやめなかった。ノートを読み返す。やはりそこには
「考え方」しか書かれていない。仕方なく自分で考えてみる・・・
賢くなるには、こういう事を繰り返すしかないのだろう。1年経つと、その子の顔は見違えるほどたくましくなっていた。

 マサノリもまた、思い悩んでいた。
「運動と勉強、バランス良くどっちにもがんばってみよう」
そう思って陸上部へ入ったのだが・・・

 「ゆとり教育」以降、勉強にも運動にも「二極化」が進んでしまった。基本的にU類の子はクラブに入れないのだ。
「クラブにはいるなら、クラブに専念しろ。塾で抜ける?とんでもない!そういう人は勉強に専念してくれ」

両立が一番正しいとは思うが、ま、その言い分もわかる。
しかし、その先がある。
「クラブでがんばっていれば、勉強などいくらでも取り戻せる。国立大学でも医学部でも、行きたいところへいけるのだ」

いったいいつの時代の話だい?3年間ファミコンを極めれば、勉強などしなくても国立大学へ行けると言うのと同じだよ。
結局監督とそうしたそりが合わず、マサノリはクラブを辞める羽目になってしまった。


6 自分の中にある扉 

 高2になろうとする頃、マナミがやってきた。
マナミは莵道高校理数科。素晴らしい経歴であり、うちの子達など行けもしなかったところなのだが・・・
 その時マナミが打ち込んでいたのはソフトボール、ピアノ、なぎなた等々・・・絶対多すぎる!
「将来の進路はどうしたい?」
「まだ全然わかりません(ニコニコ)」
・ ・・うちのトモミも相当な「天然」だが、この子はその上を行っているかも知れない・・・私の数学の授業で居眠りしたのは後にも先にもマナミただ一人だ。数学は出来なくはないのだが、どうにも勉強時間が足りず、他の教科はガタガタであった。
「今はクラブや習い事で忙しいけど、3年になったら勉強するし、先生、何とかこらえて!」
 どうしろってんだい!家に帰ったら疲れ果ててすぐ爆睡するし、どういう方向へ進むかも決めてないし、時間が足りないぜ・・・
黙ってニコニコしていたら名前の通り愛らしいのだが、か、勘弁してくれ・・・

 これは全員大学などには行けないかも知れない・・・そう言う焦りも感じながら、トモミには勉強時間増を、タケシ・ナオキ・マサノリには知識の深さと広がりを、マナミにはギリギリのバックアップを目指し、一歩ずつ歩みを進めるしかなかった。イヤになるほどのろのろとしか進まなかったが、それでも先へは進んでいたのだろう。

 そんな11月、タクヤが戻ってきた。
「どういうことだ?俺は3年からは取らないぜ」
「一人でやろうと思ってたんですけど、やっぱり無理で・・・学校のテストは出来るけど、模試の成績を見るとそんなものは嘘だと分かるし・・・どうしていいかわからない・・・どういう方向へ進んでいいかもわからなくなったんです。もう一度ここで勉強させて下さい・・・」
「・・・本気で勉強するんだな?特別扱いはしないぞ。どれほど自分の知識が整備されていないか思い知って絶望するぞ。それでもいいんだな?」
「はい」

 私の予想は当たっていた。
「俺、数学の成績は5なのに、まるっきりわかってなかった。こんなに差があるなんて・・・」
初めの頃はそう家でこぼしていたらしい。私や大山の言っていることがまるっきり分からない。復習事項なのに・・・
しかし2年間自分一人で学んだことは、この子をたくましくしていた。自分の足で歩くしかない・・・そう言うことが心底わかっており、全然前が見えない中ではあったが、その足を前に出すことが出来た。とにかく前へ進もう。自分の未来の扉を開けるために・・・


7 それぞれの方向

 3年の夏頃にはそれなりに学力が安定し、自分の進路についても考えられるようになった。トモミの表情もずいぶん落ち着き、
「へえ〜、6年も見ているけど、こんなに美人だったっけ?」
ま、番茶も何とやら・・・

 トモミは福祉系。このジャンルは今難しい。「甘ったれた人権」が横行しているように私には見える。行ける範囲で少しでもしっかりした大学をと考えると、龍谷か仏教が上がってきた。得点的にはギリギリか、多少不利だろう。
『これは最後までしんどくなりそうだなぁ〜』
そんな私の気持ちを知ってか知らいでか、トモミは光華女子大の推薦入学を受けると言い出した。
「いいのか?そこだと実力で入れるから、龍谷や仏教を落ちてから行ってもいいんだぞ?」
「そうしろと母も姉も猛反対だけど、その程度の大学差なら、勉強することは同じでしょ?私は、勉強はする。受験は速く終わらせたい」
そう言えたのがトモミの成長であろう。

 後の連中は・・・大変だ。ナオキ、タケシ、マサノリは相変わらずぼんやりしているし、タクヤはまだまだ基礎学力も得点能力も高めないと行けないし・・・マナミは約束どおりクラブを終えてから猛勉強しだしたが、どうにも時間が足りそうもない。焦りが空回りし模試の得点は伸びず、それでも
「教師か警官・・・公務員になれれば・・・」
初めてマナミの方向性が見えてきた。

 オープンキャンパスでは良いこともあった。龍谷へ出かけていったタクヤはそこで、部品を組み立てる催し物を見つけた。たくさんの大学生や高校生にまじってタクヤも30分の制限時間で競争してみると・・・完成したのは大学生一人と、後はタクヤだけだった。
相当うれしかったようだ。家へ帰って、
「何となく車を作りたいと思っていたけど、他にもたくさんおもしろそうなことがある。河原先生も『行けるかも』と言うし、俺、電子情報科へ行きたい・・・」
もっとも高校の教師からは龍谷など受かるはずがないと思われていたようで、その名前など最後まで出ず、どうしても受けるというと
「せめて少しでも受かる可能性のある学科にしてくれ〜」
と言われたそうだが・・・

 マサノリはかなりバラバラな選択をしようとした。
「学校の先生に『鳥取大を受けないか?』と言われたので、オープンキャンパスに行こうかと思います」
「何をしに〜?そこへ行って何かいいことある〜?」
すると少しして
「阪大を見てきます」
「何をしに〜?そこへは行けないぜ〜?」
すると、さっさと大阪電通の推薦入学を決めてきた。私としては龍谷か立命館を考えていたのだが、親の意向もあり、どうしようもなかった。

 クミコは同志社一本槍・・・ナオキとタケシは何となく電子情報系で、タケシは京都府立か京都工芸繊維がベストだが、ナオキは難しかった。
 神戸大や大阪市立の工学系なら十分合格するだろう。しかしそれらは通うことが出来ず、それなら京都工芸繊維へ家から通った方がいいようにも思え・・・そこに大山の一言。
「ナオキの英語は京大の2次で十分に合格するレベル」
私と三谷はものすごいプレッシャーを受けた・・・ナオキが京大の数学・物理に対抗できるのか?
「じ、自信ないよ〜」
しかし受けさせてやりたい気もする。前期は京大を受け、後期に確実なところを受けることになるのだろうか。
「・・・好きにして良い」
結局はナオキに下駄を預けてしまった。


8 センターテスト、絶望的なハンディー

センターテストを無事に乗り越えるのは、たぶんナオキただ一人だろうと確信した11月、私は密かに数学を方向転換させた。
このままでは国語・理科・社会の失点を数学で吸収しきれない。そうかと言って数学を減らしても、もうそれらの勉強は間に合わない・・・2次の数学までも利用して、それらの失点を吸収する作戦に出たのだ。簡単に言えば2次での一発逆転ねらい。数学は2次問題ばかりをやらせ始めた。センターの数学はいくらやっても、せいぜい10点ほどのプラスしか望めない。ならば2次で50点プラスをねらったのだ。マナミの顔を見るにつけ、
『無謀だ〜、引き返せ〜』
と、私の心の声が叫んではいたのだが・・・

 センターテストが終わった。クミコは英・国・社でかなりの得点だったが、それだけではわずかに同志社にはとどかなかった。
英・数・理のタクヤは失敗して潰された。国立組は・・・
ナオキがちょうど8割り。『やっぱり京大のボーダーラインだ〜!』
タケシはちょうど7割り。
『ふむ、予想通り。これで10点ほどのハンディーで済む』
マナミもこの7割りが私の予想であり、ねらいだったのだが・・・その得点は6割り。
『げ!・・・そ、そこまで取れなかったかぁ〜〜』
私の予想を大きく上回ってしまった。これでは40点は足りない・・・
 事実上「絶望点」であった。同じようなレベルの子が受けに来る中で、それだけの得点を挽回するのは普通、不可能なのだ。 マナミなど進路指導部では
「奈良女?この得点で?バカ言うなよ!浪人したいのか?」
悔しいが「最もあきらめの悪い」私でも、頷かざるを得ない・・・
マナミも私も、どこかであきらめたと思う。それが良かった。すっかり力みがなくなり、リラックスして最後の仕上げに取り組めた。2次まで残り1ヶ月少々。急激にマナミの中の何かが整い始めていた。
『でも、まさか・・・間に合わないよなあ〜』


9 開かれた扉

 クミコは同志社系列ばかりを5つも受けた。自信がなかったのだ。ところがふたを開けてみると、すべてに合格していた。これには本人も私たちもびっくり!余勢をかって京都府立大にも合格し、受験は全勝。
 龍谷を受けに行ったタクヤ。センターはひどかったし、そもそもテストで「手応え」など人生で一度も感じたことがない。
数学の問題が配られてきた。
「おや?」裏から透けて見えた・・・解けた!試験が始まると、他の問題もバリバリ解けた。英語も化学も簡単だった・・・
生まれて初めての「手応え」。帰ってきたタクヤはその夜、興奮して眠れなかったという。みごとな合格であった。

 ナオキは前・後期とも工芸繊維においていた。拍子抜けしたが、
「京大は2次に自信がないし、神戸や市立は通えないし、受験を速く終わりたいし・・・」
工繊の前期は2次テストがない。センターだけで決まるのだが、その日「のそり」と教室にやってきて「合格しました」
最後までナオキはナオキであった・・・

 マナミは奈良女の2次へ。つもりにつもった鬱憤を晴らすかのように、数学でフルマークだった。他の教科もグイグイこなし、とんでもない逆転劇を演じてしまった・・・こんなこと、そうそう起こるモノではない。
「キャ〜、キャ〜!!」いくらでも叫ぶが良い・・・
タケシも後期で京都工繊に合格。この子達はすべての大学の扉を開けてしまった。

 信じられない・・・本気で「どの子も大学には行けないかも知れない」と心配していた。
 どんな人間も人生の節目節目で、いくつもの扉を開けて、それを通過して行かなくてはならない。いくつもあるすべての扉を開けるのではない。選択し、必要な扉だけを開けるのだ。生きる力の強い子なら、大学の扉など開ける必要はないだろう。
 この子達には、大学の扉を開ける必要があった。この先いくつも出会うであろう人生の扉を開けて行くには、まだ不器用すぎて、まだまだ力も弱く・・・せめて大学で、もう少し力をつけさせてやりたくて・・・・不安と焦りと、時には絶望感にさいなまれながら、共に歩いてきた。「自分で扉を開ける」という感触をこの子達に味あわせたくて・・・

 この子達は望みうる最高の扉を自力で開けてくれた。気がつけば身体も大きくなり、したたかさも、たくましさも増している。どうやら生きていけそうだ。これからも辛く、苦しいことばかりだろうが、人生の次の扉も自力で開けてくれることだろう。そう感じると、これから先、何があるかなど分からないが、今だけは・・・ホットすると、ひとしずくだけ涙が・・・・


 おめでとう、お前たち。良かったなあ。
「バカ野郎!」怒鳴ってばっかりだったのに・・・おもしろかったなあ、楽しかったなあ。
今まで・・・本当にありがとう。